✅秘密のち(1)


 猿は、岸辺にぽつんと座っていた。

 海の彼方を見つめて、何かを待っているようだ。

 優たちに気づかないその背中は、どこか寂しげに見えた。



 あの猿、全身を見るとなんとも異形だ。大きな頭にいびつな二本の黒い角が生えていて、それらを支える太い首、発達した肩、長い腕は筋肉質だがだらりと下がり、その先の五本指では黒い爪が鋭く光っている。くすんだ灰色の長い体毛の覆う身に、猿は少しばかり人間の服を着ていた。薄汚れたベスト、そしてズボンだ。


 それにしても、ずいぶんと体が大きい。二メートル――いや、もっとか。


 あれを見て、探していた猿と気づいたのは、すぐ後ろのほうにボロボロになった〈タオルハンカチ〉が落ちていたから。どうせ捨てるのなら、もっと離れた場所にしてくれてもいいのに。隣に並んだしろくんも、切なげに見つめている。


「しろくん、僕はやるよ」


 優は、足の速さに自信がある。猿の背後からこっそりと近づいて〈タオルハンカチ〉を回収すると同時に走って逃げれば、成功するかもしれない。ひとりでその気になって、一歩踏み出そうとしたところ、しろい手に――ぐいっと腕を掴まれた。


「ゆうくん、だめ」

「なんで! 今なら取り返せるのに!」


 むっとして振り返る優を見て、しろくんの顔がひくりとこわばった。少し怯えたような、悲しげな顔だけれども、優を見つめる瞳はとても真剣だ。


「あ……ごめん」


 声を荒らげるなんて、じぶんでショックだ。


「どうかしてた……冷静になるよ」


 さっきから優は、じぶんでいけると判断すると決まって失敗している。


「勝手にいらだって、しろくんに当たるようなことをするなんて」


「ゆうくん?」

「こんなの、僕の嫌いな大人たちみたいだ……ごめん」


 しかし、他にどうすればいいのか。

 まさか優のかわりに、しろくんが行くつもりだろうか。

 陸地でのしろくんの動きは、お世辞にも素早いとは言えない。


「しろくんは、どうするつもりだったの?」

「まつ」

「え……?」


 優は理解までに、少しの間を要した。


「え?」

「まつ」


「ああ……待つ、か!」


 言葉がすんなりと通じなかったから、しろくんはちょっとだけ、だんまりだ。


 待つ――猿が岸辺を離れるまで、じっと身を隠して待つという案だろう。しろくんは確かにそういうタイプだが、果たして。


「あの猿、そう上手く消えてくれるかな……」


 猿って、ずる賢い生き物だ。

 あれが本当に猿――なのかは不明だが、少なくとも衣服を仕立てて着ているようなやつだ。人間慣れしているだろうし、緑の芽のときのように罠という可能性だってある。


 そこで優は気づいた。

 先ほどから、あの猿はぴくりとも動いていない。


「あれ、眠ってたりして……?」

「ねむ?」

「いや、ほら……あいつ、ぜんぜん動かないから」


 そうつぶやきながら、優はぴんと閃いた。


「ねえ! 僕としろくんの案、合体させよう」

「なにするの」


「よう動、作戦だよ!」



 まずは、優が偵察に出る。

 少しずつ猿へと接近して、様子を窺う。

 OKそうなら、しろくんに合図を送る。

 しろくんが〈タオルハンカチ〉を回収する。


 もしも途中、猿に気づかれたとしても、優なら走って逃げられる。

 それに前方へと広がる海だ。しばらく観察してみて――あの猿、海に入れないような気がする。体毛も長いし、泳げないんじゃないだろうか。最悪、優があの猿を惹きつけておいて、しろくんを海へと走らせる。それを見届けたら優も、泳げないが海へ。そしてふたり、海の中で合流すれば、やり過ごせるのではと思う。


「いいよ」

「よし、やってみよう……!」


 しろくんは待機。優だけ少し離れたところへ移った。

 そこからしばらく猿の様子を窺ったが、変化はない。


 ざざん、ざざん……と、波打つ音。

 それにあわせて一歩、二歩と繰り出していく。

 じぶんの気配が消せたとは思えなかった。けれども優は、いとも簡単に猿の正面へとまわり込めてしまった。


「ほんとうに動かないな」


 こんなに近づいても猿はぴくりともしない。ならば、回収係に合図を送っても大丈夫だろう。優は両手を掲げて、頭上に大きくマルの輪をつくり、待機中のしろくんへとサインを送った。


 しろくんは、こくんと頷いて、動き出した。


「わ……っ!」


 いや、さすがに近づきすぎたか。

 気づけば猿の真っ黒の顔面が、静かに優を見下ろしていた。

 面長の、不気味な顔の中央に寄ったふたつの小さい目玉が、優をとらえている――だが、その眼光は弱々しい。猿は今の体勢がつらいのか、小刻みに、苦しそうに息をしている。


 ――ひどい怪我だった。


 そうか、眠っていたわけじゃない。動かないのではなく、動けなかったのだ。猿の脇腹には深く抉られたような傷口があって、赤黒い血がとぷとぷと溢れている。優たちが遠目に見ていた猿の衣服の汚れは、滲んだ血と汗が乾燥して変色したものだった。


「うう……なんてことだ」


 血と獣の臭いが入り混じっている、優の鼻には酷くきつい。

 それに何だか別の、生臭さも漂っている。


「やばい……な」


 優はじぶんの腕で、口と鼻とを覆った。視界の端――猿の後ろのほうでは、しろくんがやっと〈タオルハンカチ〉を拾いあげたところだ。水に濡れて、土がついて、もうボロボロだというのに、あの子には宝物のままなのだ。


「ゆうくん」

 しろくんは嬉しそうに笑って、優を見た。


 優もつられて笑って、手をふった。

「しろくん」


 ――猿の不審な様子には、お互い、気づいていない。


 しろくんは、くるりと向きを変えると、来た道をぺたぺたと戻りはじめた。

 よかった。

 あとは一刻もはやく、この場所を去るだけだ。

 ほんとうはこの絶景のもとに残ってもよかったが、猿が邪魔だから、優も歩いて帰ろうと思う。


「- - -」


 ――背後で今、喉を鳴らすような低い声がした。


 

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