第3話 2000年、あるいは一瞬の約束
そして、数分後。
誰が仕掛けたか分からないイベントを取材に来たはずのレポーター茂野はずみは、年の瀬を控えた冬の日の、夕闇の迫る大きな古い橋の上にいた。ところどころ青いペンキが剥がれて錆の浮いた橋の下では、音を立てて白い瀬を噛む清流が、砂利までもはっきりと見える川底を冷え冷えと映している。
静まり返った冬の奥美濃の川が流れる、その真上で起こっていたのは交通事故であった。
3人の老人から扉の使用許可を受けようと粘る矢羅瀬ディレクターのスマホに本社から緊急連絡があって、現場リポートの指示を受けるなり荷物も何も置いてすっ飛んで来てみれば、気づかないうちにいつの間にかいなくなっていたサンタ娘が道端に茫然と佇んでいたのである。
「何があったの?」
尋ねても、事故現場を見た恐怖のせいか、黙りこくって返事もしない。
そのうちに、現場は駆けつけた人、人、人でごった返した。
警察が来て、消防が来て、救急車が来て、野次馬と、撮影スタッフ。
交通整理をしたり、怪我人を運び出したり消火作業をしたり、それを眺めたりする人々の前では、バイクをよけそこねた大きなトラックから転げ落ちた材木の山が、青い夕闇にまだ炎を上げている。
そもそも、なぜこんなことになったのか。
あのわけの分からない扉を前にした交渉が長引いたのは、それなりに訳がある。
まず、あの扉の使用を認めるにあたって、老人たちがつけた条件は単純だった。
「黄金」
3人のうちの誰が口にしたかよく分からないその一言は、少なくとも現代の日本人にとっては法外な要求だった。
思わず硬直したディレクターだったが、サンタ娘はその太くて油ぎった首筋に光るものを見逃さなかった。
「それ……」
太いものではなかったが、確かに黄金の鎖が下がっていた。それが誰かから贈られたものであれ、本人が買ったものであれ、そんな事情を気にする理由もなかったはずみも、それに同調した。
「確か18金ですよね」
それを知られているということは自分で口にしたことがあるはずなのだが、なぜかディレクターはシラを切った。
「いや、これはニセモノで……」
そこですかさず、口を挟んだ者がある。
「じゃあ、それあたしに頂戴」
艶のある肩から胸元を剥き出しにしたサンタ娘に肌を密着させられて、矢羅瀬は一瞬だけ頬が緩んだが、ぶるぶる首を振って居住まいを正した。
「いや、これは女房が」
必死の言い訳に、この地毛だか染めたのだか、燃えるような赤毛の目立つ娘は屈する様子がない。
「ニセモノを?」
短いながら筋道の立った言葉で追及されて押し黙るところへ、事情を察したはずみはすかさず、その弱点を狙って追い討ちをかけた。
「言っちゃおかな、それくれた女のこと、奥さんに」
死に物狂いで隠そうとした脛の傷を暴かれ、がっくりうなだれた矢羅瀬だったが、やにわに卑屈な態度で身体を屈めると、目の前の老人たちに助けを求めた。
「これじゃあ、足りませんね?」
さっきとは別の誰かが、事も無げにさらりと答えた。
「それでよい」
個人では肩代わりできないほどの額を要求させて会社に払わせようという目論見は、これで脆くも潰えた。
だが、老人たちの要求は続く。
「
また別の誰かが、これまた現代日本ではあまり使われない言葉を口にした。
「何だ……それ」
目を白黒させながら、はずみがスマホでさっさと検索する。
「え~と、ムクロジ目カンラン科ミルラノキ属の樹脂」
首をカクカクやって頷いていた矢羅瀬が、最後まで聞いたところでツッコんだ。
「ねえよそんなもん!」
そんなことは気にもしていないという口調で、ややこしい要求は平然と続けられる。
「
それがムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹脂であることをスマホで検索したはずみは更に、これを扱っている業者がないか画面を弾いて探す。
「あ、バイク便で届くみたいです。オットセイ印の赤ひげ堂」
「ヤバい薬屋じゃねえのか」
名前を聞いただけで矢羅瀬が引いたのをいいことに、はずみはさっさとディレクターの名前で発注のボタンを押す。
「経費で落としてください」
ハイともイイエとも返事できないまま、海千山千の中年男はとっくにグラビア
の旬を過ぎた元アイドルと睨み合った。
ちょうどそのときだった……一言だけを残して、サンタ娘が姿を消したのは。
「ちょっと仕事に」
途中でやってきた空撮のヘリコプターと連絡をとりながら、息もつかせず現場中継を終えて、はずみは深い溜息をついた。
「もう……盆踊りどころじゃ」
バイクとトラックがレッカーで運ばれ、橋の上の交通が平常に戻ったと思われた頃、スマホが胸ポケットで鳴った。見れば、矢羅瀬からである。仕方なく出た途端、はい、と返事もしないうちに用件が短く告げられた。
「あったぞ」
ここまで言葉を省かれては、誰が聞いても何のことやら分からない。
はずみは、ブスッとした声で尋ねた。
「……何が」
目の前の火は割と早く消し止められた。怪我人はない。空撮のヘリも帰ってしまって、この場でやることはない。だが、取材に行けと言ったディレクター本人は、そんなことお構いなしで、ねぎらいの言葉もない。
子どものお使いのように、単語でものを言うばかりである。
「没薬と乳香」
ないないと騒いだ割に、結末はあっさりしたものだった。
「どこに」
あまりにも旨すぎて信じがたい話であったが、ディレクターの返事はもっとわけがわからなかった。
「お前のポシェット」
それはさすがにセクハラというものである。だが、怒る気力も失せた様子で、はずみはそれを咎めただけだった。
「見ないでください」
普通の女性がほいほいと鞄に詰める類のものではない。だが、聞いてみれば話は単純だった。
「歯磨きと香水の成分に含まれてたんだよ」
疲れたように深い溜息をついたはずみは、投げやりに答えた。
「戻ります」
そのやりとりに耳をそばだてていたサンタ娘は、自慢げに薄い胸を反らした。
「ね?」
そしてまた、数分後のことである。
事故現場から山間の廃屋へと、撮影スタッフは大返しに駆け戻っていた。それを追ってやってきた見物は、ドアが閉まっているにも関わらず、さっきよりも増えている。
ここまで目立ってしまったにもかかわらず、家屋の不法占拠も税金の滞納も、3人の老人たちがその露見を恐れている様子はない。あの陰鬱な小部屋の中で、同じような顔を並べてニタニタと笑っている。
その前には純金のネックレスと、香水の壜と、使いかけの携帯用歯磨き粉のチューブが並んでいた。
純金の装飾品はともかく、女性が使いかけた
「よかろう」
誰が言ったのかは、やはりよくわからなかった。だが、ここで肝心なのは3人の老人のキャラでも区別でもなく、交渉が成立するかどうかということだ。
カメラさんの前で畏まって正座するディレクターとレポーターとサンタ娘に向かって、もう1人の老人が厳粛に告げた。
「では」
おもむろに立ち上がった老人たちは、これまた古びた椅子やら机やらでバリケードの築かれた物置の扉の前に立つ。撮影にかかるカメラさんはともかく、サンタ娘が何もしないので、矢羅瀬とはずみは2人してあたふたと障害物を除けなければならなかった。
仏壇のものにも似た観音開きの「夏の扉」を前にして、1人を中心に2人が左右に分かれて立つ。
脇に立った2人が扉に手をかけたとき、中央の老人がつぶやいた。
「あの男が待っておる。2000年……いや、一瞬か」
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