第17話

 こんなふうに。俺の周囲の人間について、あまねく彼らの恋愛観の歪みが指摘された一方で。身近な面々のうち、恐らくただ一人、常識人なこよちゃんの反応は。

「っ!」

 右脛蹴りから始まった。

 もしもこちらが立っていたならば重心ごと刈り取られ、否応なく地に膝を着かされそうな一撃。

 そしてあふれ返る怒気を精一杯堪えるような声音で。

「もう一度……言ってごらん、あんた」

「……小宇佐先輩と付き合うことになりました」

「そっちじゃない。その次」

「でも元々付き合ってた幼馴染とも、継続して付き合うことが決まりました」

 途端、クリティカルに脛の骨を靴端で殴られ、青痣の予感さえ覚える。コンビニ弁当で両手を塞がれ座っていながらにしてこの威力なのだから、立っている時のこの人には絶対近寄るまいと心に決める。

 時は週明け最初の昼休み。何だかんだで小宇佐先輩と仲良くするようにとの指示を受けた手前、一応の報告にと伺えば、先述のような仕打ちに出迎えられただなんて。

「納得行かねぇ」

「それは私の台詞よね。あんたらはどうして、行動の一々に何かと厄介の種を持ち込むんだ」

 そういう病気だからでしょ、と思いつくまま言ってみてもやはり火に油か。

「どうせどっちもお遊びみたいなものですよ」

「……なおさら最悪じゃない」

 ふと顔を上げてみれば、彼女にしては珍しい心底疲れたような苦笑だった。

 すでに食べ終えていた弁当箱を机の上に放って、代わりとばかりに白衣のポケットから取り出した赤チェに火を点け、灰皿を引き寄せる。校内全域禁煙をぶっちぎりで無視するその姿勢に呆れるこちらの手前で、煙を細く吐き出して。

「それであんたは一体どうするつもりなのよ」

「どうするって、」特にどうもしないつもりなんですが。

 というか、それこそこっちの台詞で。

「江花さんこそ何考えてるんですか」

「……どういう意味かしら?」

 一転、警戒したような彼女の声音に確信を深めながら。

「小宇佐先輩けしかけたのって、どうせあなたでしょう」、と。

「……」

 それは昨夜あの後、姉貴に指摘されるまで思い至りもしなかった違和感。あそこまで他人に無関心そうな寡黙系先輩が、俺のようなただの一男子高校生へと理由なく絡んできた。なんてラノベのような筋書きは、いくら何でも不自然に過ぎる。

 だからもちろん、半分以上はカマかけのつもりだったけど。

「何か文句ある?」

 と、開き直るように凄まれても困ってしまう。

「……少しは申し訳なさそうな顔とかしてみませんか?」

「嫌よ面倒くさい」

「いい歳こいて、子どもっぽいこと言わな」足の甲を、ヒールの踵で踏まれる。

 今の台詞、どこかで聞いたような言い回しだったなと思いつつ。痛みにうめきながら片足を力づくで引き抜く、そのタイミングで。

「あんたたちには、治ろうというつもりがあまりないのかしらね」

 火を潰しながらの、何もかもを諦めかけているような声音を掛けられる。

「……」、まぁ。

 強いて一応の当事者に言わせるなら。こっちは病気の自覚すら危ういのに何を言ってるんだ、なんて気がしなくもない。

「別に一人で完結することは悪いことじゃないのよ」

 一転疲れ混じりの優しさを滲ませた声音が頭上に降りかかる。

 ただし、と。

「それでもあんたたちは、社会に組み込まれておかなくちゃいけない」

「……どうしてです?」

 優しい笑みで。

「逃げ道はいくつも用意しておくものだからよ」

 俺がなおも首を傾げていると、まぁいいわ、とこよちゃんは背もたれに体重を預けた。

「そういう意味では、多少モラル的に問題があるとしても、前々から言われてた通り、多彩な繋がりを自力で構築できたあんたを、少しくらい褒めてもいいのかもしれない」

「そう言うくらいなら褒めてくださいよ」「偉いね、みずくん」

 ……。

 俺の方から口に出してしまったこととは言え、その時、背中一面を薄ら寒い鳥肌に撫でられた事実だけは明記しておきたい。

 記憶から消すつもりで、咳払いをひとつ。

「たぶん結菜や先輩はモラルなんてもの、気にもしませんよ」

 正確には気にしてくれない、の方が正しいか。

「そう言うあんたは……、いや」頭痛でもこらえるかのように。「訊くまでもないか。どうでも良いんだろ?」

「姉貴さえいてくれるなら何でも美味しくいただけますよ」

「きっとそれがいつか失われてしまうとしても?」

 これまた論旨のすり替えにも似た、突然な問いで。

「でも愛ってそういうものでしょう」

 あるいは、結菜と彼女の兄のように。

「ここであんたたちは言い切っちゃうからな」

 羨望と嘲笑が入り混じったような、奇妙な笑みだった。

「おかげで少し、ほんの少しだけど私は。相手が死んだからっていつかは他に乗り換えられる常識人の方がおかしいような気がしてきたわよ。これじゃあもし仮に、いつか社会の方が狂っていたとしても」

 私にはわからないのかな。

「……」

 冗談めかして言われたところで、どちらが狂っているのかと訊かれるなら、それはもちろん俺たちの側だと即答できる。何故なら多数決でそう決まってしまうはずだから。

 ただしそれを言うなら、結菜だって。小宇佐先輩だって。

 あるいは姉貴も、こよちゃんも。

 マイノリティはきっと、みんな狂ってしまっている。

「私はあんたを見てると時々怖くなる」

「……怖い?」

「愛しのお姉ちゃんに手を引かれて、どこへも続かない廊下の奥へと歩いて行くような。誰も助けられない場所へと落ちて行くような。そんな恐怖よ」

「……それって、そんなに怖いことですか」

 答えず、悲しげに微笑んで。

「君たちは希望を語らなければならない。自らを疎外した現実をいつかは肯定しなければならない。ただ野垂れ死ねば、それは生存バイアスの盲点へと消え去るだけのありふれた事象でしかないのよ」

「……」

「まぁともかく、」これだけは言っておくわ、と。こよちゃんは続けた。

「私はあんたたちにどう思われようと、これが正しいと信じた道を貫くから。恨みたければ勝手に恨みなさいな」、と。

「…………」

 いきなり何言い出すんだこの人、とは正直思った。

 されど眼差し。

 深い絶望から自力で這い上がろうとするような覚悟さえそのうちには認められて、特段押し通すべき矜持も持たない俺はため息を吐く。

 だからって、そう真正面から啖呵切られて憎めるはずもないでしょなんて思いつつ。口先だけ「わかりました」、と頷いて立ち上がりかけた。

 ところに。

「そういえば君は尋ねたの?」

「何をですか」

「小宇佐によ」

 と言われて、以前それを問いかけたのは自分の方だったと思い出す。

 件の芸術家先輩がどうしてこの学校に来たのか。

「まだ訊いてない、ですね」

 先週末はそれどころじゃなかったし。

「でも気になるんでしょ」

「まぁ一応」

 短く悩んだような間の後。

「たぶん私から言っても構わないよね。あんたも今やあの子の彼氏だし」

「それは、」そうかもだけど。何だその理屈?

 なんて、一瞬の戸惑いで遮ることもできなかった俺へと。

「あの子ね、絵が描けなくなったのよ」、と。

「……」

 こちらの逡巡など気にも掛けないまま。こよちゃんは俺に、先輩の秘密を吹き込んだ。

 あるいはそれは、悪意さえ感じかねないタイミングで。

「……描けなく、なった?」

「正確には描かなくなったかしら」

「でも俺の前では普通に描いてましたよ」

「どうせ下書きでしょう?」

 確かに、彼女とドーナツをご相伴した(未遂)時から預かってるグロッキー帳を一度だけ覗いてみたけど。描かれていた絵はどれも鉛筆描きの完成途中で、最後まで描き終えられたらしきものは一枚もなかった。

 あの猫の絵以外。

「……」それにしても、「どうして描けなくなったんでしょうね」

「それがわかったら誰も苦労しないわよ」

 呆れたようにため息を吐かれる。

 いやまぁそれはその通りなんだろうけれどさ。

「でもその事実とこの学校への転校に何の関係が?」

「その答えを、あんたはすでに本人から聞いているはずよ」

「……」

 またはぐらかされているのかと思ったけれど、存外真剣な瞳に見つめ返され気圧されてしまう。その隙に。

「あんたさ、」と。

「……何ですか?」

 その瞳は、自身の発しようとしている問いかけに対して、相手の知性が十分であるかを推し測ろうとする色を帯びていた。

 少しの沈黙があって。


 芸術が人を殺すって言われたら信じる?


「……………………」

 不自然に置かれた、長い沈黙があった。その末に「信じますよ」、と一言。

 気付けば俺はそう答えていた。

 もちろんこよちゃんの言葉が、絵画中の人物が夜な夜な持ち主を呪い殺すなんてオカルト話だとは思っていない。けれど人なんて存外呆気ない理由で死んでしまったりするものだし。ならば芸術のせいで死ぬ人間がいたとしても、別段不思議だとは思われなかった。あるいはそれが比喩的な意味であれ、現実的な意味であれ。

「……」

 しかしその答えが彼女を納得させたのか、あるいは失望させたのか。伏せられた瞳の色からは、どうあっても自身の判定を読み取らせるつもりはないらしかった。

「……というか何の意味があるんですか、今の質問」

「何でもないわよ」

 ダウト。なんて言って欲しいのかと疑わしくなる程度には雑な誤魔化し方だった。されどじゃあどんな意味があったのかと考えてみても、こよちゃんの企みなど俺の想像を遥かに越えそうな予感ばかりがあって、つまりは何もわからなかった。

「江花さんは」、ふと思い立って。「愛って何だと思いますか」

「罰ゲーム」

「……その心は?」

「集団で生活することを選んだ人類にとって、性本能は闘争の火種でしかなかった。どんなに発達した知性で以ってしても自らのそれらを制御することは能わず、人は仕方なく欲望に至る過程を制度化し、社会に組み込んだ。だから性交を除く性交に至るすべての手続きは、人類にとっての知性を持ち過ぎたことに対する罰ゲームなの」

「……」

 突然の長口舌に正直ちょっと引いた。というかこの人も、大概こじらせてんな、と。

 しかし当人はと言えば、こちらの反応など気にもせずに。

「まぁ、適当に上手くやんなさいよ」

 と、いつも通りな追い払う手の仕草に、彼女自身これ以上話すつもりのない態度を滲ませた。むろん俺としても、こうまで中途半端なほのめかしと無駄に長い持論だけで納得できる道理もなかったのだけれど。

「……」

 途中から深く考えるのが嫌になってしまった。大体俺たちのママゴトじみた恋人ごっこに、どうしてこうも他人の思惑が絡んでくるんだ、なんて。

 こちらの手元には奪われるほどの価値も、望むほどの欠乏もないというのに。

「いいや、君たちは不完全だよ」

 と、彼女が口を挟んでくる。

 だからこそ付け込まれるんだ。そう苦々しげに。

「……」

 その言葉は聞こえなかったことにして、保健室を立ち去る。

 少し期待しつつ扉を閉めたのだけど今日に限っては、振り返った先に先輩本人がいたりもしなかった。休み時間の終わりを報せる予鈴が鳴る。せっかく作ってきた弁当を食べ損ねてしまったことに気が付く。

「……」

 またいつかと同じように、このまま屋上で授業をサボってしまおうかとも思ったけれど、本当にそうしたら、いよいよ俺が小宇佐先輩に会いたがっている証左となってしまうような気がして。若干の空腹を抱えたまま、俺は苛立ち混じりを誤魔化しつつ教室へと足を向ける。

 別に誰がどんな理由で何を踏みにじろうとも、どうでもいいじゃんか、と。

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