泥棒


 今のは何かの動物だ。

 全身は見えなかったけれども、人に近い……猿、だろうか?


 下のほうから、すうーっと、そいつの手が引いていく。


 顔は一瞬にして葉っぱの奥へと消えたのだけれど、柵の中へゆっくりと戻っていった手の先には、鋭い鉤の爪がついていた。しろくんは明らかに、この手に悪戯されてバランスを崩したのだ。


「怪我は?」


「…………」

 しろくんは、うつむいて黙っている。


「しろくん、怪我は?」


 もう一度訊ねると、しろくんは顔を上げた。

 よかった、怪我はなさそうだ。

 けれども何か訴えるように、優へ向けて両手を広げて見せてくる。


「え……?」


 一瞬、何のことだか、分からなかった。


「あ……、ああっ!」


 つまり、しろくんの大事にしていた〈タオルハンカチ〉が消えていた。さっきの手に奪われてしまったらしい。もちろん分かりづらいのだけれど、しろくんは今にも泣き出しそうな顔をしている。


「この柵の中だよな……」


 さすがの優も頭が痛くなった。

 あの得体のしれない動物、人間ほどの――いや、それ以上の大きさだった。絶対に、猿なんかじゃない。大きな目玉がふたつ、ぐるりと飛び出し、それぞれ優としろくんとをとらえていた。


 アクアツアーって、変な生き物だらけだ。

 とても、とても変だ。

 地底湖では、岩になりすました不気味な生き物を見たし、鍾乳洞では発光する骸の魚が、当たり前のように泳いでいた。


 いや、いや――、

 それをいうなら、ここにいる、しろくんだって――、


 頭をよぎったその考えを払いのけようと、優は思いっきり頭をふった。

 きっと今、嫌な目で、しろくんを見てしまったと思う。


「なんでもないよ、ごめんね」


 こんなときに嘘をついて笑うのは、卑怯だ。

 身体中を、嫌な汗が流れていく。


 優は、すがるような気持ちでアクアツアーの先を見た。


 とにかく柵のあるこの場所はよくない。いつまたあの猿が戻ってくるかも分からない。

 もう少しで保護柵の囲いが終わるから、そしたらこの狭い岸辺の道も開けて、身動きが取りやすくなる。きっとすぐにアトラクションの乗り場が見えてくるし、普通の人間がたくさんいる遊園地へ出ることができれば、そこは日常の、優の住む世界だから――……。


「しろくん、もう少し進も……」


 優がふり返った、そのときだった。

 しろくんよりも後ろの、少し離れた――ちょうど優たちがボートを乗り捨てた辺りの景色だ。


 川のゆれる水面に、まるいものが、浮いていた。


 遠くて、あまりはっきりとは見えなかったのだけれど、それはボートのほうを向いていた。


 ――何かの頭、のようだ。


 優の視線に気づくと、それは、ゆっくりと向きを変えてきた。


 ――あのしろく濁った目。


 地底湖で、岩に擬態していた不気味な生き物だ。

 あいつ、あいつ、アクアツアーの洞窟から執念深く、じぶんたちを追いかけて来たのだ。



「行くよ、しろくん……っ!」


 優の全身が奮い立った。


 こんなところで捕まるわけにはいかない、しろくんのだらんとした手首を引っ張ると、もう全速力で駆けだした。狭く危険な川辺で、幾度となくバランスを崩し、滑り落ちそうになったけれども、優はそのたびに保護柵へと手を伸ばし、それを握っては、力まかせに体勢をたて直した。


 ――しろくんのことは、手の感覚でしか分からない、でも優に引かれながらも、ちゃんと走っているのが伝わってくる。


 とにかく優は無我夢中で走った、走って、走って、保護柵の終わり――草木の開けた場所へ辿りつくと同時、優は地面へ滑り込むようにして転がった。


「ついた――!」


 どっどっどっと、大きく脈打つ心臓。


 優は仰向けに寝転がって、呼吸を整える。


「無事? しろくん……」


 すぐ後ろで、しろくんは尻もちをついていた。

 しろい素足が泥だらけだ……。で、わけが分からないといった様子で、きょとんとしている。

 ほっと一安心だ。


「あ……れ?」


 ところが、不安というのは、休む暇を与えてはくれない。

 寝そべる優の、上下逆さに見えている視界の端のほう――わざとらしく、半開きの扉が、映り込んでいる。


 優は黙って身体を起した。



 ずっと川岸に沿って設置されていた保護柵の囲いが、今度は側面となって、川とは逆のジャングルの奥地へと続いている。柵の上部にはこれまでと同様、こちら側へ向けた鋭い槍の返しがついているのだけれど、ひとつ違うのは、少し行ったところに小さな鉄の扉があることで、その扉だけが、不用心にも、半開きの状態で放置されている。


 優の視線の先に、しろくんも気づいたようで、今はじっとその扉を見ている。


 そんなにも〈タオルハンカチ〉を取り戻したいのか。

 諦めたっていいじゃないか。表が黄色、裏がオレンジ――何の変哲もない、ただのタオルだ。


 しろくんは無言で優をふり返ると、物言いたげな目を向けてくる。


 優は、はっとした。

 分かるのだ。

 窺い見るような、あれは、「助けて」と声に出せない子どもの目だ。


 分かるけれども、優の気持ちは揺らいでいる。

 ちらりと、前方を見た。もうすぐだ、アクアツアーの乗り場はそこに見えている。


 次は、鉄の扉。優たちを誘うように開いているその内側には何があるのか。悪戯してきた猿のふたつの目玉には、なんとも言えない、嫌な気配が宿っていた。


 最後、アクアツアーを流れる川だ。あの不気味な生き物は、水中へ潜ってしまったのか今はその姿が見えない。黒い顔の猿と一緒で、いつまたどこに現れるのかと、気が気じゃない。



「ああ……、どうしたらいいんだ」


 もしも優が、アクアツアーの乗り場へと歩き出すことを決めたのなら、しろくんとはここでお別れの気がする。そうしたら、もう二度と、二度と会えない気がする。


 それからしろくんは、ひとりで行こうとするけれども、柵の中で待ち構えているあの猿、決して友好的ではなかった。それでも〈タオルハンカチ〉を諦めきれないのは、しろくんってば誰かにプレゼントを貰うのが、はじめてだったのかも。地底湖にぽつんとひとりいた、まっしろの不思議な子。優へ親切にしてくれたのも、地上について来てくれたのも、そのお返し。


 きっと、しろくんは寂しかったんだ……。



 優は、目をぎゅっと瞑った。


「行こう、あの扉の中にさっきのやつはいるんでしょ!」


 腹を決めた。

 何せこの優、心配してくれる人は、誰もいない。

 ひとりぼっちの優を助けてくれたしろくんを、今度はじぶんが助けるのだ。


「え 」


 しろくんは、大きく驚いた。

 ここでお別れになるはずと、きっとしろくんも、同じことを考えていたのだろう。優の決断が意外なもので、困惑している。


「ゆうくん……もう かえれるよ」


 しろくんはアクアツアーの乗り場を指した。

 その顔は、やっぱり今にも泣きそうだ。


「かえれるのに ……どうして?」


 しろくんには、どうして優が協力しようと決めたのか、分からないのだ。

 誰かを頼ったことがないのだと思う。

 最初からアクアツアーに閉じ込められていて、あれもだめ、これもだめと制約されていたから、じぶんの感情を知らないし、その伝え方というのも知らないのだろう。


「しろくん、……僕は今日一日で、本当に気づいたよ」


 少し歩いて、しろくんから距離を取ると、優はそこでじぶんの服をゆっくりと捲り上げた。


「僕は……僕ら子どもを、いじめるやつが許せない……」


 ちょうど服で隠れてしまう胸から腹部にかけて、優の身体には古い傷痕や、治りかけの茶色い痣がびっしりと浮かび上がっていた。もちろん一日二日ではない。長い年月をかけて、こうなった。


「こんな僕を、しろくんは助けてくれたでしょ。僕もきみを助けるよ」



 この秘密をじぶんから明かすのは、はじめてだった。


 しろくんが、息をのんだ――だいぶ驚かれてしまった。


 ということは、じぶんも、変なのかもしれない。


 

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