第22話

 案内された先はだだ広い屋敷の片隅。コンクリート造りの床ごと半地下になっているガレージだった。

 その鉄扉の少し手前で小宇佐氏は立ち止まって。

「ノックは要らないよ。どうせ聞こえていないだろうから」

 と言うものだから、こちらも足を止めて訝しむ。

「ついてこないんですか」

「私が入ると怒られる」

「……」

 そんな危険地帯に放り込まれようとしていたのか、俺は。なんて心情が顔にでも出てしまったらしく、言い訳のように。

「父親と彼氏では違うだろう」

「……」

 そもそも俺は先輩の本当の彼氏ではないという事実を早めにそこはかとなく理解していただかないと、知らず外堀りばかり埋められていく予感があった。されどまぁ、今はそんなややこしい話をするだけの余力もなく、小宇佐氏だってすでにこちらに背を向け歩き出していて。気付けば俺は、冷たい廊下の真ん中に一人取り残されている。

 もう隠す相手もいないため息をひとつ。諦め混じりに目の前の鉄扉を開いた。

 存外重かった扉がゆっくりと退けられたその先は、アトリエというよりは倉庫のような趣で。しかしあえてそれを否定するかのように、殺風景な灰壁のあちこちへと、いくつもの色彩キャンパスが立て掛けてあった。

 その真ん中。

 彼女は椅子に腰掛けた猫背のまま、ただひとつのキャンパスに見入っていた。

 恐らくこちらが入ってきたことにすら気付かず、そのまま絵画に吸い込まれそうなほど微動だにしない背中へと。

「先輩」

 声を掛けて、それでもすぐに振り向くことはなく。現実へ戻ってこようとするような間があった。

 ゆっくりと振り返る。目が合う。口が開く。

「君、」

「はい」

「名前は」

「……はい?」

「誰だったかしら」

 答えに詰まる少しの間、混乱と戦ううちに。

「思い出した。君は吾郎くん」

「……」

 どうやら先輩は絵に見入るあまり、束の間、俺の名前を忘れていたらしい。一応、仮にも彼氏の身分でありながら、誕生日どころか名前から忘れられる俺の扱いもなかなかに酷い。

 まぁその彼氏、偽名なんだけどさ。

「父との話は終わった?」

「あれは話というか……」

 思わず言葉を途切れさせてしまう。黙り込んでしまった俺の視線を追い、あぁこれ、と。

 彼女がずっと見ていたのだろうその絵画には見覚えがあった。

「『マリア』、ですか」

 それはついこの前、詩織が俺に見せてくれた油絵だった。

 ただし想像していたよりもずっと小さな絵だった。先輩の影に隠れてしまう程度の大きさ。しかしそれ以上に、実物は生々しい陰影があって。絵の具でなく本物の血肉で描かれているような。

 そんな感想を口にしてみれば。たぶん、と。

「君が見たのは描きかけのもの」

「描きかけ?」

 確かに言われてみれば、今目の前にある彩色の方が記憶のそれより高密度な気も。

 なんて考えていた思考へと割り込むように。

「あの時はまだ命を描き込めていなかったもの」、と。

「……」、そう言えば。

 俺は確か、ここに先輩の母親がいると聞かされ連れてこられたのだった。

 そしてこの部屋には見渡す限り、先輩と俺と。その聖母画のみ。

 ……なるほど。そう納得しかけた脳裏へと。

「帰るの?」

 抑揚のない唐突な問いかけは、暗に帰れと言われているようにも聞こえた。

 思わず、少し藪を突いてみる気になる。

「その前に一応、先輩のお母様にも挨拶しておこうかなと」

「母は留守なの」

「でもここにいるって聞きましたよ」

「……」

 珍しい顔が見られた。こういう怒り方をする人だったのか、なんて。

 しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には苛立ち混じりのため息に代えられて。

「父の言葉を鵜呑みにしないで」

 君には関係のないことだから、と。そう言われるものだから。

「本当にそうですか?」

 なんて、やはり土足で踏み込んでみたくなる。

「でも聞くところによると、俺って先輩の彼氏らしいじゃないですか」

「……」

 しばしの間、睨まれる。

 改めて見てもこの人の顔は端整で、少し不機嫌そうに歪むだけでも大層すごみがある。

 されど案の定とも言うべきか、ひとつの感情が長続きするタイプでもないらしく。

「まぁ、いいか」、と。

 ……いや、いいのかよ。

 投げやりなまでの呟きに続けて。

「私の母は、半年ほど前に失踪したの」

「……」

 そして先輩は自身の過去を語り始めた。

 ちょうど私がこの絵を描き終えたのと同じ日だったわ。これは私が生まれて初めて描いた、命ある者の絵。どうしてか今まで、一度も誰かをモデルに絵を描いたことなんてなかったのよ。いいえ。描こうと思えるほど興味の湧く他人が私の周囲にはいなかった。

 ただし母だけは特別だった。私はあの人が大好きだった。

 母以外のすべての人が憎かった。いつの日か彼らが、私から母を奪い去ってしまうように思えたから。もちろんそんなものは所詮、長いこと引きずり過ぎた幼い妄想でしかなくて。いつの間にか年老いてしまった私は、世界が自分の思い通りならないことをすでに知っていた。

 だからこの絵を描いたの。あの人のすべてを独り占めするつもりで。誰にも奪われない場所に隠せる、私だけのママが欲しくて。

 それが私の愛だった。

 だけど描ききってみたら、本当にあの人を独り占めできてしまった。この世界から消えて、私だけのものになってしまったあの人は、私以外の誰の手も届かない場所に閉じ込められてしまった。

「それ以来。私は絵が描けなくなってしまった」

「……………………」

 色々なことが俺の中で繋がりかけていた。ほとんど妄想のような、先輩の抱える悪夢そのもののような。しかしはっきりとそれを言葉にしてしまえば、それこそ本当の現実になってしまいそうな気がして、俺は言うべき言葉を見失い続ける。

 しばらくのち、どうにか絞り出せたのは。

「迷ってるんですか?」

「……」

「自分の愛が正しい形をしているのか。迷ってしまったから描けなくなって、だからきっと先輩は俺に愛を尋ねたんだ。違いますか?」

 彼女は答えず、そして唐突に。

「吾郎くん、君は」


 芸術が人を殺したって言われたら、信じる?


「……」

 いつか尋ねられたのと同じ問いかけ。しかし俺はもう、それに答えることができなかった。

 先輩は俺の沈黙を気にした風もなさそうに。

「私はいつか、あなたを殺してしまうかもしれない」

 私が誰かの絵を描くということは、たぶんそういうこと、と。

 一息に情報を詰め込まれたせいで、上手く頭が回らなかった。恐らく俺は、彼女が言わんとしていることを、本当の意味では理解していないのだろう。

 そんなことを思っていれば。

「ねぇ。ちょっとそこに立ってみてもらえないかしら」、と少し先の床を指差される。

「……はい?」

「描いてみるから」

 何の屈託もなさそうに、芸術家先輩はそうのたまった。

「……今の話を聞いて俺が快諾するとでも?」

「嫌ならいいわ」

「……」

 目が合って。試されているような視線だった。

 少し考えた末、結局はため息を吐きつつその場所へと立つ。

「……」

「……」

 何の前置きもなく、硬筆が紙を擦る音に晒され始める。

 ステンレス作りの厨房で惨めに解体される豚肉のような気分だった。

 ふと。どうして俺はこんな場所に存在するのだろうか、なんて疑問が浮かんでしまう。

 どうして姉貴のいない場所に、俺は独りきりで立ち尽くしているのだろうか。

 ひどく馬鹿げたことをしているような気がしてきた。生きることも死ぬこともすべてがくだらなくて、ただここには姉貴がいないというそれだけがひとつきりの真実で。

 先輩がその絵を描き切った時、俺がこの場で消えるにしろ、損なわれるにしろ。早く描き終わってくれないかとそればかりを思っていた。

 数分ののち。

 やっぱりダメね。そう木炭を放り出す。途端、動くことを許されたのだろう俺は、恐る恐るキャンパスの正面へと回り込む

 しかしそこに描かれていたのは、かろうじて人型とわかる程度の黒塗りの輪郭で、これでは性別さえ曖昧だった。

 言い訳のように。

「まだあなたの本質をつかみきれていないから」

「……なら時間を置けば、いずれ描けるようになるんですか」

「あとほんの少し」

 小さな齟齬があるの、と。

「……齟齬って何ですか」

 答えずに。「ねぇ、吾郎くん」、こちらの饒舌の理由を見抜くような可笑しみさえ含ませて。

 芸術に殺されかけた感想はどう、と。

「……」乾ききった喉をかすれさせて、俺はようやく口を開く。「どうして、俺だったんです?」

「……別に誰でも良かったわ」

 と、その問い返しは期待はずれだとでも言いたげに。

「ただその話を江花こよりにしたら、ちょうど良いのがいるからって」

 ちょうど良い、治療だからって。

「………………先輩にとっての、愛って何なんですか」

 目を逸らされる。

 しかし、自身の描いた母の絵を退屈げに見遣りながら。

「私の愛は、ただの消費」

 と。

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