✅秘密のち(1)
猿は、岸辺にぽつんと座っていた。
海の彼方を見つめて、何かを待っているようだ。
優たちに気づかないその背中は、どこか寂しげに見えた。
あの猿、全身を見るとなんとも異形だ。大きな頭に
それにしても、ずいぶんと体が大きい。二メートル――いや、もっとか。
あれを見て、探していた猿と気づいたのは、すぐ後ろのほうにボロボロになった〈タオルハンカチ〉が落ちていたから。どうせ捨てるのなら、もっと離れた場所にしてくれてもいいのに。隣に並んだしろくんも、切なげに見つめている。
「しろくん、僕はやるよ」
優は、足の速さに自信がある。猿の背後からこっそりと近づいて〈タオルハンカチ〉を回収すると同時に走って逃げれば、成功するかもしれない。ひとりでその気になって、一歩踏み出そうとしたところ、しろい手に――ぐいっと腕を掴まれた。
「ゆうくん、だめ」
「なんで! 今なら取り返せるのに!」
むっとして振り返る優を見て、しろくんの顔がひくりとこわばった。少し怯えたような、悲しげな顔だけれども、優を見つめる瞳はとても真剣だ。
「あ……ごめん」
声を荒らげるなんて、じぶんでショックだ。
「どうかしてた……冷静になるよ」
さっきから優は、じぶんでいけると判断すると決まって失敗している。
「勝手にいらだって、しろくんに当たるようなことをするなんて」
「ゆうくん?」
「こんなの、僕の嫌いな大人たちみたいだ……ごめん」
しかし、他にどうすればいいのか。
まさか優のかわりに、しろくんが行くつもりだろうか。
陸地でのしろくんの動きは、お世辞にも素早いとは言えない。
「しろくんは、どうするつもりだったの?」
「まつ」
「え……?」
優は理解までに、少しの間を要した。
「え?」
「まつ」
「ああ……待つ、か!」
言葉がすんなりと通じなかったから、しろくんはちょっとだけ、だんまりだ。
待つ――猿が岸辺を離れるまで、じっと身を隠して待つという案だろう。しろくんは確かにそういうタイプだが、果たして。
「あの猿、そう上手く消えてくれるかな……」
猿って、ずる賢い生き物だ。
あれが本当に猿――なのかは不明だが、少なくとも衣服を仕立てて着ているようなやつだ。人間慣れしているだろうし、緑の芽のときのように罠という可能性だってある。
そこで優は気づいた。
先ほどから、あの猿はぴくりとも動いていない。
「あれ、眠ってたりして……?」
「ねむ?」
「いや、ほら……あいつ、ぜんぜん動かないから」
そうつぶやきながら、優はぴんと閃いた。
「ねえ! 僕としろくんの案、合体させよう」
「なにするの」
「よう動、作戦だよ!」
まずは、優が偵察に出る。
少しずつ猿へと接近して、様子を窺う。
OKそうなら、しろくんに合図を送る。
しろくんが〈タオルハンカチ〉を回収する。
もしも途中、猿に気づかれたとしても、優なら走って逃げられる。
それに前方へと広がる海だ。しばらく観察してみて――あの猿、海に入れないような気がする。体毛も長いし、泳げないんじゃないだろうか。最悪、優があの猿を惹きつけておいて、しろくんを海へと走らせる。それを見届けたら優も、泳げないが海へ。そしてふたり、海の中で合流すれば、やり過ごせるのではと思う。
「いいよ」
「よし、やってみよう……!」
しろくんは待機。優だけ少し離れたところへ移った。
そこからしばらく猿の様子を窺ったが、変化はない。
ざざん、ざざん……と、波打つ音。
それにあわせて一歩、二歩と繰り出していく。
じぶんの気配が消せたとは思えなかった。けれども優は、いとも簡単に猿の正面へとまわり込めてしまった。
「ほんとうに動かないな」
こんなに近づいても猿はぴくりともしない。ならば、回収係に合図を送っても大丈夫だろう。優は両手を掲げて、頭上に大きくマルの輪をつくり、待機中のしろくんへとサインを送った。
しろくんは、こくんと頷いて、動き出した。
「わ……っ!」
いや、さすがに近づきすぎたか。
気づけば猿の真っ黒の顔面が、静かに優を見下ろしていた。
面長の、不気味な顔の中央に寄ったふたつの小さい目玉が、優をとらえている――だが、その眼光は弱々しい。猿は今の体勢がつらいのか、小刻みに、苦しそうに息をしている。
――ひどい怪我だった。
そうか、眠っていたわけじゃない。動かないのではなく、動けなかったのだ。猿の脇腹には深く抉られたような傷口があって、赤黒い血がとぷとぷと溢れている。優たちが遠目に見ていた猿の衣服の汚れは、滲んだ血と汗が乾燥して変色したものだった。
「うう……なんてことだ」
血と獣の臭いが入り混じっている、優の鼻には酷くきつい。
それに何だか別の、生臭さも漂っている。
「やばい……な」
優はじぶんの腕で、口と鼻とを覆った。視界の端――猿の後ろのほうでは、しろくんがやっと〈タオルハンカチ〉を拾いあげたところだ。水に濡れて、土がついて、もうボロボロだというのに、あの子には宝物のままなのだ。
「ゆうくん」
しろくんは嬉しそうに笑って、優を見た。
優もつられて笑って、手をふった。
「しろくん」
――猿の不審な様子には、お互い、気づいていない。
しろくんは、くるりと向きを変えると、来た道をぺたぺたと戻りはじめた。
よかった。
あとは一刻もはやく、この場所を去るだけだ。
ほんとうはこの絶景のもとに残ってもよかったが、猿が邪魔だから、優も歩いて帰ろうと思う。
「- - -」
――背後で今、喉を鳴らすような低い声がした。
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