第2話

 二度目の起床は、顔を踏まれての爽やかなものだった。

「帰るよ、シスコンお馬鹿」

 と、罵倒まで降ってくる始末。

 サービス過多な至れり尽くせりだったけれど、流石に気が引けたのか俺を踏むに際してわざわざ靴を脱いでいた辺り、正直この幼馴染もまだまだ甘い。

「黄色」

「何が……?」

 と、尋ねてくるから、何でもないよとかぶりを振りつつ起き上がってやった。

 たぶん言葉の意味に気付くのは、結菜が帰宅して制服を私服へと着替える過程さなか。その時の赤面っぷりを想像すれば、寝起きの踏まれた分もプラマイゼロということにできそうな気分だった。

 一方、そんな俺の内心も知らない彼女は上履きを履き直しつつ、持ってきてくれたらしき俺の鞄をこちらへと放り投げる。いや、投げるなよ。

「ずっと寝てたの?」

「……そうでもないかな」

 なんて、屋上から昇降口へと降りるまでの退屈しのぎに俺は。昼日中、俺の安眠を邪魔してくれた無遠慮女子の話をまたぺらぺら。

 すると思いがけず、結菜は小首を傾げて。

「それってもしかしなくても、小宇佐先輩じゃない」、と。

 予想だにしない反応が返ってきたものだから、とっさに少し考え込んでしまう。しかしそのかいなく俺の脳内検索は空振りを返し、視界の傾きは水平を割った。

「……誰よ?」

「あれ、知らないの?」

 だから知ってるわけないでしょ、と。しかし結菜は続ける。

「超有名人じゃん」

「……は?」

 彼女が少し得意気に説明してくれたところによれば、言わずとも知れた小宇佐先輩とは、何を隠そう数日前の全校朝礼で理事長に名指し紹介された転校生とのこと。

 もちろん、いくら我が校二代目経営者の能力が多少疑わしかろうとも、たかが転校してきたってだけで毎度そいつを全校生徒にわざわざ紹介する手間を惜しまないなんてこともなかろうて、その光景は余程記憶に残るものだったに違いない。

「俺は覚えてないんだけどね」

「水樹はどうせ、その日も遅刻してたんだから」

 なるほど、賢い。

「天才なんだってさ」

「……」

 一瞬、唐突な自画自賛かと思ったけれど、どうやら『天才』というのがその先輩への世間一般的な評価らしい。

 やたら真剣な語り手、結菜嬢曰く。その小宇佐先輩とやらは、絵画の世界ではそれなりに有名な神童だったらしい。同じく芸術家の両親、海外の某巨匠への弟子入り、学生には想像もつかないような値段で競り落とされた彼女の作品群。

 そしてそんな実績すべてを放り投げての、突然の転校。しかもこんな辺鄙な場所にある私立校へとだなんて。

 もちろんうちの学校に美術科なんて高尚なものがあるはずもなくて、それどころか。

「美術部だってまともに活動してるか怪しいものでしょ、確か」

 というより、ここの生徒らで部活がまともに機能するはずもないというか。

「でもそれよか問題はさ」と、幼馴染は続ける。

 そんな謎だらけな経歴に加えて、授業の和を乱すどころか、勝手にキャンパスを取り出しては洋画を描き始めるといったような、時間割りを斜めに裂きかねない先輩の無軌道っぷりの数々ゆえに、変人慣れした教師らでさえ物怖じしてろくに指導できぬ有様とか何とか。

「どうでもいいや」

 ぐだ語りを遮る形で心に浮かんだままそうつぶやけば「えー」、と彼女は不満そうな声をあげた。

「せっかく教えてあげたのに」

 いや別に頼んでないし。

「というか、どうしてそんな知ってるのよ」

 正直引くわ。

 いやいや異議あり、と結菜嬢は手を振る。

「うちの生徒なら誰でも知ってるよ」

 知らないのは友達いない水樹だけ、と。

「……あー左様で」

 みんな暇なんだな。

 それから少し白けたような沈黙があって、やがて俺たちは学校最寄りの駅前まで辿り着く。

 昇降口からここまでが信号ひとつきりの五分弱で、この交通の便こそが我が校ひとつめのご自慢だったりするらしいが。

 皮肉なため息混じりに辺りを見回す。

 そこら一帯はやたらとベンチが配置される程度には無駄なスペースを持て余していて。されど今にも降り出しそうな曇り空ゆえか、せっかくの広場は心なし閑散としていた。片隅の喫煙スペースでたむろす老人たち以外、野良猫一匹見当たらない。控えめに言っても、私立校最寄りであるという以上に形容しようのない田舎駅そのものと言った雰囲気。

 むろん、文句があるわけでもなければ変化が欲しいわけでもない。ただただ、見るたびに気の滅入るダウナー感が鬱陶しいだけなんです(わかるでしょ?)。

 そんな光景の真ん中を横切って、改札へと向かおうとした俺の袖を何かが引っ張る。

「何?」、と振り返れば。

「あれ」、と結菜が指差す。

 その先。古びた薬局店手前に、某有名ドーナツチェーン店の出張販売があって。

 唸りかけつつ、なおも首を傾げる。

「……だから、何?」

「おごれ」

 不遜かつ物怖じせずそうおっしゃるものだから、こちらとしても思わず息が止まってしまう。

 ひとまず深呼吸をしてみた。酸欠が解消され落ち着きを取り戻したのち、五歳児にでも道理を説くつもりで。

「何で、俺がおごんなくちゃいけないの?」

「ワタシ、オマエノ、カノジョ」

「……」、いやいやいや。

 そんな笑顔の片言で言われてみても建前はあくまで建前で、こちらの財布が膨らむわけでなし。いや確かに、その微笑みは卑怯なくらい可愛いと思ってしまったけどさ。正直少しぐらつきかけたけどさ。

「いいじゃんいいじゃん、彼女税みたいなものだと思ってよ」

 肩をバシバシと叩かれ、だから彼女じゃないっつってんだろと思いつつも俺はいよいよ閉口する。何故ならここは曲がりなりにも学校最寄り駅前で、当然のように周囲には下校途中な生徒らの姿がちらほら。そんな公衆の面前ゆえ、俺は彼女の言葉を無碍に否定することもできないという。

 なんてことまでこいつが計算済みだろうと思えば、多少腹が立つのも仕方なくない?

 けどそこをあえてね、大人な水樹くんは微笑んでやるのですよ。

「いいよ、何が食べたい?」

 しかし相手は急に真顔になって、次の瞬間には呆れたようなため息。

「……水樹さぁ、作ってるつもりだろうけど。その笑顔怖いよ」

 殺すぞ。

 失礼極まりないことをのたまいながらも、ちゃっかり何たらフレンチとやや高めな品を要求してくる辺り。こいつもいい加減、俺のことをATMか何かとしか思ってなさそう。

 俺は他の誰でもない姉貴のATMだぞ、なんて声高に主張してみても仕方なく。

 ため息ばかり上手くなる今日この頃。

 そんな不意打ちに。

「水樹は何にする?」と、尋ねられて。

「……あれ。甘くないの」

 そんな不明瞭な言い方でも通じてしまったオールド何とかを一緒に購入してもらう。店前から退いた辺りで財布を取り出そうとしたら「いらんがな」と、オールド何とかのみが残る紙袋を押し付けられる。

「……俺がおごるって話じゃなかったけ」

「彼氏税じゃけぇ、取っとき」

「……」

 セール中でお手頃価格一〇八円ながら、結局おごられてしまったのは俺の方なんて。いじめられていたつもりが、気付けば本物のバカップルみたいな茶番をいつの間にか担がされていたみたい。

 まぁ、何と言うか。

「ありがたくいただきます」

「うむ」

 こうして俺たちは駅前植え込み脇のベンチにて、帰宅途中な生徒らの生温かい視線に晒されながら。仲良く並んでドーナツを食しましたとさ。はいはい。めでたくなし、めでたくなし。

 なんて、不貞腐れたような表情だったろう俺の横で、自称彼女様はと言えば本心から楽しそうに。

「こういう既成事実も、積み重ねが大事だよね」

「……」

 否定はしない。けど釈然ともしなかった。

 本末転倒というかミイラ取りがミイラというか。

 ……まぁ、正直どうでもいいんだけどね。

 見渡せば、やっぱり景色は視界の隅々まで起伏ない午後の昼下がり。

 今その一部に、俺たちも組み込まれようとしている。

 それは何もかもを放り投げて逃げ出したくなるような放課後だった。ろくな部活にも所属せず、やることはと言っても買い食いが精々の俺と結菜は、今日もただ淡々と帰路を消化する。

 やがて揃って食べ終わり、んじゃ帰ろか、と立ち上がる。

 電車に乗って四駅。再び改札を抜ける頃には、すわ終末かと疑いたくなるくらいの憂鬱な曇り空が頭上一面を覆っていた。

「……もう葉桜だね」、と。

 結菜は嬉しそうに木立を指差した。けれど、俺が視線を向けたきり何の反応も返せないでいたものだから、私は好きだなと独り言に続ける。

 横幅あるアスファルトの端を歩く。両手側をだだっ広い団地の塀に挟まれて、かと思えば頭上を横切る航空機の残響に晒されたり、さ。

 少し前を歩いていた結菜が、思い出したように振り返った。

「明日は外してきなね」

「何が?」

 これよ、と俺の耳元へ手を伸ばす。すっかり存在を忘れていたピアスに、少女のか細い指先が触れる。

「ユキ姉ぇにも、いい加減にしなって」

「……」

 思わず返事をしぶっていると、別に待っていた様子もなくそれじゃと手を振る。

 気付けばそこはもう俺たちの住む団地手前で、結菜はこのまま帰ってしまうつもりだったみたい。

 俺の方だって、夕飯の買い物をするために商店街の方へと寄る必要があって、普段ならお互いいつものことだからと、ここで手を振ってしまう。

 だけど今日に限っては。

「週末、」

 と、去り際の背中に言うつもりのなかった声をかけてしまう。

 結菜は振り向かないままに立ち止まった。きっと向こうだってここ数日、こうして切り出される瞬間をずっと身構えていたに違いない。

「何さ?」

「行くんでしょ」

「行くけどさ」振り返って、微笑み。「水樹も行くよね」

「……」

 行くけどさ。こっちから言い出さなきゃ知らせもしなかったろうくせに。

 だけど。相変わらずこの話題になると、未だ泣きそうな笑みを浮かべるものだから。

「お兄ちゃんも喜ぶよ、きっと」

「……」

 俺は何も言えなくなってしまう。

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