しろい花畑
戦慄は去った。
気づけば、腰が抜けていた。
優はしろくんの手を借りて立ち上がる。
「しろくんは、刺されてないの?」
「ないよ」
しろくんはそのしろい腕をまっすぐに伸ばして、表、裏と交互に見せてくれた。
「よかった、綺麗なままだ」
「うん」
じっくりと眺めて、優は考える。
しろくんの皮膚は薄い膜がぴんと張っているようで滑らかに見えるけれども、実はその上に少し
アクアツアーの川沿いの保護柵に、鋭い槍の返しをつけて警告しているにもかかわらず、それを乗り越えてきた図々しい人間たちに、緑の芽を植えつけて、活動を止める。大きな葉っぱを持つ恐怖の植物たちは、人間の侵入を阻むために密生していた。
だとしても、ひどすぎる。悪意に満ちた……これは罠だ。
「しろくんは、あの植物のこと知ってたの?」
「しょくぶつ しらない」
「でも応急処置がすごかったね、完璧だったよ!」
「みてたから」
「えっ?」
「ゆうくん てにあれが ……たおれた」
「見たままだったか。それを、逆再生したわけか」
「ぎゃく うん?」
「あのままだったら、僕はしんでたのかな」
優は、侵入者だ。しろくんは違う――そう判断された。緑の芽は、しろくんの手で取り除いたことによって、優の腕からすんなりと抜けたのだ。つまり優としろくんには何らかの違いがあって、鉄の扉をふたりで開いたさいに、全ての植物たちは一瞬にして、それを嗅ぎわけたことになる。
あの気味の悪い緑の芽、人間の皮膚に吸いついて、あっという間に根を張り、血を吸い取って、植物へと変えてしまうのだ。
人間の血に、反応するのか。
その血を吸って、発芽するのか。
優は、ちらりと造形木と化した人々を見る。いろんな形の木々がある。逃げようと走る姿のまま木と化したもの。そこへ、倒れながらも手を伸ばして木と化したもの。ふたつの手が繋がって、ひとつの木と化したもの。頭を抱えるもの。全身を掻きむしるもの。
皆、遊園地から柵を乗り越えて侵入してきた人々で、そのなれの果ての姿か。彼らって、死んでいるのだろうか――ほんとうなのだろうか。ここにある造形木って、全て人間なのだろうか。
ずっと、森のほうから気配を感じている。
人影はないが、何者かに監視されている。
すぐ傍でも視線を感じる。造形木の緑の葉の内側から覗く――濁った、目玉だ。
ぞうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっとする。
「なんで……遊園地に、こんな危険な場所があるんだ」
心では信じられなくても、痛みがあった、現実だ。
なのに今、優はそうじゃない場所をふらふらと行ってしまっている気がする。
「ねえ、しろくん……僕って、ちゃんと生きてるのかな」
「うん」
「もしかしたらもう、しんでるのかな……違うかな」
「ゆうくんは まだ」
「ま、まだは……まだ生きてるってことで、いいんだよね」
「いいよ」
「変なことが、ちょっと、いっぺんに起きたから……変なこと聞いてごめんね」
「うん ゆうくんやっぱりへん だね」
「そうだね、変だったね……もういいや」
ふふっと、優は笑ってしまった。
しろくんも、つられて笑ってくれたから、安心した。
襲われたのが、じぶんでよかった。もしも、しろくんのほうが襲われていたら、優は何もできなかった。黒い顔の猿のときも、逃げることしかできなかったのだから。
「そうだ、はやくあの猿を見つけないと!」
見つけてどうするのだろう。
ここより先は、ただの子どもが立ち入ってもよい場所ではない。
かといって引き返すのも難しい、またあの緑の密集地を通らないといけないからだ。
ところで、緑の密集地ってどうやって通ってきたのだっけ。
優は今、どこにいる?
ぽつんとひとり、だだっ広い場所に立っている。
「あれ、…………どこだっけ」
わからなくなった。
ここはとても穏やかだ。
風はなく、暑さも寒さも、感じない。
しろい花が咲いていた。
たった一輪、優の足元に。
すうっと伸びたしろい花茎に、しろく繊細にそり返った花々が集って、大輪の花をひとつ形成している。何の花だろう――優が見つめていると、しろい花は風もないのに左右へゆらゆらと揺れはじめて、ひとつ、ふたつと、その数を増やしていった。最初、優はじぶんの目が霞んだのかと思った。それは生気のないホログラムのようで、どれも儚く、
この幻想的なしろい花々は、いつしか、辺り一帯へ咲いていた。
優はさらに「あれっ」と驚いて、飛び跳ねた。
不思議なことに、今の今まで、優は前方へと広がる絶景に気づかなかったのだ。
「う、海だ……!」
しろい花畑が延々と続くその先に、海がある。
いや、海だろうか――空と海との境界は曖昧で、同じ色で溶け合っているからか、水平線らしきものはなく、ただ広く、果てしなく、海が続いているように見える。海はいつ現れたのだろう。それにずいぶんと辺りが明るいけれども、今は、昼なのか、夜のなのか。虹のような彩雲が輝く空も、それを映す穏やかな海も、教えてはくれない。
眺めていると、優の時間が、狂いそうだ。
空高く輝いていた彩雲はやがてその光を強く変化させて、極彩色のオーロラの幕となって海面の際まで降りてきた。そこで、めらめらと、いくえにも層を成して燃えはじめた。これは――優みたいな普通の人間が、目にしてもよいのだろうか。
神秘の絶景に足を止めていた優へ、声がかかった。
「ゆうくん」
そういえば、しろくんも、いたな。
「すごく綺麗だ……見て、しろくん……」
優は、しろい花畑の中をずんずん進んだ。もう、しろくんをふり返ることはない。
「ごめん、先に行くね。しろくんは、ゆっくり来てよ……」
海を見たい。
もっと近くへ行かなければ。
あの燃える海へと惹かれるように、優はいつの間にか全力で走り出していた。
「ここはどこだろうね! そういえば、どこから来たんだっけ! 楽しいのは久しぶりだよ! こんなに、久しぶりなのは、どうしてだろう――」
ほんとうにもう、優はわからなくなってしまった。
それならば、とにかく海を目指して一目散に駆けていこう。
しろい花々がざわざわと海のほうに招き揺れて、こちらへおいで――と優を誘ってくる。きっとあの海が、優の望みを叶える、優を導いてくれる。
そうしてたくさん走ったところで、しろい岸、が現れた。
「もうすぐだ、しろくん、海だ!」
「まって まってゆうくん はやい」
しろくんは陸の上ではあまりはやく走れないから、本気で走っていく優に追いつくことはない。どんどん先へ行ってしまう優の耳には、しろくんの切なげな声なんて届かないのだ。
「まだ いかないで っ!」
しろくんの声が届いたわけじゃない。けれども優は岸の手前で、ぴたりと立ち止まった。しろくんが追いつくと、ふり返って、そして憎らしげにつぶやいた。
「いたよ、…………あの猿だ」
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