第15話

 翌朝は眩しいほどの快晴だった。

 待ち合わせていた結菜と団地前で合流する。

 彼女は淡い色のブラウスとジーンズに、大きめの紙袋を下げていた。

 持つよ。と荷物持ちを申し出て。うん、よろしくと。差し出されたそれを受け取ってみれば、思ったよりずしりと来た。

「……これ何入ってるの?」

「そりゃ色々だよ」

「ふーん」

 色々ならせめて複数に分けてくれればと思いつつ相手の顔を見やれば、向こうの気負い具合が読み取れて。喉元まで出かけていた文句を飲み込む。

 目が合うと強張った笑みのまま、行こうかと微笑むものだから。

 黙って頷いた。

 最寄り駅から電車に乗り込み、一度都心まで出てから普段登校に使うのとは別の路線に乗り換えて。各停で八駅。

 目的の駅で降りてすぐ、結菜は近くの花屋へと入って行った。

「やっぱり菊かな?」

「知らないけど、菊なんじゃないの」

 そっか、と頷いて。彼女は店員を呼び、小さな花束を作ってもらっていた。

 駅前から数分タクシーを使って、ようやく目的地にたどり着く。

 霊園。

 並ぶ墓列の間を少し彷徨って、その中から結菜と同じ名字の墓石を探した。

 彼女がその手前に膝を折る。

「お兄ちゃん、」ただいま、と。

 俺は彼女の横に立ちっぱなしのまま、兄妹の再会を眺めていた。

 少ししてから立ち上がり、俺が手渡した荷物の中からタワシや布巾を取り出す。

 所在なさを感じていた俺は、折よく水を汲んでくるよう指示されて、事務所で桶と柄杓を借り受け水場まで出向く。

 戻ってきた折り返し、今度は掃除道具を借りてくるよう言われて唯々諾々と従う。

 次に帰ってきた時、結菜はすでに墓石の掃除を始めていた。柄杓で汲んだ水を墓石にかけて、黒く湿った土汚れをタワシで落としていく。

 指示されることに慣れ始めていた俺はとうとう言われる前に、持ってきてそのままな箒を携え周囲の掃除へと向かう。

 彼女はこちらを一瞥したきり、特にコメントもなく自身の作業へと戻っていった。

 それからしばらく無言の時間が過ぎた。

 とは言え、名雪家の墓はそう豪華というわけでもなく、半時間もしないうちに互いの仕事が一段落してしまう。

 墓石両端の花瓶へと買ってきた花を生ける。煙草を一箱、横に置く。

「……」

 線香を上げた結菜が再び手を合わせる。

 今度は俺もその隣で目を閉じた。

 彼女の肩が震えていたことには気付かないふりをした。

 しばらく待っていたら。「帰ろうか」と、結菜が先に立ち上がる。

 振り返ったその顔には涙の跡なんて欠片も残っていなかった。

 供え物だったはずのセブンスターを、墓石から持ち上げて俺の方へと差し出す仕草をする。

「……何」

「あげるよ」

「俺吸わないけど」

 だって姉貴が怒るもの。

「私も吸わないよ」

 毎年処理に困るんだよね、と。

 いや、というかそれ以前の問題として。確か結菜の兄貴はうちの姉貴の二つ下だったから、亡くなった時点では未成年だった気がするのだけれど。

「捨てるのも何だかなって感じだし」

 そう呟きながら紙箱を手元で回す彼女の眼差しに、そんな些末なことを尋ねるだけの図太さはあいにく持ち合わせていなかった。

 なんて、こちらが神妙な気持ちになっていたにも関わらず。結菜は帰りがけのゴミ箱前で、包装紙などと一緒に封を開けてもいないその煙草を捨ててしまっていた。

「これでおしまい、と」

「……」

 微妙な顔をしていただろう俺へと振り返って。唐突に。

「やっぱり昨日のなしでいい?」

「……何が?」

 それは意外なほどに晴れやかな笑顔で。

「だから、付き合うふりしてたことの。あ、でも一応。あの言葉を反故にするってのは本当かな」

 ただし元に戻るんじゃなくて。私はちょっと次に進んでみたいのです、と。

「進むって言うと」、偽装カップルの次は。「偽装結婚かな」

「……意味わからないよ」

「……じゃあ何さ」

「本物のカップル、やってみない?」

 今度こそ本当に、俺は言葉を失ってしまう。

「……だから、俺言ったじゃん」

 からからに乾ききった喉奥から、どうにかその言葉を絞り出した。けれど。

「小宇佐先輩と付き合うって話?」

 そんなの関係ないよ、と。

「だって。どうせそれって、絵を描く間だけのことでしょ」

「……」そうだろうけどさ。

 というより、そうであってくれないと俺が困るというか。

「なら私たち、」付き合っちゃおうよ、と。

 そんなお手軽感覚な誘いの背後に悲壮な覚悟を隠されても、正直困ってしまう。彼女の求めるものが相変わらず、俺ではなく他の誰かですらない。二度と帰ってこないあの人のぬくもりであることはわかりきっていたわけで。

「……自分でかなり酷いこと言ってる自覚はある?」

「もちろんあるよ」、と。

 開き直るでもなく、微笑みのままにただ淡々と結菜は事実を頷いた。

「水樹には悪いことしてるなって思うよ。でも仕方ないじゃん」

 そうでもしなきゃ、私きっと死んじゃうからさ。

「……」

 結菜の言葉にどれほどの真実が含まれているのか、俺は推し量ることすらできなかった。

 彼女の主張を俺なりの理解に言い換えるならこうだろう。あるいは誰にでも埋めることができそうな彼女の隣にある空白が本当の意味で誰にも埋められない時、彼女は生きるということの本質を見失ってしまうのかもしれない、と。

 だからどうしたと思わないこともなかった。一人で生きられない弱さを一生抱え込むつもりなら、早々勝手に野垂れ死ねばいい。

 されど同時に、責任、なんて言葉も脳裏を過ぎってしまう。

 お互いを都合よく利用してきた関係性の、責任。

 だけど。せめてこれだけは断っておくべきだろう、と。

「俺はこれからも、姉貴が好きなままだよ」

「仕方ないよ、私もまだお兄ちゃんが好きだもの」

「それでも」「それでも、」

 俺の言葉へと重ねるように。

「一緒にいてくれる人が欲しいんだよ」

「……寂しいから?」

 答えないままに、微笑んで。

「水樹だって、このままユキ姉ぇと一緒に壊れっぱなしってのがマズいことはわかってるでしょう?」

 血の繋がりって最悪だものね、と。彼女は自身の爪先を眺めつつ囁いた。

 それにユキ姉ぇは。と続けかけたのを、思い直したようにやめる。

 目を伏せて。

「もしかしたらいつか、今日の私に感謝するような日が来るかもよ」

 反射的に、来るわけないだろとは思ったけれど、わざわざ口に出すのも躊躇われて。

「……だから代わりに、」誤魔化すように尋ねた。「結菜と互いを縛りあうような関係になれって?」

「そんな重い話じゃなくてさ」

 一緒に愛を諦めよう、って話だよ。

「どうして今更?」

「いい区切りだと思ったから」

「俺が先輩と付き合うことになって?」

「私のお兄ちゃんが死んで二年経つし」

 少しの沈黙があって。

 きっと何も変わらないよ、と結菜は微笑んだ。

「明日も明後日も。昨日と同じような日々が続いていくだけだよ。一緒に登校して、一緒にご飯食べて。そしていつか一緒に死ぬ。きっとただそれだけ」

「……」

 小さなため息。

 俺にだってもちろんわかっていた。たとえそれがどうしようもなく間違った方法でも、逃げ道のない堕ちていくだけの先行きだったとしても。人が人らしく生きていく上で最悪を選ばざるを得ない場面なんていくらでもあるのだ、と。

 こうして俺は、狂ったままに老いていくのだろう、と。

「いいよ」

「………………いいの?」

 余程意外だったのか、きょとんと問い直される。

 苦笑しながら。

「いいよ。俺たち付き合おうか」

「……そっか」

 その一言にはすべての罪を自身の手元に引き取ろうとするような響きがあった。もちろんそんなことが一人の人間に出来る道理はないのだ。過ちは関わったもの全員へと均等に割り振られて、それぞれは簡単に取り返せるべきものでもないはずだから。

 しかしそれでも一転、結菜が泣き出しそうな笑顔で。

 ごめんね、と。音もなく。

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