秘密のち(2)

※流血、暴力、グロテスクな表現が含まれます。




 心臓がどきりと跳ねた。猿が人間の言葉を喋ったのだ。優のすぐ背後に、黒く大きな顔がぴたりと張りついている。首をひねって、息のかかるほどに顔を近づけて、こいつは今なんと言ったか。優の耳には “……さかなは、うしろか……” そう聞こえた。


「はっ……あっ」


 騙された、

 騙されたのか!?

 驚きで目を見開く優の後ろで、猿はむくりとその巨体を起こした。


「しろく……ん、だめだ、逃げて!」


 とっさに叫んだ優の身体は、長い腕に容赦なく払いのけられた。立ち上がった猿の大きさは、人間の大人どころじゃない、怪物だ!


 血走った猿の目が、まっすぐにしろい獲物の姿をとらえている。アクアツアーの柵の内側から、黒い顔を覗かせたとき、この猿はたくさんの葉っぱに紛れてじぶんの姿を隠していた。あれは体を低く折り曲げて、優たち子どもの目線の高さに、わざと――合わせていたのだ。


 鉄の扉を開け放しておいたのも、こいつだ。

 子どもふたりが追ってくるのを確信し、待っていた。

 全てが罠で、油断させて、優たちはまんまと誘き寄せられた。


 最初から狙いは、しろくんか。

 くっついてきた優が邪魔だったのだ、緑の植物にも囚われなかった。

 やっとふたりが引き離されて、思惑通りになったところで、猿が動いた。四足で猛烈に走り出して、勢いそのままに地面を強く蹴ると、手足をじたばたさせながら長い距離を跳び、しろくんの上へ――――落ちた。


 しろくんの悲鳴は聞こえなかった。




 纏わりつくような小波に背中を押されて、優はしろい岸に這い戻った。

 猿に殴られて、海の中まで飛ばされたのだ。

 こんなにも強く殴られるようなことを、優はしただろうか。何か、じぶんが悪かったのだろうか。盗られたものを取り返しに来ただけなのに、話すら聞いてもらえない……でもそうだ、当たり前だ。それが大人だった。


「思い出したぞ……」


 猿は意地悪くて、ずる賢い大人なんだ。

 脇腹に大怪我をしていたけれども、全然よゆうに動けるじゃないか。


「嘘つき……」


 優は口に含んだ海水をぺっと吐き出した。最悪だ、人間の皮膚のような生臭さ。それになんとも気味の悪い味だ。生しょっぱい、身体を流れる汗や血のような、命の味がした。


 ふと、猿が海に入らずにいたことを思い出す――この水が、嫌なのか?


 優は手のひらに海水をすくってみるが、とろとろと指の隙間からこぼれてしまう。もっと大量に運ぶためには、「!」――閃きと同時に、優は着ていたシャツを勢いまかせに脱いだ。傷いっぱいの身体が露わになってもかまわない、たっぷりと海水に浸してやる。そしてそれを、絞りもせずに抱え上げると、急ぎ駆け出した。


「おい猿、こっちを見ろ!」


 大声で呼ばれて猿がふり返った。

 優はびったびたに濡れたシャツを、その顔面めがけて、ぶん投げてやった。


「ふざけんな馬鹿やろう! しろくんを離せっ」


 海水、正解だ。

 ばしゃり、とかかった途端に、猿は「ぎぃぃぃぃ!」と身をよじり、大いに嫌がって飛び退いた。そこには下敷きとなって、ぐったりと潰れた、しろくんの姿が。


「ああ、なんてことを……なんてことを! しろくん!」


 優の怒号に反応して、しろくんが薄っすらと目を開いた。

 それだけだ。

 息をするたびにかすかに揺れる、しろい口元から――なんだろう、青い液体がつうっと流れている。服を裂かれて露わになったしろい肩、しろい首筋にも静かにそれは流れていて、もとのほうを辿ると、歯型が。噛み痕だ。あの猿め、しろくんの首筋に牙を立てたのだ!


「青いの、まさか……血か?」


 まっしろの肌に青い液体が流れて、滲んでいく。

 どう考えてもこの青色は、しろくんの血液、ということになる。そういえば力任せに緑の芽を抜いたとき、優の腕から噴き出た赤色の血を見て、しろくんは異様に驚いていた。あれは、はじめて人間の血液を見たのだろう。


 きぃぃ! と、猿が威嚇してきた。


 地面に爪を突き立てて、鋭い歯を剥き出しにしている。

 海水をかけられたことに相当、腹を立てているようだ。

 いや、違う。

 もう惑わされない。

 猿は何か隠している、絶対だ。

 その何かから優の注意をそらそうとしている。


「あ……!」


 嘘つきの猿にも、ただひとつ真実がある――脇腹の大怪我だ。深く抉られたような傷。あんなにも出血していたはずが、不思議なことに、今はぴたりと止まっている。その傷自体も少し癒えたように見える。


 優の視線に気づいた猿は、黒い唇を歪ませて、笑った。


 猿が笑うと、頬だろうと思っていたぶぶんまで大きく裂けるように開いた。口の中には、びっしりと尖った歯が、なんと三重にも並んでいる。その奥から長く肉厚な舌がべろおと出てきて、不快な音とともに、口まわりにこびりついた青い血をうまそうに舐めずってみせた。

 しかも猿の、小さいふたつの目玉だ、飛び出るかと思うほど執拗に優を見据えている。次はお前だ、と言わんばかりに。


「う……ぇ」


 あまりにも気色悪いしぐさを見せられて、優の気が遠くなりかけた。が――思い出したぞ。アクアツアーのボートの上で聞き出した、しろくんの秘密を。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る