第3話

 夕飯は鮭の包み焼きにしようと考えていた。

 冷蔵庫の中身を思い出しながら、補充すべき材料を買い揃えて自宅へと戻る。

 帰り着く間際にとうとう降り出されてしまって、制服の肩が少し濡れた。

「ただいま」、と。

 当然のように返事はない。

 鞄を降ろすより先に手提げ袋の中身を広げて、台所の冷蔵庫へと収めていった。

 一度自室に戻り制服を着替えてから、打ち付ける雨音を横耳に夕飯の支度を進めた。

 もちろん二人分。

 実のところ、俺がこの家の台所を任されるようになってから結構な時間が経つものでして。おかげで簡単な調理は一通り出来るようになったし、多少凝ったものでもレシピを見ながらなら大概作れるけれど。

 しかし思いがけず七時ちょうどにすべてが炊きあがってしまったものだから、自身の主夫力に恐れさえ抱く一瞬。将来の夢は(姉貴の)専業主夫がにわかに現実味を帯び始めていて、無駄に高揚したテンションでニヤける口元。

 夕飯を二つの盆に載せ、居間ではなく姉貴の部屋へと直接に運ぶ。塞がった両手ゆえ、いつも通りの肘でノックする。もちろん返事はなく、俺は器用に背中でノブを傾ける。

 そしてその声は、まるでたった今俺の帰宅に気付いたかのような驚きさえ含ませて。

「おかえり、みずくん」、と。

 ユキ姉ぇは他でもないそのベッドに座り込んだまま、微笑んでいた。

「……」

 そんな当たり前の光景に。どうしてか俺は、今日もこの人がいてくれたと安堵してしまう。

 堪えて「ただいま」、と。

 年中部屋の中央に広げっぱなしな勉強用ちゃぶ台。彼女の真向かいへと、運んできた両手の盆を載せる。

「あらピアス」

 との呟きで。すっかり痛みも忘れかけていたその存在を今更に思い出す。

「うわ、まさか本当に一日中付けてたの」

「……」何故かドン引きされていた。「ユキ姉ぇが言ったんじゃん」

「いや言ったけどさ」

 普通外すじゃん、と。

「……」

 ひくわー、と。ないわー、と。

 続けながら彼女はベッドから降りてきて俺の正面に腰を降ろす。その拍子に。

 黒。目が合って。

「舐める?」

「……」

 ラグなしでこの返答だから我が家の姉貴こそは至高なのだと思う(舐めないけれど)。

 適当に落ち着いた辺りでいただきますと手を合わせて、二人きりの夕飯が始まった。

 その直後。

「今日はどんなことがあったの」

 と。こちらが箸を取るより先にそんな質問が飛んで来るのもいつも通り。この年齢差な姉弟には珍しく、うちの姉貴は弟の学校生活をよく聞きたがる。

 しかし今日に限っては、彼女のいつも通りな質問に答えるのが少し躊躇われて。

「特に何もなかったよ」、と。

「本当に何も?」

 うっそだぁ、とせっつかれる。気恥ずかしい若干のウザさに目を瞑りつつ。

「本当に何も。授業だって一限からバックれてたし」

「……みずくん、不良?」

「ピアス開ける程度には」、と皮肉込みな弟に。

「えーつまらん」、と本能のままに垂れる姉。

「……」

 特に取り柄もない一男子高校生に、この人は一体何を期待しているのやら、とは思いつつ。同じ頭で、成人済み女性のそんな仕草を可愛いなどと感じてしまう俺も、いい加減どうかしてるわけで。

「あぁでも」、なんて。

「ん?」

 藪蛇と知りながらも続けてしまう辺りが末期だと思う。

「変な女子には会った、かな」と。

 俺は昼寝を邪魔してくれた年上少女の話を始めてしまう。その先輩のイミフ問いかけとか、彼女のプロフについて結菜が力説してくれたこととか、二人の下着の柄についてとか。

 そして最後に、こう締めくくった。

「というわけで姉貴も、今度一緒にランジェリーショップ行こうよ」

 それでもって、きちんとサイズを測ってもらったより最適なつけ心地のより際どい下着を。

 と、想いの丈を語ってみれば。

「やーよ、めんどちゃい」と、一言に切り捨てられる俺の熱意。

「……」

 めんどちゃいなら仕方ないかと、素直に引き下がる俺の熱意。

「よか、その転校生ちゃん」、と。

「ん、」

 しかし一方の姉貴はと言えば、本題にかすりもしない些末な点へと興味を引かれたらしく。

 恐ろしいことに、その台詞を口にする姉貴はこの上なく真顔だった。

「みずくんのこと好きなんじゃない」

「……んー?」

 どうしてそうなるん?

「愛を尋ねられたんでしょ?」

「きっと変な人だったんだよ」

「みずくんも人のこと言えないじゃん」

「ななな」、何だとぅ。

 なんて内心はともかく、恐らく俺の頭がおかしいのは否定しようのない客観的事実だし(つまりよく言われる)。いやそもそも、俺風情が姉上のありがたい御言葉を無碍に否定するなんて極めておこがましいというか。

 ……もしや、この辺りがそのように評される所以か。

 とか何とか、ふざけ半分な感慨へふける俺に向かって、これまた唐突に。

「でもお姉ちゃん的には、その子ありです」

「……何が?」

 急に話が飛んだ気がした。

 着地点まで付いていけなかった俺は、捻りなく尋ねるなんてことをして。

「お付き合い許可しちゃいますので、告ってみんしゃい」、と。

 さらにぶっちぎりで突き放されてしまう。

 この弟にしてこの姉ありなんて言葉が頭を過りつつ。

「正直、嫌なんだけど」

 なんて前言を翻しつつ拒絶してみる。

 基本的に否定しないということは、つまり応用的には否定するかもということで。ほら、俺は性教育も基本すっ飛ばして実践(近親ラブ)から入った口だったりするしさ。

「みずくん」、と。

 しかしそんな明後日方向への脳内言い訳を途切れさせるのに十分な口調で。

「みずくんは、愛って何だと思うの」

「ユキ姉ぇ」「もちろん違うよね?」

 姉貴は微笑んだ。(可愛い)

 質問を変えるね、と。

「どうして私はみずくんにピアスを開けさせたのかな」

「加虐嗜好、かな?」「落第だね」

 てへ、落第だ。(やっぱり可愛い)

 そんな風に本題から逃げ続けようとする俺の心を握りつぶすかのように。

「私は愛って呪いだと思うな」、と。

「……」

 例えばね。

「昨日私が思い付きで口にしたピアスしてみたらって言葉だけで、みずくんは自分の身体を傷付けて、あまつさえ授業に出ることも出来なくなっちゃったんだよね」

「……まぁ」

「みずくんにしてみれば、それがみずくんなりの私への愛だって言うつもりなんだろうけれど、言ってしまえばそれって結局はただの思考停止だよね」

「……」

 そして姉貴は何気なく尋ねた。

「もし仮に死ねって私が言ったらみずくんは」「死ぬ」「でしょう?」

 条件反射な即答に呆れ笑いをもらい受ける。

「果たして愛ってどこまで許されるべきなんだろうね?」

 ため息混じりにそう尋ねられた。その声音には、姉貴にしては珍しく憂鬱な響きが含まれていたような気がしたものだから、今度こそ緩みきった思考を締め直して、俺は慎重に答えてみた。


 どこまでも許されると俺は思うけどな。


 しばしの沈黙。

「二人だけが幸せな世界」

 姉貴は唱えるようにその言葉を口にした。

「聞こえはいいけど。でもやっぱり、どこかしらに線引きは必要だと思うよ」

 お互いが不幸になる恋愛なんて、最初から存在しない方がマシだもの。

「……」

 伏せられた視線が何かを堪えるように揺れるものだから、俺は何も言えなくなってしまう。

 されどそんな俺の無言にどんな心情を読み取ったのか。ううん、やっぱり違うよみずくん、と姉貴は微笑んだ。

「みずくんはね、今日私を裏切るべきだったの」

「……」

 もし心に浮かんだ言葉をそのまま綴ることが許されるなら。

 出来るわけないのに、と。

 されどきっと、こちらの内心をわかっていながら繰り返すのだから、この姉の本質はやっぱり加虐嗜好なんじゃないかと思う。

「みずくんは今日。私の言いつけを破って、ピアスを外すべきだった」

「……どうして、」

 そんなこと言うの。なんて言わせてくれもしなかった。

「もちろんそれが、私の愛だからだよ」

 と。

 もちろん意味なんてわからない。

 だけどそんな言い訳さえも到底見逃してもらえそうにない顔で。


 だって私はみずくんの××××だから。


「……」

「……」

 取り返しのつきそうにない静寂が、この部屋の隅々にまで染み込む。

 後から思えば、姉貴のその台詞はたぶんある種のルール違反ですらあったのだと思う。

 お互いの沈黙が耳に痛いほど横たわった数瞬の後。「とにかく、」と。

 不自然に雑音の混じった言葉はなかったことにされる。

「このままだと、みずくんはたぶんどこにも行けなくなっちゃうから」

 少しは頑張ってみんしゃい、と。

 しかし俺は上手く返事ができない。

 思考が軋みをあげながら、普段通りに動ける速度まで暖まるのをしばらく待つ。その過程で、いつの間にか背筋が壊れそうなほど冷えていたことに気付いて。あたかも今一瞬、どこか遠くまで意識が飛ばされていたような感触だった。

 ようやく息を吸い込んで。

「……何、を?」

「そりゃあれよ、青春よ」

「……」

 高校以来な引きこもり歴を持つ姉貴に諭されても、なんて感想が頭を過りつつ。しかしこれ以上反論を続けてしまえば、つい先ほど覚えた歪みのような感覚がまた襲ってくるだろう予感も拭いきれなくて、安易に口を開くことさえしばし躊躇われてしまう。

 まぁ、とは言ってみても。ふざけの色が欠片も見られない瞳にこちらとて感じ入るものがないわけでもない。肩をすくめることで返事の代わりとする。

 そんな俺の仕草に、姉貴は呆れ混じりにでも、微笑んでくれた。

 ほとんど味もしないまま、気付けばすでに食べ終えてしまっていた食膳を前にごちそうさま、と手を合わせたところで。「それはそうと姉貴」、この瞬間まで見て見ぬふりを続けてきたささやかな事実を指摘してみたり。

「今日も全然食べてないね」

 どころかアルミホイルを開いてすらいない。包み焼きなのに。

 思わずそうぼやくと。

「あー、ね。うん」

 一転。微笑みをかたどる口元が、後ろめたさを誤魔化すようなそれに変わる。

「……」

 そんな風に視線を逸らさずとも、俺が姉貴を怒れるはずもないのに。

 ただ「体壊すよ」、と一言。

「……だから、私の分は作らなくても良いって」

「そんなわけにもいかないでしょ」

 それにしても。俺の前で物を口にしない姉貴の栄養事情は、心底不思議だったりする。

 たぶんほとんど外出しないゆえカロリー消費が少ないのと、俺がいない時間帯に冷蔵庫でも漁っているのだろうとは思っているけれど。

「それよか、」と姉貴は手を合わせて。

「明日はちゃんとピアス外して授業受けなさいね」、なんて。

 たぶん誤魔化し半分にでも姉貴が微笑むものだから。

 この人に愛されてるんだなと感じる一瞬。

「でないとまた、こよちゃんに怒られるよ」

 ……いや、やっぱり加虐嗜好。

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