第5話 よどむことなく
宝物庫を後にし、客間へ向かって廊下を歩いていると、途中で父が待ち構えていた。
「父上、あの、無断で城を抜け出していたのは……」
「恩人だという若者は、何も知らぬのだろう?」
もう伝わっている。いや、それより何より――鋭い。
「……はい。ですが、大丈夫です」
「あの箱を使えばな」
すっと頭が冷えた。
やはり、父だけは
すぐには言葉の出てこない私を見て、父は小さく息をつき、
「己の立場は、わかっているな?」
有無を言わせぬ威圧感。逆らうという選択肢は、最初から用意されていない。
「わかっております。宴が終われば、すぐに故郷へ帰らせます」
ほんのひと時でいい。ごく平凡な男女のように共に過ごしてみたい――私の願いは、ただそれだけだ。元より、それ以上は望んでいない。
父は私をじっと見つめ、
「それならもう、何も言わん。後は自分でよくよく考えて、なすべきことをせよ」
そう言い置いて去って行った。
父の姿が見えなくなった途端、体の
私は再び歩き出した。廊下の角を曲がると、きらびやかな彩色画が目に飛び込んできた。悠々と海鳥が飛ぶ風景を描いた
「乙です。待たせてしまいましたね」
間を置かず、中にいる侍女が襖をすっと開けた。
広々とした客間は、装飾が過剰にならぬよう抑えられているため、落ち着いた雰囲気を
中に入ると、侍女たちは浦島からさっと一歩引き、
「何か
「いえ、不満など何もありません。このように、あれやこれやと人からもてなされたのは初めてなもので。お恥ずかしながら、どう受け止めればいいのか戸惑ってばかりなのですよ。こういう大きな宴での振る舞い方など、身に付ける機会もありませんでしたから」
私は思わず噴き出した。
「宴を行うのはもう少し後です。今、急いで支度をさせています。それを待っていただくために、こうして侍女に接待をさせていたのですが……」
浦島はぽかんとしていたが、じきに自分の勘違いに気づいて顔を赤くした。
「そ、そうだったんですか。私にはこれでも充分、豪勢で。まるで別世界に来たような心地でしたから、てっきり」
「ごめんなさい、笑ったりして。でもこれは、あなたがおかしいからではないのですよ。私が何気なく侍女たちに命じたことが、まさかこんな勘違いを引き起こすとは思わなかったものですから。裏を返せば、あなたに宴だと思わせるほど、侍女たちは心を尽くしてもてなしていたのですね。これはうれしいことです」
そう言い添えても、浦島は恥ずかしそうに目をそらしていた。
私は表情を改め、
「少し、城を案内しましょう。あなたにはそちらの方が合っていそうですし、いい土産話にもなるでしょうから」
立ち上がって浦島を誘うと、彼だけでなく侍女たちも立ち上がった。私はきっぱりとそれを制した。
「あなたたちは宴の支度を手伝ってらっしゃい。案内は私一人でできますから」
「ですが、殿方とお二人だけでというのは……」
「心配いりません。浦島殿は決して、私を傷つけるようなことはしませんから」
まだ何か言いたそうな侍女を振り切るように、客間を後にした。浦島も私についてきたものの、戸惑った様子で、
「いいんですか? あんなことをして。後々もめたりしませんか? 私は侍女の方々がついてきても気にしませんし、あるいは、城の案内は別の機会にでも……」
私は足を止め、
「彼女たちは、まだあなたに疑念を抱いているのです。来客、それも恩人に対して、あれでは礼を欠いています。私が一人で城を案内しても何事もなければ、疑いが
浦島が、ふと
「何を
「え?」
「家臣は主君の身を案じ、用心に用心を重ねるもの。万に一つのことも起きぬよう、あらゆる可能性を考え、危険を遠ざけるのが務め……そう聞いたことがあります。あなたが恩人だと言ったところで、私の
すぐには言葉が返せなかった。
その通りだ。私はわかっている、侍女たちのほうが正しいと。城の中とはいえ、素性を確かめてもいない男と二人きりで過ごすなんて、危険だと
それでも。
「長らく
「え?」
「ですが、まだ決して私の耳に入れてはいけないそうです」
「あの、それはいったい……」
私は
「家臣がそう話しているのを、偶然聞いてしまったのです。父の子は私一人。婿選びが
私が何を選ぶか、どう振る舞うか、どのように生きるか――すべてが周囲によって決められてしまう。
領主の子とは、そういうもの。他に子がいなければ、なおのこと――わかっている。わかっているけれど。
実は、浦島に釣り上げられたあの日も、婿選びの話を耳にして
浦島は黙って、ただ私が話すのを聞いていた。
「父が
己の自由のために、父の心を無視している――ひどい娘だ。
「私は、ただの人形にはなれそうもありません。理想像を演じるのにも、時々疲れてしまいます。上に立つ者としてどころか、子としても失格なのでしょうね」
私の言葉が途切れると、浦島はいつもの
「城を案内していただけますか?」
そう願い出た。私が困惑していると、
「いい土産話になるぐらい、素晴らしい城なのでしょう? 私だけでなく、きっとあなたの心も晴れますよ。二人で見て回れば、なおさら」
さあ、と促された。
言われるままに、私は彼を先導して廊下を歩いた。浦島は後をついてきながら、
「この城に滞在させていただく間だけにはなりますが、それでよければ、あなたに付き合いましょう。私は、しがない漁師にすぎません。これが、私にできる精一杯です」
振り向かないまま、私は問うた。
「あなたは私のような者に対しても、同情してくれるのですね」
「え?」
「衣食住が保証された身分で、さらにそれ以上を望むなんて、あなたから見れば
浦島は少し間を置いてから、感情を抑えた静かな声で語り始めた。
「同情……と言えば、そうなのでしょうね。私も身勝手な人間ですから。
これまでの彼と、まとう空気そのものが何か違って感じられた。どこか
「昔は、親に仕事を手伝わされるのを、のらりくらりとかわして逃げてばかりでした。それどころか、親の稼ぎでこっそり飲み食いしたり、遊んだりしこともありますよ。『あんたの子供になりたくてなったんじゃない』なんて、捨て
いったん言葉を区切ると、少し口調も表情もやわらげ、
「ですが、城を案内していただきたいと言ったのは、同情とは関係ありません。元々、城の中がいったいどのようになっているのか、気になっていたんです。外から見ただけでも、たいそう立派な城で驚かされましたから。中ももっと見られればいいのに、と。城内のみなさんを、何よりあなたを
なぜだろう――ほっとしているのは。
どうして、この男は。
たしなめるでなく。責めるでなく。なぐさめるでなく。ただ、穏やかな波のように、こちらの心を受け止める――こんな風に接してくる者は、初めてだった。
一つ、深く息を吸い、吐く。
まだ、大丈夫だ。もう、大丈夫だ。
私は何もなかったように、城の案内を続けた。
「さあ、こちらへ。きっと、見れば驚きますよ」
浦島も、何もなかったようについてきているのが、気配でわかった。
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