第19話

「どしたの、水樹?」

 振り返りざまの結菜に、俺はそう尋ねられていた。

 残りの授業にはきちんと出席して、放課直後のことだった。教室から出ようと背を向けていた彼女が、後ろへと付いてこない俺を不審げに見遣る。視線がかち合わないよう少し逸して。

「先に帰っててくれないか」、と。

 そこまで気になるわけでもないけれど。いい加減、さっき渡しそびれたグロッキー帳を返さねばならないこともあって、少し様子を見に行くつもりではあった。

「何か用事でもあるの?」

「ちょっと江花先生に呼び出されてて」

「小宇佐先輩のとこかな?」

「……」

 そんなにわかりやすかっただろうかと自身の顔に手を伸ばしかける。

 その向かい側からふーんと、結菜のジト目に晒される。

「付き合い始めたばっかりの彼女をほっぽいて、別の女の子に会いに行くんだ」

 五限もサボってたみたいだし、と。

「それ言うなら、向こうとも付き合い始めだし」

「最低じゃんね」

「……」

 にこにこと笑顔で言われても困ってしまう。

「まぁ、仕方ないから」と、自称彼女様は嬉しそうにのたまった。「今日のところは大人しく帰ってあげるよ」

 安堵しかけたのも束の間。ただし、と作り笑顔を溶かして。

「今度何か埋め合わせすること」

「はいはい」

 苦笑混じりに相槌を打っていたら、本気だからねと念押された。

 それからようやく結菜が立ち去ってくれて。教室に取り残された俺は、廊下の喧騒が落ち着いた頃を見計らい、一人美術室へと向かった。

 昼下がりはどこまでも静かだった。普通の学校の放課後がどういった雰囲気なのかは知らないけれど、すべての授業が終えられているはずの校舎がこうまで静かなのは、やっぱり少しおかしいのかもしれない。

 というのもじつは、この学校では部活なんてものを真面目にやっている生徒の方が少なくて、放課後になってもまっすぐ帰宅する組と教室に残って駄弁る組に分かれるのが精々。校庭や廊下には人影そのものさえ見当たらないほど。

 種明かしをするなら、この私立学園は多様性を重んじている、なんて。宣伝文句を直截に引用してみても仕方ないだろうけれど、極端に言えば、ここは半分だけ養護学校のような体裁なのだ。入学希望者は多少素行や言動内容に問題があっても一定の学力さえあれば受け入れられて(ただしピアスや染髪は別らしい)(納得行かない)、そんな門戸の緩さゆえ結果的に、集団へと馴染むための能力に難があり、他の学校なら爪弾きにされそうな生徒ばかりが集まってしまっている。という、そんな校風。

 明かり窓に切り抜かれる廊下の陰影。

 そのフォロー目的で、教師とは別に一定数の医療従事者が勤務していて、俺が普段からお世話になっているこよちゃんもその一人だったり。一方で、結菜や詩織のように普通の学校でも如才なくやっていけそうな生徒らだって、かなりの人数が在籍していて、その辺りについては我が校設立者の意向を組んで、清濁ごった煮の多様性ということで。

 踊り場で擦れる上履きの鳴き声。

 逆に言えば、そんな特殊空間でもなお浮いてしまう小宇佐先輩という存在は、常人の更に上を行く外れ具合なのかもしれない。なんて思いながら、辿り着いた先の美術準備室の扉を俺はノックする。

 しかし予想に反して返事はなく、鍵もかかっているようだった。

 少し拍子抜けしたものの、いないなら仕方ないかと諦めて降り始めた階段途中で。

 ちょうど上ってくるところだった先輩と鉢合わせする。彼女は少し驚いたように。

「本当にいた」、と。

「どうも」、と。

 面食らったまま返事をしたあとで、妙な挨拶だったなと首を傾げつつ尋ねる。

「知ってたんですか?」俺がここに来てるってこと。

「校門で待ってたら、君のご近所さんが」

「……」

 恐らくご近所さん本人にとっては敵塩なお節介のつもりだったのだろうけれど、今はその気まぐれがありがたかった。

 少なくともそのおかげで無駄足にならずに「じゃあ、行きましょうか」

「……え?」

 先輩は上りかけていた踵を、降りる側へと引き返すところだった。

「何」

「準備室行かないんですか?」

「用はないから」

「……」

 そう言えば先輩は絵が描けなくなっているのだと、ふいに思い出してしまう。

「じゃあ、何しに来たんです?」

「君を探しに」

「でも、帰るんですよね」

「ねぇ、吾郎くん」

「……何ですか?」

 相変わらずな偽名呼びに反応が遅れる。そんな俺へと振り返った先輩は。

「私の家に来て」

「…………は?」

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