第23話

「少し整理してみようか」と、姉貴は言った。

 先輩宅から帰ってきて一通りの家事をこなし、いつもと同じく姉貴の部屋にて夕飯を囲った席でのこと。

 ずびし、なんて口効果音とともに鼻頭が指差されて。

「その転校生ちゃんとやらはみずくんの絵を描くことで、みずくんそのものを殺そうとしている」

「……」

 改めて言われてみても現実感はわかず、姉貴お得意の予言(世迷言)のようにしか聞こえない。

 それはともかく。

「絵を描くだけで人は殺せるのかな」

「無理なんじゃない」と、あっさり言ってみせておきながら。「凡人ならね」と、続ける。

「天才なら不可能を可能にできる?」

 思わず含まれてしまった俺の嘲笑の響きに、姉貴は苦笑しながら。

「……芸術っていうのはね。人の想いの結晶なんだよ」、と。

 その手元には、もういらないからと結局押し付けられてしまった先輩のグロッキー帳。少しめくって、本当に生き物の画が一枚もないね、なんてぼやいて。

「感情は伝染するよ。私はみずくんが悲しそうな顔をしていると、悲しくなる。でもよくよく考えてみると、他人の表情という客観的視覚情報が自身の内面へ結びつくまでの間には結構複雑なプロセスがあるはずで、実際生まれたばかりの赤ん坊なんかは他人の痛みを想像できないの」

 何故なら。

「人は自分の痛みを介さないと、他人の痛みを想像できない」

「……」

「人が他人の表情から感じるのは相手を蝕む、あるいは自身にも降りかかるかもしれない痛みだし、他人の笑顔に感じるのは自分へも与えられるかもしれない報酬への期待でしょう」

 ちょうどそれは、赤子が鏡写しの虚像から自我の形を学ぶように。

 それでね、と。

「芸術はきっと必要以上に感情を媒介するよ」

「……」

 目の前に掲げられたのは幾度見ても紙の奥。すぐそこに息づいてるとしか思えない猫の鉛筆画。

 くず入れの中から永遠に抜け出せなくなってしまった猫と、目が合う。

「キャンパスに描かれているのは、あくまで鉱石をすりつぶしてペースト状にした砂の練り物。でもそれら無機物の色彩を、私たちは景色や人物として誤認する」

「それは、その形を模しているから」

「でもあくまで本物ではない、ある種の祈りでしょ」

「……」

「そして他者の祈りに真の意味で向き合わされた時、人はその望みに同化して。同じ非現実をこの世界に夢見てしまうよ」

 私たちはみんな、現実に絶望しているんだから。

「……でも、それだけじゃ、」

 不十分でしょう、と続けかけたのを遮られて。

「ううん、それだけで十分なんだよ。奇跡ってのは本来、望むだけで起こせるんだから」

「……いやいやいや」、うっそだぁ。

「嘘じゃありませーん」、と拗ねたような声を出す成人済み女性。

 続けて。

「今や私たちの当たり前になってる、飛行機で空を飛ぶことだって、電話で遠くの人とお話するのだって、誰かがそうありたいと願った末に行き着いた未来じゃん」

「それは」いくらなんでも飛躍に過ぎる、とは思うけど。

「何ならたとえみずくんに彼女がいなくても、彼女ができたぜ、なんて学校の屋上から叫んでみたら。たぶん次の日からみずくんのあだ名は『彼女持ち』だよ」

「……」

 少なくともそっちは明らかに違うでしょ。

「人を殺してしまうほどの感情だって、絵を介せば伝わってしまうかもしれない」

「……伝わってどうなるの」

「さぁ? そこはほら、その人が絵に閉じ込められちゃうとかじゃない」

「でも……、いくらなんでもさぁ」

「実際、みずくんの目の前でこの猫ちゃんは消えたんでしょ?」

「……」

 姉貴の言いたいことは(万歩譲って)わからなくもないし極論(どこかの心霊時空でなら)あり得ない話ではないのかもしれないけれど、やはりどこか素直に頷けないものがある。

 そんなことを考えていた目の前で。

 姉貴はその絵を真っ二つに引き裂いた。

「……何やってるの」

「やっぱり、こんなんじゃ生き返らないよね」

「むしろ今ので死んじゃったんじゃ」

 肩の辺りで痛ましく裂かれた猫は、血を流して慟哭するでもなく、命の存在感さえないただの破れ紙でしかなかった。

「でも絵に描かれるってことは、結局最期はこんなふうに呆気なく殺されるってことと同義でしょう?」

「……かもだけど」「だからさ」

 と。

「逃げてよ、みずくん。あなたを害するものすべてから、本気で逃げ切って見せて」

 そう唐突に伸ばされた手と真剣な声音が、俺の頬を撫でる。

「……ユキ姉ぇ?」

「どうしたって無力な私は、みずくんを助けてあげられないしさ」

 一緒に死ぬことはできるけど、と。

 聞かせるつもりもない囁きを続けられたから。

「俺はそれだけで」「でもやっぱり、それはただそれだけのことでしかなくて」

 こちらの条件反射に、震える声音で。

「死んじゃえば、やっぱり。それは何の価値もないことなんだよ」

 と。

「…………」

 沈黙。

 長い沈黙。

 そしてため息。

「逃げろって言われても……姉貴はこの家から出られないじゃん」

「違うよ。みずくんが私を捨てられないだけじゃない」

「……いくらなんでも大げさだよ、ユキ姉ぇは」

「そうかな? 最悪。ある朝目が覚めたら、すでに転校生ちゃんの絵に閉じ込められちゃってるかもなんだよ?」

「そんなオカルト……」

 なんて呟いていた不意打ちに。


 実際私みたいな存在もいるわけだしさ。


 と。

「……」

「……」だから、

 そういうのはルール違反でしょ、って。

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