第6話 一河となりて
階段を下ると、こじんまりとした部屋にたどり着いた。浦島は、やや不思議そうに部屋を眺めている。
「ここに何かあるのですか? 『
予想通りの反応だ。
この部屋には、装飾品どころか調度品もない。障子の木枠や紙も真新しく、そこを通って降りそそぐ光が、やわらかな明るさを醸し出している。小ざっぱりしていると言えば聞こえはいいが、目を引くようなところもない。
私は部屋の東側へ行き、
「中ではなく、外にあるのですよ」
すっと障子を引き開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、薄紅色だった。
どっしりと存在感のある桜が、枝も見えかねるほど花を咲かせていた。その花弁を、そよ吹く風がひらりひらりと舞わせている。
浦島が、
「春はとうに過ぎたのに、桜がこれほど咲いているなんて……」
その言葉にはっとした。そもそも、ここと人間界とでは季節が一致していないのだが、彼はそれにすら気づいていない。
胸が少し、痛む。
私も浦島の隣に立ち、しばし庭に
頃合いを見計らって、私は部屋の南側へ浦島を誘った。先ほどと同じように障子を開けると――。
「え……?」
そこに広がる光景は、先ほど以上に浦島を戸惑わせた。
木々の茂り方も葉の色も、明らかに濃さを増している。生命力の強さが、そのまま外見に表れているようだ。春の芽吹きとは、まとっている空気からして違う。
池の水面では、
浦島は困惑を隠せない様子で、
「この庭はいったい、どうなっているのですか? あちらは春そのものだったのに、こちらは……」
「夏そのもの、でしょう?」
うなずく浦島に、私は苦笑して、
「そういう庭、としか言いようがありません。私も、詳しい仕組みまでは知らないのです」
「あなたでも、ですか?」
「私が生まれた時には、当たり前のようにここにありましたから。自然と受け入れていましたし、あえてその原理を知ろうとも思いませんでした」
私は浦島を西側へ促した。障子をそっと開けると、また色が一変した。
青みが失せ、木々は葉を赤く、また黄色に染めている。幹もみずみずしさに欠け、どこか乾いて見えた。ひやりとした風が吹くたびに、地に落ちた葉も、まだ枝にしがみ付いている葉も、かさかさと揺れている。
そんな中にあって、すっくと伸びた白菊は、清楚でありながら
浦島と並んで北側へ行き、障子を開けると、これまでとはさらに異質な風景がそこにはあった。
それはまさに、「白」に支配された世界だった。木々の枝も、庭石も、そして地表すべてが雪で覆われている。太陽も
浦島にちらりと目をやると、さほど驚いている気配はない。障子の向こうに何があるのか、
視線はそのままに、浦島がぽつりと言った。
「ここはまるで、時が止まっているようですね」
「え?」
「ここにはすべての季節がある。それは裏を返せば、時が流れて移り変わるという、自然の変化がないとも言えるでしょう?」
ああ、そういうことかと納得がいった。確かにそうかもしれない。
私も冬景色を眺めた。深閑としたその光景に心をはせながら、浦島に返事をしようとしたら、
「時など、止まってしまえばいいのに」
「え?」
気が付いたら、唇からその言葉がこぼれていた。こぼれてからはっとしたものの、元に戻せるはずもない。
一度流れができると、もう、止められなかった。
「ずっと、ここに――竜宮にいてくれませんか」
「あの、いったい何を……」
「私は、ここを離れるわけにはいきません。あなたにここに留まってもらうよりほかにないのです」
この先も、共に過ごしたければ。
ほんの一時、一緒にいられればそれで充分。心が満たされれば、あとはまた、それぞれの日常に戻ればいい――そのつもりだった。
いつの間に私は、こんなに欲深くなったんだろう。何を望んでいるんだろう。
浦島は、静かに
「何を言っているのか、わかっておられるのですか?」
そう問われても、私は言葉を返せなかった。わかって言っているのか、それとも、わかろうとするのをやめてしまったのか。
「あなたの婚礼の話が進んでいるのでしょう? そのような方が城に男を連れてきて、ずっと居座らせるなど、他の方々がどう思われるか。認めてもらえるはずもない。それに私は、漁をして親を養わなくてはなりません」
「あなたのご両親には、使いの者をやって事情を伝えさせます。働かずとも暮らしていけるぐらいの財宝も渡させます」
「私のことはそれでいいとしても、あなたのほうは……」
「私のことを私が決めて、何がいけないというの!」
心を覆っていたものが、弾け飛んだ。浦島は
感情が、止まらない。
「私のことは、私が一番よくわかってます。あなた以上に私にふさわしい相手なんて、他にいるはずがない!」
ああ、これでは駄々をこねている子供と変わらない――浦島に無茶をぶつける自分を、頭の片隅は冷静にそう断ずる。その反面、心はどこかすっきりしていた。
浦島は、
彼はやがて、迷いを捨てるように一度目を伏せてから、
「俺には、何も言えない」
少し寂しげに微笑んで、そう告げた。私が意味をはかりかねていると、
「俺はしがない漁師にすぎない。俺がどうしたい、こうしたいと言ったところで、何の力もない。一緒にいてくれと乙さんに言われたら、逆らうわけにはいかない。他の方々が反対しても、それを
私と彼の間に横たわるものを、きっぱりと突きつけられた。
彼の立場で何か物申せば、「姫君を惑わせる不審者」と見なされかねない。
いつの間にか、私はそれすら見えなくなっていたのか。対等でありたいと望みながら、上に立ったままだったのか。
「俺をこの先どうするも、あなた次第だ。ただ……」
浦島は一呼吸置き、いつものように目元をやわらげ、
「この先もずっとあなたと共に生きていけるなら、こんなにうれしいことはない」
一瞬で、何かがつながった。さっきまで二人を隔てていた薄い幕が、ふわりと取り払われたような。
泣きそうだったけれど、泣かなかった。代わりに、
「何を軟弱なことを!」
口を突いて出た
「したいことがあるなら、欲しい物があるなら、全力で
浦島は、ただただ圧倒されている。それでも言葉が止まらない。
……いや、止める必要はない。私が言わなければいけないことが……見えた。
「父や家臣は私が説得します、何としても。それはあなたではなく、私がせねばならぬことですから。あなたがせねばならぬのは、ただ一つ。『彼なら姫に添わせるのにふさわしい』と、みなに思われるよう振る舞うことです」
言いきったら、自分の中で渦巻いていたものがすっきりしていた。言葉として外に出しているうちに、考えや思いが一つに収束したような感覚だった。
それまでじっと耳を傾けていた浦島が、ふっと笑った。どこか楽しそうで、うれしそうな、穏やかな笑みだった。
「……やはりそのほうが、あなたらしい。ただただ無理を通そうとするのは、似合わない」
勝てないな、と独り
「わかった。あなたができる限りのことをするのなら、俺もそれにこたえなきゃいけないね。怪しい者じゃない、まっとうな人間だと認めてもらって……一緒に暮らそう、何としても」
そっと、肩を抱き寄せられた。
やはり、この男は……温かい。
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