第8話

 呪い云々はともかく。

 同じ学校に通ってるのだから例え一時しのぎに即席の偽名が効果をもたらそうとも、そのうち逃げ切れなくなることくらいは予想していたけれど。

「顔貸して」「嫌です」

 まさかその日の放課後、校門前で待ち伏せされているとまでは流石に想定していなくて。思わずとっさに、俺は本音で返事をしてしまう。

 小宇佐先輩は首を傾げた。

「どうして?」

「……」

 どうしてって何だ? 嫌なことに理由が必要なのか?

 俺が同じ傾きに首を傾げつつ、好きにも理由はいらないよねと脳内の姉貴がもっともらしくのたまうものだから、それに深く感心していた隙に。

「じゃあ私先帰るね、佐藤くん」、と。

 気が付けば隣を歩いていた結菜にも見捨てられ、退路さえ絶たれている。

「……」

 偽装彼女様はこちらへと一瞥もくれないまま、すれ違いざまに傲岸先輩の方へと目礼したきり、振り返ることもなく本当に行ってしまう。

「あの子先に帰るって、」俺から視線を逸しもせず。「君たち同棲しているの?」

「……ご近所さんです」

 ふーん、と。こちらの答えなんて当初から気にもしていなかったかのように。

「こっち」と、振り返りもせず先導を始める不遜先輩。

「……」

 今更この場から逃げようとも面倒ごとが消えるわけでもなく、むしろさらなる惨事になって帰ってきそうな予感ばかりがあって、内心で細かなものを諦めながら彼女の背中へとついていく。

「……」

 その道中。どうしてか、やたら周囲の視線が痛かった。

「何か注目されてるんですが」

「いつものこと」

 芸術家先輩ともなるとこのくらい、日常茶飯事程度の視線量らしい。

 平々凡々な人生を歩んできたこちらとしてはそんなもの、慣れもなければ憧れもなく、正直今すぐ帰りたい。というか帰って姉貴によしよしと甘やかされたい。

 この場に寝転がってお姉ちゃんと泣き叫べば流石の小宇佐先輩といえども、黄色い救急車くらいは呼んでくれるだろうかと思うけれど、実行へと移すにはいくらなんでも羞恥が余りある。

 まぁそんな冗談はともかく。

 俺の方だけ下校スタイルな背負い鞄のまま。校内を練り歩き、辿り着いた先は案の定と言えなくもない美術室。の隣の美術準備室。

 そこを「私の部屋」、と説明される。もちろん意味はわからない。

「自由に使っていいって。美術部の先生が」

「……左様で」

 どうやら天才ゆえの特権、というやつらしい。

「入って」、と。

 扉を開けた彼女の後に続く。

 その内側は存外簡素な部屋で、縦狭い空間に机とキャンバスが何枚か。奥の暗がりに明り取りの窓、換気口。恐らく元々は物置のような部屋だったに違いない。身構えた割りに光景が寂しく拍子抜けするとともに少し安堵した。

 それから、先輩に付随していた雨のような匂いの正体が、長らく触れる機会のなかった水彩絵の具の匂いだったのだと今更に気付く。

 通された部屋中央に椅子があって、彼女はそれに腰掛け、ちょうど詩織に見せられた写真と同じ構図で、俺の方へと向いた。辺りを見回してもそこ以外に座る場所は用意されていないらしく、仕方なしに俺は部屋の真ん中に突っ立ったまま彼女と対峙した。

「……」

 気まずい沈黙があった。

 とは言ってみるも、恐らく本当に気まずく感じているのはこちらだけで、小宇佐先輩の方は何とも思わず俺の顔を見つめているだけなのだろうけれど、なんてことを考えていたから。

 ふいに。

「あなた、」


 愛のために人を殺したことがあるのよね。


「………………」、

 絶句。すらをも通り越して、言葉を失う一瞬。

「こよりから聞いたんじゃないのよ、」

 と断りを入れられる。

 もちろんそんなことはわかっている。俺はその罪を、今まで誰にも話したことなんてなかったのだから。

 ならどうして、なんて。くるくると脳裏を周り続ける疑問に。そういうの、私はわかるのよ。と先輩は微笑んだ。

「……何のことか」、わからないと続けようとして。

「誤魔化さなくていいわ」、と擁護される。

 ……いや擁護というか、袋小路というか。

 呼吸を整えて、無理矢理に冷静さを取り戻す。

 与えられた事実をありのままに受け入れてしまうなら。どうやらこの人には、絶対に知られてはいけない俺の秘密がバレてしまっているらしいという、それだけのこと。だからまぁ過程はどうあろうとも、求められるべき結果はと言えばひとつしかない。

「それで、」口止め。「先輩の目的は何なんですか?」するつもりだった。

 俺個人としては自身の過去を蒸し返されるのも、先輩を脅迫し返す面倒もごめんこうむりたくて。そのための代償の値段を尋ねたつもりだったのだけど。

「私は愛が知りたいの」

 意外どころか、理解の遠く及ばない言葉が返ってきたので、比喩ではなく頭を抱える。

 あー。

「……わかりにくかったので、ちょっと英語で言い直してみてもらえます?」

「私は愛を描いてみたい。だからあなたには」

 絵のモデルになって欲しいの。と、相変わらずな論理破綻具合のままに、彼女はジャパニーズで宇宙語を唱えた。なるほど、天才肌って程よくオブラートに包んだ言い方だったのな、と皮肉めいたものが口元に浮かびかけて。

「脅しですか?」

 なんて尋ねてみる。つまりこの話を引き受けなければ、お前の罪をバラすぞ、と。

 しかし愚かに過ぎる問いは黙殺された。代わりかのようにふと笑って。

「君は私の身体を好きにしていいよ」

「……」

 ふざけの色なんて欠片も見られない瞳の奥底から、彼女が覗き返してくる。

 要るか要らないかで言えば正直要らない。とか口に出してしまうのも、あわや蛇が出そうで。

 半ばため息混じりに。

「そんなこと簡単に言わないでくださいよ」

「簡単に、聞こえた?」

「……」

 黙り込んでしまった俺の対面。

「私は絵さえ描ければ良いから右腕以外要らないの」と。

 すでに見慣れ始めた笑顔で、なおもあくまで尋ねてくる。

「引き受けてくれるでしょう?」

「……」この寡黙系先輩、今日はやたら口数多いなと思いつつ。「嫌ですよ」

「どうして」

 どうしても何も。

「というか、どうして先輩は俺なんかを」選んだのか、と。

 そう尋ねるつもりだった言葉は半ばで途切れてしまう。何故なら彼女はこちらが言い切るまでも聞かずに、ふっと立ち上がって。

 部屋の奥へ。

「……何してるんですか」と、思わずため息混じりに尋ねれば。

「モデルになってくれないなら」

 そこにあった窓を大きく開けて。

「飛び降りるけど」

「………………………………」

 長い沈黙があった。

 頭では、はったりだとわかっていた。この美術室は四階で、この高さから飛び降りれば身体はもちろん、先輩愛しの右腕とて無事で済むはずもなく、そんな自傷行為は先の発言に大きく矛盾する。

 とは思うのだけど。

 されどその一方で、どう考えても俺の向かいに立つ彼女の頭はおかしくて、何かとち狂って本当に飛び降りてしまう可能性がないとも言い切れず、万一そうなればやはり寝覚めは悪い。

 覚悟の質という意味での勝敗はとっくに着いていて、せめてもの当てつけにため息を添えて。

「ひとつだけ、条件があります」、と。

「……何」

 彼女は身構えるように、いくらかぎこちなく首を傾げた。珍しいその仕草に少しの可笑しみを覚えながら。

「先輩にとっての愛を教えてください」

「……」

 表情こそ変わらなかった。されどわずかに戸惑いが浮かんだのは見逃し得なかった。

「今はまだ見せられない」

「……今は?」

 というか、見せられないって。

「私はまだ、それを描けないから」

 だからこそ君を描かせて欲しいの、と。

「……俺をモデルに描くことと先輩の愛についての定義と、何の関係があるんですか」

「それも……まだわからない」

「……」

 誤魔化されているのだろうかと瞳の奥を覗き込めば、こちらがたじろぐほどに見つめ返されて、心の臓から揺さぶられる。

 拗ねたような口ぶりで。

「もし君が、私の言葉での解答を聞きたいと言うなら、それでもかなり時間がかかる」

 私は言葉が苦手だから、と。いやそんなことは、これまでのやり取りからもよくわかってたけどさ。

「……」

 改めて見ても、怖いほどに澄み切った眼差しだった。

 自身の信じる理想のためならば、例え目の前の相手を犠牲にすることさえ厭わないほどの。狂いそのものしか見当たらない純粋さ。

 ……まぁ現状この先輩の視界には俺しかいなくて、それこそ縁起でもないのだけど。

 根負けしてしまった。ため息を吐いて。

「わかりましたから、いい加減その窓閉めてください」

 そういうと、先輩は首を傾げた。

「私答えられなかったけど」

 やってくれるのか、と。

 死ぬぞと脅しておきながら、そう問い直すのだから苦笑せざるを得ない。もちろん彼女の側からしてみれば、それが脅迫であるつもりは微塵もないのだと思う。

「……やりますよ」

 これ以上難癖つけても面倒が倍に返ってきそうだし、なんて。

 一方の先輩は、心なし嬉しそうに窓を閉め、振り返って微笑んだ。

「よろしくね、吾郎くん」、と。

「……」

 相変わらずな偽名のせいで、一瞬。誰のことかわからなかったのも少し既視感。

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