第28話

「むー、水樹さぁ」

「……何だよ」

「どうして普段からこういう格好しないの」

「……」

 どうして怒られてるの。

「絶対損してるよ」

「大げさな……」

「ちっとも大げさじゃないですぅ」、と拗ねたような声を出すいい年した女子高生。

 思わず目を逸らしてしまう。「……というか俺、今手持ちないって」

「別に試着してみるだけならタダでしょ」

 ちなみにこの場所は三軒目のアパレルショップ片隅。俺はここ一時間ほど、今まで訪れるどころか視界に入りもしなかった店を梯子し、結菜の選んでくる一揃えの衣類とともに試着室へ押し込められるということを繰り返していた。

 改めて、彼女が指差した鏡に映る自身の姿を眺め直す。なるほど確かに、普段の俺からは考えられない変貌ぶりかもしれない。しかしだからと言って。

「別に見せる相手がいるわけでもなし」

「うるさいな、私に見せなよ」

 やだよめんどくさい。と言いかけた表情を読まれて。

「私、水樹の、彼女さん」

「……」

 以前と同じように、あくまで建前でしょと返しかけて、そう言えば実情も統一されたのだったと口ごもってしまう。

 まぁ、それで何かが変わるということもないつもりだったのだけど。

 ……。

 一瞬脳裏を過ぎた光景は、自身が見たわけでもない昨日の泣き出しそうな横顔。

 それでもこの距離感に、一線を引こうとして。

「姉貴とは、」最低とも言えそうな言葉を。「部屋着でしか会わないし」

「……」

「……」

 彼女の沈黙を鏡越しに盗み見たけど、その無表情からは何も読み取れなかった。

 唐突に。

「ユキ姉ぇも褒めてくれると思うよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「じゃ買ってくるか」

「え」

 俺は即断した。

 慌て始めたのはむしろ結菜の方。

「ちょ、ちょっと待って。さっきお金ないとか言ってなかった?」

「夕飯代があるから」

「食費削るの!?」

 試着室のカーテンを閉じかけた俺の腕を、必死で食い止める幼馴染という。当人同士にも嫌な構図が、そこには出来上がってしまっていて。

 なんと言うか、結構焦る。

「考え直しなよ水樹! 私言ってみただけで、それ大して格好良くないし」

「言うなよ、そういうこと直接に……」

 傷付くだろ。

 俺じゃなくて、いつの間にか周りで聞き耳立てて少なからず迷惑そうにしてる店員たちが。

「……あ」

 その辺りで我に返ったのか。ようやく離してくれたものだから、思わずそのままカーテンを閉じてしまう。

 布越しの静寂。向こう側も落ち着いたらしいのを確認して、さっさと着替えてしまう。

 それからしばらくして、しかし俺が服を片手に出てきた時、目の届く範囲に幼馴染は見当たらなかった。

 商品を戻して探し回ってみれば、彼女は店外吹き抜けの手すりに背を預ける格好で、スマホをいじりながら待っていた。こちらを見つけて。

「結局買わなかったんだ?」、と。

「……」

 照れ隠しにしても質問がひどかった。

「……何さ?」

「いや……、別に」

 いい時間だし、帰ろうか。とそのまま背を向けられる。返事も曖昧なままに彼女の後ろへと続く。

 エスカレーターに乗りながら時計へと目をやれば確かに、もう帰らないと夕飯を作る時間がなくなってしまいそうな頃合いだった。

 しかし今更に、こんなデートで良かったのかと不安になってしまって。

 だからというわけでもないつもりだったけれど。

「泣いてたんだって?」

 帰り道の道中。俺はとうとう尋ねてしまう。

「……」少し驚いたように振り返った。「誰かに見られてたのかな?」

 答えずに。

「結菜は俺のこと好きなの?」

「……気持ち悪いこと言わないでよ」

 と、苦笑いに。されどそんな誤魔化しで、どうしようもなく俺は安堵させられてしまって。

 私ね、と。

「お兄ちゃんが死んで以来、涙腺が壊れちゃっててね、いくらでも泣けるの」

「……じゃあどうして」「世界が嫌いなままだと、」

 微笑んで。

「私は嫌いなものに囲われたまま生きざるを得なくなる。だから私は世界を好きになることにしたよ。でもやっぱりそれって嘘だから、感情が軋みを上げて、たまに生きてる意味がわからなくなってしまうんだ」

「……」

 じゃあどうして。愛してもいない誰かと付き合ってまでこの世界に生きようとするの。

 そう尋ねるだけの覚悟が、俺にはなかった。

 代わりに。

「結菜は……、もし自分が誰かに殺されるかもしれないってわかったら、どうする?」

「……とりあえず警察に電話するかな」

 覗き込めば、からかうような瞳と出会って。

 ため息混じりに。

「そういうのは無しで……呪いみたいなもので殺されるとしたら、結菜は逃げようとする?」

「……なら、たぶん逃げない。水樹は?」

「迷ってる」そして、「俺、もしかしたら小宇佐先輩に殺されるかも」

「……呪いみたいなもので?」

「たぶん、呪いみたいなもので」

 言ってしまったあとで、そのあまりに馬鹿げた響きに苦笑してしまう。

「じゃあ、ずっとその相談がしたくて。だから今日の水樹は優しかったのかな」

「……信じるの?」

「信じてないけど。でも、もし本当なら」

 選ばれた水樹が少しうらやましいかなって。

「……今のところ。先輩の話が本当かどうかも疑わしいんだけどな」

「ってことは、向こうが手間取ってるの?」

「殺せるほどには、俺の本質がつかめないんだと。だからしばらく付き合ってって」

「あぁ、そんな理由だったんだ」

 呆れたように頷いて。少し考えた様子を見せたあと。

「……というか本質がどうこうってさ、それ水樹が偽名名乗っちゃったせいじゃない?」

「……」

 まさかそんな理由で、とは思いつつ。もしかしたらその通りかもしれない気もして。

 そのうちきちんと自己紹介してみようか、なんて考えていた脳裏へと。

 それで、さ。

「水樹はそんな風に逃げ続けてでも、この世界に生きていたいと思うの?」

「……正直、あまり」

 唯一の心残りたる姉貴は、俺が死んだらきっと一緒に死んでくれるだろうし。

 なんてことを言葉にすれば、まぁそうだよね、と。

「ただね。やっぱり世界を愛せない人間に生きる資格なんてないんだよ」

「……世界に愛されなくても?」

「もちろん全肯定じゃないよ。愛してるからこそ、諦めずに世界を変えていこうと試みるんだよ」

 沈黙があって。二人分の影が夕焼けの暗がりに遠く途切れていた。

 息苦しさを誤魔化すように、深く息を吸い込んで。

「結菜なら、それができてしまうんだろうな」

「うん、やるよ」

 水樹を利用して、他人を騙して。

 それでも私は、お兄ちゃんが産まれて死んだこの世界にしがみついて生きていくんだ。

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