第13話
姉貴はもちろん自室から出てこなかった。
先によそった一人分の食膳を部屋まで運んだけれど、他人の来訪ゆえか、そこはすでにもぬけの殻だった。どこか別の場所に隠れているのだろうとは思いつつ、冷めないうちに食べろとのメモだけを残してリビングまで戻る。
結菜が配膳した二人分の食事を挟んで向かい合う。いただきます、と手を合わせる。
しばしの沈黙。話題選びに少しだけ悩んで。
「おばさんは今日も夜勤?」
「準夜勤。だから週末も一緒には行けないって」
結菜の親は看護師をしていて、かなりの頻度で家にいない夜がある。ゆえに昔は幼馴染ということで、彼女がうちの食卓に交じることも多かったのだけど。
「ん、久しぶりに家庭料理って感じの夕飯だわ」
「……だから自炊しろって」
「やっぱ面倒じゃけんね」
「別に作れないわけじゃないくせに」
「まぁまぁ、こうして作ってくれる人がいるわけだし」
「……」
別にいいんだけどさ。何となく釈然とはしない。
「そっちのおばさんは?」
唐突に尋ねられたものだから、取り繕う暇もなく。
「知らない」、と。
馬鹿正直に答えてしまう。
結菜の方も「そっか」と呟いたきり、しばらく黙ってしまう。
沈黙の中、食器がこすれる音だけが冷たい壁を伝い落ちる。
「と言うことはじゃあ」と、気まずさを振り払うつもりで。「週末は俺たち二人だけなんだ」
「そだね。まぁ週末と言っても」、と結菜もスプーンを止めて。「もう明日なんだけどさ」
そう言う彼女の言葉にカレンダーを思い出してみれば、なるほど今日はすでに金曜だったかと。個人的な身の回りに色々なことがあり過ぎて、すっかり曜日の概念を失っていた。
「俺の方で特に用意するものはあるっけ?」
「うーん。別にいらないかな。こっちでぜんぶやるから」
水樹は荷物持ちね、と。続けていくつかの細々とした打ち合わせをしているうちに、夕飯を食べ終わってしまう。
静寂。視線が一瞬手元を泳いで。たった今、思い出したのだとでも言いたげに。
「それじゃ結局、水樹は私と別れるの?」
「……」
そんな質問が、今度こそ本当の沈黙の内側に晒される。
少し考えるふりをして。
「元々付き合ってなかったでしょ」と、俺が逃げてしまうものだから。
「それはそうだけどさ」と、彼女もその逃避を許してしまう。
そしてまた沈黙。
けれどそんなやり取りとも呼べないようなやり取りが、何よりも互いの諦念を野ざらしにしていて。
安堵のような、諦めのような、ため息。
きっとその時。本当の意味でようやく、俺たちの恋人ごっこが終わってしまったのだった。
結局は頭のてっぺんから爪先まで、あくまで冗談の範囲だったのだから、今更何を感じるほどのことでもないのだろうけれど、妙な寂寥感ばかりが舌先に残って上手く言葉が出て来なかった。
だから。
「じゃ、お皿は私が片付けるから」
そう言い残して結菜が立ち上がった後もしばらく、俺は一人座ったまま、彼女の髪が背中に揺れる光景を眺めていたのだと思う。
洗われた食器類もすべてシンクに立てられて。
「いい時間だし、私帰るね」
と、結菜が言い出すに至りようやく我に返って首を傾げる。
「夜勤なら、おばさん帰ってくるの深夜でしょ」
「あぁ、鍵忘れたっての嘘だから」
「……」
なるほど、と。色々なことが腑に落ちてしまう。
結菜は開き直ったような笑みに、作ったような口調で。
「送って行きなよ、元彼氏」
「……偉そうね。元彼女のくせに」
気を遣われているのだとはわかっていた。それでも言われた通りに送るつもりで、さっさと玄関を出てしまった結菜の足音を追いかける。外はもう伸ばした手の先も見えないほどに暗く、微かに湿り気を帯びた夜風だけが夏の予感を漂わせていた。
無音のエレベーターで、一階まで降りる。結菜の住む部屋は向かいの棟で、正直なところ、互いの家を尋ねるのにも、理由のひとつもなければ微妙に面倒が勝るという立地だった。
「また明日」
朝十時にここ集合だからね、と彼女は玄関口手前で振り返った。
「わかってるよ」、と了承を返す。
しかし彼女の足は動かない。こちらが訝しみ始める頃に。
「私の愛はね」と、唐突にその答えを。「やっぱりまだお兄ちゃんなんだと思う」
「…………そっか」
俺も、どうせ彼女がそう答えるだろうことはわかっていたのだから、最初から訊かなければ良かったと思いつつ。
結菜の悲しそうな微笑みが、ただの疲れ混じりなため息へと変わるのを眺めていた。
その音さえも夜闇に溶けきってしまった頃、こぼれ落ちるように。
早く死にたいな、と結菜が囁く。
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