第10話

「何描いてるんですか?」

「……」

 当然のように返事はなかった。仕方なく隣からグロッキー帳を覗き込めば、まだ白黒の輪郭しか描かれていなかったけれど、それはどうやら目の前の景色らしかった。

 たかが無人の風景画。されど芸術家先輩の手にかかれば、なるほど立体感が目前の本物以上に半端じゃなくて、普段からこの場所に対して感じていたつまらなさが、熱を持って染み込むような寂寥となって紙の上に立ち上がる。

 しかもそれまでの行程を、俺と腕を絡ませっぱなしなほぼ片手でやりとげているのだから恐ろしい。こちらとしてはとっくに逃げるつもりなど失せてしまっているのだけど、よほど信頼されていないようで。

 それはともかく、大したものだと思っていた矢先、何故か視界の片隅にツルハシが映る。

「……?」

 あんまりに違和感なく溶け込んでいたから気付くのに時間が掛かってしまったけれど、その絵は単純に景色を引き写しているだけではなく、細部を微妙に変えているらしくて。例えば左手隅の方で煙草をふかしている老人が描かれておらず、代わりとばかりに同じ場所では彼の腰掛けていたベンチへとツルハシを振り下ろそうとする坑夫が、いつのまにか描かれていたり。

「…………」

 じわじわとその絵は現実の風景から乖離し、狂気を増していった。今やこの広場いっぱいに増えた坑夫は十数人。彼らがベンチや花壇から機械的に掘り起こしているのは、生きたまま埋められたらしき猫だった。しかし猫たちを掘り起こそうと坑夫がツルハシを振り下ろすたびに、その切っ先は地中で猫を突き刺し、血みどろになった毛皮の塊が掘り起こされては、坑夫の押すリアカーに積まれ運ばれていく。

 鉛筆のみの陰影だけでぼろぼろにちぎれた肉塊の虫の息が伝わってくるのだから流石だとは思うのだけど。

「ちょっと……、本当に何を描いてるんです」

「……」

 ぴたりと鉛筆が止まって、おかげで集中力が切れたじゃないかとでも言いたげに一度こちらをにらみ。先輩はその絵を破り取って、手近なくず入れへと丸めて捨ててしまった。

 邪魔をしてしまったかと、妙な罪悪感を覚えつつ。「……捨てちゃって良かったんですか」、と尋ねれば。「つまらなかったから」、と。

 彼女が丸めてしまった絵を思い返してみるけれど、あれをつまらないとする感性は、普段からどんな光景を脳裏に描いているのかと冷たいものが背筋を伝う。

 と、その時。猫の鳴き声を聞いた気がした。

 その元は先輩が絵を捨てたくず入れの方で。まさかとは思ったけれど、それこそまさかで。描かれていた血みどろの猫が鳴いたわけでもなく。今の今まで気付かなかったけれど、バケツ型のくず入れの中には本物の猫がはまり込んでいて抜け出せなくなっているらしかった。

 先輩もその猫に興味が向いたらしく、グロッキー帳の次のページをめくり、再び鉛筆を走らせ始める。

 幸いにして、今度の絵は特に狂気も混じらない、平和なくず入れと猫の絵だった。勝手にモデルにされたその猫は特に今すぐ出ようという気概もなかったみたいで、一度は起き上がったものの、やがて面倒そうに丸くなって寝息まで立て始めてしまった。

 先輩は今度こそ中断することもなく絵を仕上げていき、俺は猫が紙の上で息づき始めるその様を、飽きもせずに眺めていた。

「……」

 未開封なドーナツの紙袋だけが、先輩の向こうに放って置かれて少し気がかりだった。

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