第20話

 気付けば有無を漏らす暇もなく俺は、自宅とは反対方向へと向かう電車に乗せられていた。

 空席の目立つ車内片隅に、先輩と二人並んで座る。別段会話もなく、お互い眺めるものはといえば対面座席の窓から見える景色、途切れる住宅街の隙間から段々と海が近付いてくる背景ばかりで。

 ……えっと、何だこれ。

 戸惑う俺の方を見もしない、ほとんど独り言のように。

「私の家こっちなの」、と。

 いや、それはこの前聞いたけどさ。

「どうして俺が先輩の家に行くんです?」

「私が連れて行くから」

「そうじゃなくて」

 めんどくさいなこいつとでも言いたげな目をされる。心外過ぎて、危うくその言葉を聞き逃すところだった。

「私の父が会ってみたいって」

「…………」

 先輩が発したその台詞の意味を咀嚼するのに数秒。

 理解するのに数秒。

 受け入れられるまでに数十秒。

「はい?」

「だから父が」

 言ったでしょう? という目を返される。いや、確かに今聞いたけどさ。

「だからって、何で急に?」

「会いたくないの?」

「会いたくないですよ?」

 むしろ会いたがるやつに会ってみたい。

 付き合って三日目な彼女先輩(しかも二股)の父親と、彼氏(ただし本命は実姉)はどんな顔して向き合えば良いんだ?(いや括弧部分については俺の自業自得なんだけどさ)

「大したことない人だから大丈夫よ」

「……大した」って?

「私より絵が下手だもの」

「……」

 そういえば、と。いつか適当に聞き流した先輩の経歴を思い出す。記憶によれば、確か彼女の両親も名の知れた芸術家だったような。

「でも私より下手よ」

「……知りませんよ」

 少なくとも俺なんかよりはよほど大した人だとか、そもそもたとえ一般人でも付き合ってる相手の父親に会うなんて気後れするのだとか。というか向こうが会いたがるってことは、先輩は出来たばかりな彼氏の存在を躊躇なく報告したのかとか。

 言いたいことが脳裏にあふれ過ぎて、かえって冷静になってしまう。

 冷静に、事態への対処を考えてしまう。

「……」

 逃げようと思った。

 具体的には、次の駅で降りて反対路線の電車で真っ直ぐに帰ってしまおうと。

 もちろん公算はあった。この先輩もいい加減鈍そうだから、あたかも当然といったように俺が降りてしまえば、ろくな対処もできぬまま見送ってしまうだろう(たぶん)とか。今日一日さえ逃げ切ってしまえばそのうちまた別のことに気を取られて忘れてくれないかな(祈り)とか。

 こんな失礼極まりない企み。結菜に知られれば最低だの何だのと罵られそうだけど、その一方でたぶん姉貴はみずくんらしいねと呆れてくれる。

 さてはて。

 折よく停車アナウンスが流れるものだから、俺はさり気なく立ち上がる。

 小首を傾げつつ見上げてくる先輩。

 ゆっくりと停車し開かれる駅側の扉。

 開かれたドアを出て駅へと降り立つ俺。

 ついてくるように一緒に降りてきた先輩。

「……」

「こっちよ」、と。改札の方を指差す。

 ……なるほど。その仕草を見るに幸か不幸か、俺はどうやらちょうど先輩が降りるつもりだった駅で降りてしまったらしく。

「来ないの?」と、尋ねられてしまい。

「……行きます」と、答えざるを得ず。

 俺はもう何もかもを諦める。

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