第9話
成り行きとは言え、なってしまったものは仕方なく。済ませられることなら手短に、と。俺はその瞬間、裸体モデルまでも覚悟するつもりでいた。
「別に脱がなくていいわ」
シャツのボタンに手を掛けたところで、そう断られる。
「なら」
まさか立ちっぱなしなんてこともなかろうと、どこか適当に座れる場所を探して。
「帰りましょうか」
「……」
「どうしたの」
「モデルやるんじゃないですっけ?」
「だから、一緒に帰るのよ」
お互いの首の傾きが一致してしまう。
「いや、だから絵を描くんじゃ」
「絵なんていつでも描けるでしょう」
頭痛を堪えつつ。
「今から描いて欲しいんですけど」
そして遅くとも今週中には、この不思議先輩から解放されたいという本音。
「今は描けない」
「何故です」
「まだ君のことをよく知らないから」
「……」
つまりそのありがたいご意向を和訳するなら、こういうことだろうか。
不遜先輩はモデルを絵に描き起こすにあたって、ただ眺めるだけでは足らず、その人格をより深く知るために。
「しばらく私と付き合ってもらうわ」
「……」
呪術師姉貴なんて言葉が脳裏を過ぎりつつ。俺が言うのもなんだけど、やっぱりおかしいんじゃないかなこの人。主に頭が。
「……お断りしたいのですが」
「私のパンツ見たくせに」
「……」
「早く出て」
そう促されて、鞄を背負うのももどかしく美術準備室から追い出される。ポカンとしているうちに手首を掴まれて、階段を引き降ろされていく。
「ちょ、何処へ?」
「帰るんでしょ」
「帰りますけど」
別にお前の家に帰るわけじゃないのよといったニュアンスを、最低限の敬意を維持したまま伝える方法を考えているうちに。昇降口まで出てしまう。
「……相変わらず集まる視線の量がやたら多いんですが」
「いつものこと」
間違いなく、いつもとは質の違う視線だろうと思った。
何故なら先輩は昇降口からこちら、俺の手を握ったままで、校庭を振り返る人々がそれを見ては一々ぎょっとするのだから。
そのうちの一人に詩織が混じっていて、感心半分な苦笑いを寄越してくれたのも、正直かなり笑えない。
「……」
とは言えもちろん、そんな公開処刑じみた境遇もやがては終わる。
「結局、駅前まで来てしまったわけですが」
「私こっち」
と、先輩が指差した路線方向は幸いにも我が家の方向とは真反対で。
思わず内心、小さく拳を握る。
「じゃあここでお別れですね」
「……」
手を振りそのまま去ろうとする俺を無感動に見つめる先輩。
離されることのない右手。
動きが鈍くなり、ついには降ろされてしまう俺の左手。
「……あの、」正直かなり怖かった。「何ですか」
「引っ越さない」「引っ越さないです」
条件反射に返事をした後で、何言ってんだこの人と遅れて戦慄した。
「家どこ」
「……聞いてどうするんですか」
「近くに引っ越すわ」「やめてください」
あるいは芸術家先輩なら、ご自身の住所を変えるくらいの出費は、小遣いの範囲で十分に収まってしまうのかもしれないけれど。
「あのですね」でもたぶん、問題はそこじゃなくてさ。「何をそんなに焦ってるんですか」
「……」
「そもそも絵を描くために知らない男と付き合うってのも変な話で…………あの、すいません。こっちがしゃべってる途中で興味なくすのって相当失礼だと思うんですが」
気付けば唯我先輩は、俺のことなんか微塵も視界に含めてなくて、その視線の先をたどれば。
「吾郎くんはどれにする」
「……」
昨日食べたから要らないなんて、下手に断ってしまうのも要らぬ面倒を招きそうで。
「あー……俺甘くないやつで」
すでに出張販売へと歩み始めていた独尊先輩の背中へと呟いてみたり。
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