純愛0%

言無人夢

第1話

「絶対怒られるもん。知らないからね」、と。

 結菜のやつには登校中の時点から釘を刺されてました。

 まぁ結果はと言えば、そりゃもう怒られて。

 ふんわりと昼休みまでは保つかな、なんて想像をしてたけれど一限から見つかってしまうんだもの。思ったより教師ってのも生徒の耳元なんかよく見てます。

 それでどうなったかって。当然、外せ外せって。

 ちらっと視線を向けた先で、結菜は口をへの字にそっぽを向いていて。こっちの窮地を心配してくれるつもりなんて微塵もないみたいでした。まぁ救いようもなく馬鹿なのはもちろん、ぶっちぎりで校則無視してた俺だろうけどさ。

 でも本音から言わせてもらえるなら。外せるわけないでしょう、と。だって姉貴が開けてくれたんですよ、このピアス。

「姉貴」、と。

 ずっと黙ったままこちらを見下ろし続けていた寡黙系先輩が、俺へとそう尋ねて来た。

 ……どうでもいいけどこの人。語尾に覇気がないから、正直本当に尋ねられているのかもよくわからない。もしかしたら語感を確認してるだけかもしれないじゃない?

 アネキ。……む、なかなか口元が気持ちいい単語ね、なんて。

 まぁでも、恐らく問われてるのだろうことは察せられたので。素直に「俺シスコンなんですよ」と答えたら、先輩は「ふーん」と頷いてくれた。

 だから、そういう反応もわかりにくいって……まぁいいか。

 いやもちろん、このまま授業に出たら怒られるだろうなってくらいは、現代社会を生き抜くための公約数的常識がすっぽり抜けている、なんて評価を(幼馴染から)下されたことのある俺でも、流石にわかってましたよ。

 だけどほら、姉貴に今日一日は外しちゃダメとか言われてたでしょ?

 姉貴と教師、どっちの命令を取るかなんて考えるまでもなし。面倒だったからぱっと立ち上がって、腹痛いですって真顔で。向こうがぽかんとしてるうちに走ってきましたよね。

「屋上まで」

 屋上までです、と俺は頷く。ふーんと返ってくる。

 今のふーんには、こちらの続きを促すような響きが含まれているような気がした。もちろん実際のところ、先輩が本心から話の先を聞きたがっていたかは定かでない。もしかしたら飽き飽きしてたかもしれないじゃない?

 ふーん。よかこの後輩くん、自分の退屈さが嫌になったりしないのかしら、とか。

 だけど俺は、勝手に先を続けてみる。あるいはこの話を始めたその時と同じように、ほとんど返事のない寡黙系先輩に向かって、独り言みたいに。

 ……。

 屋上まで走ってきて、だけどもちろん。ここには当然のように誰もいなかったんです。

 ちょっとそこからの景色を眺めてみてくださいよ。ここから世界の上半分、ぜんぶ青空じゃないですか。

 一人っきりでこの広々としたコンクリートの真ん中に立ち尽くしていたら、何だかどうでも良くなってきちゃってさ。

 授業のことだけじゃなくて、色んなことが。

 ……。

 俺はこうやって死んでいくんだろうなって思いましたよ。

 もちろん傍から見れば、授業フケたくらいで何言ってるんだって話だろうけど。

 だけどその時の俺は突然どうしようもない寂しさに襲われて。今思えばそれは、ある種の絶望だったような気さえしますね。

 だからまぁ、わざわざこんな高さまで上ってきて寝転がってみたんですよ。これが存外気持ちよくて。あぁ人がダメになるのって、きっとこんな場所でのことなんだろうな、と。

 綺麗にまとめてしまえば、もちろん授業サボるのも屋上で眠るのも初めてだったけど、それにしては悪くない経験だったのかなって。

「ピアスも」

 ……あぁそう、ピアスもですね。そっちは別に気持ちよくなかったけれど。

 ……。

 さて、と。

 これで俺の話は概ねおしまい。特に続けるべき内容もオチもなくて。外面は平静を装いつつ、実のところ。俺は内心この場から逃げる算段さえ付け始めていた。

 だって万一にもこのまま先輩の説教が始まってしまったなら、喋るだけ喋らされた俺もとんだお間抜けって絵面になるじゃない?

 それにしても。

「……?」

 気付けば向こうは、それっきり無言。

 どうしたかと気になり、少し窮屈な姿勢で見遣った先の先輩は、とうに俺への興味など失くしてしまったかのごとく、屋上片隅の蔵水タンクへと視線を向けていた。

 訝しく思って彼女と同じ方向を追って見る。

 しかしむろん、特に眺めて楽しそうな風景などなく、そこでは変哲ないパイプがいくつか絡み合っているばかりで。

 ……とりあえずまぁ、

 そんな態度を見るに。少なくともこの先輩には、初めから俺のサボりを咎めるつもりがあったというわけでもないらしい。いや、確かにその点はありがたいけどさ。

 何と言うか、ねぇ……。

「……」

「…………くぁ、」

 いやぁ、いい天気。

 空は突き抜けるような快晴で、陽射しの暖かさは春の涼風に砕かれる。

 つまり何が言いたいかって、もし俺がここに一人きりだったならそれは、申し分ない昼寝ロケーションだったろうに、と。

 にわかに恨めしき先輩の横顔へと、視線を戻す。その時ようやく気付いたさりげない事実だけど。

 その先輩は恐ろしいくらいの美人だった。

 ……いや、だからどうしたって話でもないけどさ。

 居心地悪い沈黙の真ん中。しかし俺はと言えばこの人に起こされた姿勢のまま。つまりは手枕の仰向けで。

 ふむ、水色。

 言うか言うまいかと悩んだのはわずか一瞬のこと。

「先輩」

「何」と、先輩はこちらへと視線を向けもせずに。

「下着見えてますよ」

 正直は比類なき美徳で。これで彼女も腹を立てて消え失せてくれるか、と。

 そんな甘いこと考えていた時期が俺にもありました。

「……今更」吐息のように。

 見せてるから、と。

 それだけ。

 そしてまた何事もなかったかのように、先輩の視線は彼方へと向けられて。

「……」、えー。

 恥じらうどころか隠す仕草さえしないものだから。健全な性欲を持て余す一男子高校生な俺としては素直に困ってしまう。

 困ってしまったついでの嫌がらせ半分に。

 俺はまじまじとそれを眺めてしまう。

 残り半分はどうせ性欲だろと指摘されれば。まぁ否定はしないよ、うん。

 ……。

 ひたすらに長く虚しい時間は、こうして意味もなく過ぎていった。

 教師の前ではついぞ芽生えることのなかった反省の兆しさえ心を過るほどに、俺はかつてなくそこはかとなく、いたたまれない気持ちになってしまっていたり。

 いや、まぁ。これもやっぱり自業自得なんだろうけどさ。

 ……しかしここまで自然体だと、パンチラというかパンモロというか。正直ただの布だなって感想が先に出てきてしまって、ありがたみの欠片もない。そもそも女性下着なら、姉貴のそれを毎日洗濯してるどころか選んで買ってくるのも俺だったりするのだし、それこそ今更。

 だけど何ていうか、わかってくれるかなぁ。

 正直、ここで目を逸らしても負けかなんて気がしてさ(わかるでしょ?)、結構かなりの時間。俺は名も知らない初対面先輩のパンツを眺めていた。

 その時考えていたことを少し並べてみようか、例えば。

 よく見たら細かいデザインまでちゃんと刺繍で作られてるし姉貴のやつよりいい値段しそうだなとか、そろそろうちの姫君にもランクアップを促してみてもいい頃合いかもしれない、とか。だけどいやいや決して俺個人の好みが際どい系とかそういう話じゃなくて、とか。

 そんなことを思いつつふと視線を横にずらせば。いつの間にかガン見先輩は、俺の顔を興味深そうに観察していた。

 何とも塩辛い、数秒に渡るお見合いの末。だけどそれはたぶん、根負けしたってわけでもなさそうに。

「君は変わってるのね」、と。

 呆れたのでもなく、ただの確認みたいな呟きだった。

「……かもですね」

 言われたこっちからしてみれば正直目の前のこの人ほどは変わってるつもりがなくて微妙な気持ちになったけど、そこはそれ。

 他人様の変態事情になんて耳垢ほどにも興味が「名前は」

「ん?」「何」

「……」

 あぁ俺の名前が訊かれてるのか、と気付くのが遅れる。

「佐藤です」

「下」

 下? ……あぁこれもやっぱり名前か。

「吾郎」

 その先輩はふーんと。それからようやく腰を降ろして、俺の視界から布切れが消える。

 少しの安堵に油断でも混じってしまったのだろうけれど。迂闊にも俺は、思わず尋ねてしまう。

「そういう先輩のお名前は?」

 んー、と間延びした声が聞こえて。「知らないの?」、と。

 何様だこの人、知ってるわけないでしょと思いつつ、一応の訊いてしまった手前。知らないですと、ことなかれな俺は素直に頷いた。

 毛先ほどの微かな驚き混じりに覗き込まれて。

「やっぱり変わってるのね」

「……」

 先輩はたぶんその時初めて、俺の前で微笑んだ。

 ……。

 もちろんその一瞬に、様々な想いが俺の脳裏を過ぎて行った。それは例えば、気安く口にするだけで淡く消えてしまいそうなものから、直接本人に言ったら深く気分を害しそうなものまで。

 しかしまぁ。

 どうでもいいか、と。俺は寝返りを打ち、目を閉じる。

 その際開けたばかりのピアス穴が痛んだのもご愛嬌。

 結局名前を聞けてないことに気付いてしまったのもご愛嬌。

 そもそもこの自意識先輩に起こされてさえいなければ、俺は放課後までぐっすりがっつり眠るはずだったもんね。

 ほら見てよ。案の定片目だけで見遣った腕時計の針だって、まだ三限の真ん中くらいを過ぎたばかりだし。

 ……。

 ってことは、考えてみれば背後の過剰先輩も、進行形に授業をサボりんぐなわけで。

 てっきり昼休みか何かだと思っていた。

 俺が自身のサボ経緯をペラペラと喋ってしまったのも、寝ているところだった頬をぺちぺち叩かれたゆえの混乱だったのだし。

 先輩ぺちぺち、俺ペラペラ。

 こともあろうにこの先輩、人を叩き起こしといた分際で授業出なくていいの、と。ご自分のことは余程背高い棚の上にあげて。

 正直、超怖かったよね。

 だって普通、相手が立ち上がるまで待つとかするじゃない?

 でもこの人の場合、こっちが寝そべってるうちから、俺を見下ろしてきてそのまま質問攻めにするんだもの。てっきり怒られてるんだと。

 あと、その時点からパンツ丸見えだったし。

 ……。

 思い出した徒労感でようやく少しの眠気がぶり返してきたところに。

「吾郎くん」、と呼ばれて。

 一瞬誰のことかわからなかった。や、だって俺の本名は水樹だし。

 しかし偽名を名乗った手前、腕枕のままながら律儀な吾郎くんは何ですかとサボ先輩に返事をして差し上げる。


「愛って何だと思う」


「……」あー。

 WH疑問文だし、やっぱり尋ねられてるのよな、これ。

 ……、寝たふりしておけばよかったと束の間の後悔。にしてもやっぱりこの先輩、どこかしらが何かしらの意味合いでおかしいんじゃないだろうか、なんて。

 だって普通訊かないでしょ、初対面後輩にそんなこと。

 それでも一瞬、与えられた質問の意図を真剣に考えて。

「俺の姉貴です」、と。

 真面目に考えてもふざけた解答しか思い浮かばなかった。

 愛、即ち姉である。

 それこそは俺が齢十六にして辿り着いた、この世界ただひとつきり紛れもない真実なのであります。

「ふーん」、と。またつまらなさそうな返事。

「……」

 虚無感。

 しかしまぁ、繰り返された反応も予想のうち。流石にもう学んだ俺は、先輩の存在も気にせずそのまま眠りへと戻る。つもりだった目蓋裏の闇中に。しばらく沈黙があって。

 ……。

 あんまりに音がしなかったものだから、いい加減どこかに行ってくれたかと目を開けてみれば、至近距離に先輩の顔があって吾郎くんはめちゃくちゃびっくりしました。

「ななな何ですか」

「別に」

 何が『別に』なんだか。それじゃあお前の本題はどこにあるつもりだ、なんて。緩みきった若者日本語を問い質したい気持ち。

 いつの間にやら俺と向かい合わせに寝そべっていたその女には、覇気もなければ音もなく。ついでに言えば体臭もなく。皮肉込みでご実家は伊賀か甲賀か、あるいは風魔の隠れ里ですね、と。

 いや、……そうでもないのかな。

 雑な冗談を捨てた脳裏に改めて嗅いでみると、その先輩からは微かに雨の匂いがした。

 雨というか、慣れすぎて遠い昔に忘れてしまった記憶のような。そんな香り。

 何だっけなと思い出す間もなく、口元が触れ合う。

 伏せられた瞳が音もなく離れていき、今のそれがキスだったのだと理解した途端、血の気が引いて目眩がした。

「………………」ななななななな。

 思わずこちらが言葉を失っているうちに、何事もなかったかのごとく、逆レイプ先輩はふわりと立ち上がる。

 恐ろしいことに、どうやらこのまま立ち去ってしまう構えのようで。

 さいこぱす。

 なんて無意味な英単語が浮かぶ頭の片隅。もちろん黙って行かせるものかとは思うのだけど、これ以上の藪蛇も恐ろしく。臆病な俺の口元はだんまりを続けやがる。

 ついでに言えば、急に背を向けられたものだから向こうとしては恐らくもう故意でもなく、またスカートの内側が覗けてしまった。

「……」

 今度のは、少し色気があった。

 かっかっかっ、と。急いでる印象でもなしに梯子を軽快に降りていく音。

 重い鉄扉が開かれ閉じられる音。

 そして静寂。

「…………………………」え?

 本気か? お前、ちょっと待て。おい。

 いやいや嘘でしょ。これだけで終わりとか。まさか、

 とは思いつつ。

 混乱極め極みな思考を、強いて無理矢理に切り替えてみる。

 ……。

 ………。

 …………。

「まったく」、

 本当にいい天気。

 何が言いたいかって、つまり誰もいないここは今や最高の昼寝ロケーションだってことで。

 ようやく独り占めできたその景色を、俺はしばらくただ無心に眺めていた。

「……まぁ、」

 別に。と、首に込めてしまっていた力を意図して抜いてみる。

 こんな出会いで、俺は心動かされたりなんてしない。

 いや、本当に。嘘臭いのをあえて言うけど、たぶん強がりでもなくて。

 まるでラノベみたいなミーツガール。授業をサボった屋上で寡黙系先輩に愛を尋ねられた挙句、唇を奪われる。そんな非日常。

 改めて考えるまでもなく、そんなの俺には必要ないし興味もないもの。だから出来れば二度と彼女に遭遇することさえ、ごめんこうむりたい。

 なんせこっちは今手元にある掃き溜めのような日常羅列だけでも、生き抜いてくのに精一杯なのですから。

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