第21話

 自宅と反対方向になってしまうこちら側にはあまり馴染みがなかったけれど、そういえばこうも景色が変わってしまうのだったと思いながら。先輩へと付き従う形で海沿いのアスファルトを登っていく。

 この街は、うちの学園がある辺りを境に大きく二つに分けることができて、俺の住んでいる側は如何にも庶民向けに後から開発された集合住宅地と言った雰囲気。例えば、駅前から伸びる道路沿いにはいくつもの団地が並び、その奥へしばらく行くと、開発前からある古めかしい商店街や和風住宅が見えてくる。

 一方、先輩の家があるらしきこちら側は高級住宅街と呼んでも差し支えのない地域で、庭付きの邸宅列が緩やかな坂道沿いに並ぶ。スーパーやコンビニのたぐいが見当たらない代わりに、車で二十分ほど走れば、複数店舗一体型のショッピングモールやアウトレット衣類店が隣接していて。これだけでも中々の立地条件ながら、ついでに言えば、住宅街端を歩いている俺たちの左手側、ガードレール向こうは海が見渡せる絶景だったり。

 そんな背景を通り抜けてしばらくする頃、先輩がぴたりと足を止めたのは、これまた両隣との隙間が広すぎる白く大きな家の手前。

「ここ」、と。

 それだけを言ったきり、玄関までの石階段を登っていくものだから、俺は戸惑いつつもその背中を見失わないよう付いていく。

 恐ろしいことに、その豪邸の扉には鍵が掛かっていなかった。

 先輩はただいまとも言わずに靴を脱ぎ、振り返る。

「何してるの」

「えっと、」気後れしてるの。

「上がって」

「……お邪魔します」

 と。玄関口で固まっていた俺はついに腹をくくり、彼女の背中を追うように小宇佐邸へと上がり込んだ。半ば脱ぎ捨てられていた先輩の靴までをも揃えながら。

 正面方向へと伸びる廊下の途中、開かれっぱなしにされた扉を指差して。

「ここで待ってて」、と。

 こちらの返事も待たずに、先輩は曲がり角を奥へと消えていってしまった。もしかしたらそちらに自室か台所でもあるのかもしれないなんて思いつつ。俺は捨て置かれたような心細さのままに、待てと言われたその部屋へと足を踏み入れる。

 恐らくは客間だろう間取り。壁に埋め込められた薄型テレビへと向き合う形でL字型のソファーセットが配置されていて。その長辺側には壮年の男が死んだように倒れ込んでいた。

「……」

 もしや部屋を間違えたかと一度戻ってみるまでしたけれど、角度的にも先輩が指した部屋はここ以外あり得ず、待てと言われたからには、俺はやはりこの死んだような男の横に腰掛けねばならないのだろうと判断する。

 L字の短辺側に座り、嫌でも視界に入ってくる男の全身を眺め渡す。とは言ってみても、仰向けな彼の頭部には読んでる途中で寝落ちたらしき新聞紙がかかっていて、寝息に揺れるその下のご尊顔はついぞ覗き込めそうな隙もなく。手は胸元に、ソファからはみ出す長さの両足は半ば組んだまま向こう手すりに掛けられていて、服装はややフォーマルだった。

「父よ」、と。

 紅茶を運んできた小宇佐先輩はそちらを見もせずに、寝ている人物をそう紹介した。

 テーブルの上にカップを並べ、ポットから紅茶を注ぎ終わった彼女は立ち上がり。言ってみただけという程度に「ごゆっくり」と呟きながら出て行って、しばらく待ってみてもそのまま戻って来ることはなかった。

「……」

 先輩の入ってきた時点から、座る場所が足りないことや紅茶カップが二人分しかないことには気付いていたけど、まさかあの人自分は同席しないつもりかと遅れて驚愕する。

 と言うかごゆっくりも何も、相手が起きてこないことには話のひとつもできはしないだろう、と思っていたけれど。あるいは暗黙に、その紅茶の香りこそが彼を起こすスイッチか何かだったのかもしれない。

 新聞を被った男は唸り声を上げながら、やおら起き上がってきた。

 こちらを見もせずに、と言うより目もほとんど開けないままにテーブルの上へと手を伸ばす。危なっかしげに持ち上げたカップに口を付け。

「万智、砂糖は」、と。

 万智というのが小宇佐先輩の下の名前だったと思い出すにつけ、どうやら斜向いに座る人影を娘と勘違いしているのだと合点がいく。一度は無視しようかとも思ったけれど、しかしそのまま、こちらの返事を待つような沈黙があったので。少し迷いつつ、さぁ、と曖昧な返事をする。

 予想だにしなかったろう低い声に驚いたような、こちらを覗き返す瞳と出くわす。

「……お前は誰だ?」

「水篠です」

「………………誰だ?」

 あれ、と内心首を傾げる。面識なくこちらを呼び出すくらいなら、先輩の側から俺の名前くらい伝え聞いていてもおかしくはないと思っていたのだけど。

 と。

 そこで自分の誤りに気付く。

「間違えました、佐藤吾郎です」

「……」

 胡乱げな視線に晒される。

「今日来たのか……」

「俺が今日お邪魔すること、先輩から聞いてませんでしたか」

「あれが言うわけなかろう」

 俺自身、『あれ』のことはよく知らないけれど。実の父親が娘についてそう言うのなら、そうなのだろうと納得しておく。考えてみるまでもなく、連れてこられた俺の方とて事前通達のない強制連行だったのだし。

 ……。

 こうして起きているところを眺めてみても、あの小宇佐先輩の父親と聞く割りに、特別目立つ容姿をしているわけでもなかった。確か詩織から聞いた話では、彼自身も芸術家で。しかし作品の出来具合はと言えば、娘ほどの才能には恵まれていなかったらしい。もちろん俺に絵画の良し悪しなんてわかるはずもなく、この辺りはネットで調べた程度の伝聞だけど。

 それにしてもこの人。寝起きである分を差し引いた上でも妙に所作全体から落ち着きが感じられず、どこか後ろめたいことでもあるかのように時たまこちらを盗み見る。あるいは、娘の彼氏を前にした父親なんて大方こんな感じなのだろうか。

 なんてことをつらつらと考えているうちに。向こうは咳払いをひとつ。姿勢を正して。

「つまらないところをお見せしたが改めて、君を呼び出したのは私だ」、と。

「……はぁ」

「君のことは江花先生からもよく聞いている」

「……」

 先輩ならまだしも、どうしてこよちゃんから伝え聞くのだろうかと内心首を傾げる。

 しかしそんな疑念を挟む間もなく。

「ところで、うちの娘が妙なことを口にしていたんだが」

「……?」

 むしろ言ってない時があるのかなどと訊いてみたくなったけれど、流石に自重する。

 自重した向かいから遠慮のない疑問が投げかけられる。

「君たちは付き合っているのか?」

 ……ん?

 微妙な座りの悪さを覚えながら、俺は言葉を選びつつ尋ねてみる。

「先輩は俺のこと何て紹介したんですか?」

「だから、彼氏だと」

「ならどうして、その言葉を鵜呑みにしないんです?」

「……それは」少し考えるような沈黙の後。「あの娘だぞ?」

 残念ながら。思わず唸ってしまう程度には無視しきれない説得力がその言葉にはあった。されどだからと言って、目の前に転がる違和を見過ごせるかと問われれば、むろんそんなことはなく。

「じゃあ江花さんは、俺のこと何て言っていたんですか」

「……」彼はしばしの間、動揺したようだった。「何って」

「俺のことですよ。よく聞いてるんでしょう」

「あの子の……絵のモデルだと」

「……」

 小宇佐氏の挙動不審は目に余るほどで、改めて、やはり何かを隠されているような気がした。

 しかし正直なところ、彼やこよちゃんが何を企もうと俺はそのことにあまり興味がなかった。

 なので「そういえば」と、話を逸してやる。

「先輩はどこに行ったんでしょうね」

 途端、小宇佐(父)は露骨に安堵の表情を浮かべた。だからそういう辺りが下手なんだと。

「アトリエだろう」

「あぁなるほど」

「あの子の母親がいるんだよ」、と。

 彼は唐突にそう言った。言われた俺は、いきなり何の報告だと首を傾げる。

「だから、うちのアトリエに」

「……はぁ」

 母親がアトリエにいて。だから先輩はアトリエに行く、と。

 幸いにも、そんな直訳のような文意では何も伝わらないと気付いてくれたらしい小宇佐氏は、しかしそれ以上説明する気もなさそうに。

「見てもらったほうが早いだろうな」、と。

「……先輩は一人になりたくてアトリエに引きこもったんじゃ」

「まぁ問題ないだろう」

 と、断言するものだから何か根拠でもあるのかと思っていたら。

「何せ君ら、付き合っているんだろう?」

「あ、はい」

 そういえばあったな、そんな設定。というか流行ってるのか、その意味わからん理屈。

「少なくとも君には」、

 見る権利があるはずだ、と。

「……」

 感傷に浸るのは勝手だけどさぁ、と。俺はため息を押し殺すのに苦労する。

 この人隠す気がないんじゃないかなんて疑い始めるレベル。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る