黒い顔の猿


「――ぶつかる!」


 順調に進んでいたはずのボートが、ゆるやかなカーブを曲がれずに川岸へ、とん、とぶつかった。優もしろくんも、手すりを握っていたので放り出されることはなかったけれども、今のでボートの先端が陸へと乗り上げてしまった。


「止まっちゃった……」

「うん」


 辺りを見渡す。


 優たちは相変わらず、ジャングルの景色の中にいる。


 けれれれれ……、

 き、きいきい……、


 頭上からは鳥や獣のような動物の鳴き声が聞こえてくるが、同時にガタガタと、何かを揺らす不穏な音もしている。


 ここでは、カーブする川に沿って岸辺にやたらと高い柵が設置されている――のだが、どこか不自然に感じるのは、その金属製の柵の立て方だ。頑丈そうな柵の上部には、侵入を妨げるための返し・・がついていて、それがなぜかこちら側へ傾いているだけでなく、先端には鋭い槍がついている。


 これは外からやって来た人が誤って川へ転落するのを防ぐためではない。アトラクションの内部である、こちらのほうから一般客を立ち入れなくするための保護柵、なのだ。そこへ大きな葉をつけた植物たちが視界を遮るようにして茂っている。遊園地の隠す秘密の奥地、その様子を垣間見ることは完全不可能だった。


 ――そういえば、いつからだろう。


 いろんな形の目が、優たちをじっと見ていた。

「きぃ」と、高い場所で、何か鳴くと、少し離れた場所でも「きぃ」と鳴いた。


 監視されているみたいだ。

 優は不安げに、辺りを見渡す。


「あ……ごめん、大丈夫だよ」


 そんな優を、しろくんがじっと見ていた。

 たぶん、気づかってくれようとしている。

 でもその方法を知らなくて、しろくんは黙って見つめることしかできないのだ。


「心配しないで。ずっと、しろくんに頼りっぱなしでしょ。僕、体力温存してるんだ」


 優は笑ってみせた。

 ――けれども、ほんとうは疲れていた。


 凍える洞窟から、急に蒸し暑いところへ出たこともあって、優の身体はついていけず、へとへとだ。真夏の太陽がじりじりと照りつけてくるから、喉も渇いていたし、空腹だった。


「このくらい、我慢しないと」


 優は、じぶんにそう言い聞かせる。

 このくらいは平気と、自己暗示するのだ。


 ここで立ち止まっても、誰か、大人が助けてくれる気配はない。いつもと同じ。優が何かを期待しても、大人というのはじぶんの都合のよいときに聞こえなければ、応えてはくれないのだから――。



「しろくん。ここからはボートを降りて、歩いていくのはどうかな」


 行く先々に何が潜んでいるのかわからないのが、アクアツアーだ。


 陸の上を進めるのならば、それに越したことはない。

 どうせ、ボートは正規のレーンを外れてしまった。

 もうずっと先までこの岸辺が続くようだし、川沿いに進めば、いずれは遊園地へ辿りつけるはず。ただし歩いて行くには、優のサンダルは脱げてしまって片方のみだし、しろくんなんかはしろい素足のままだから、ちょっと心配だ。


「だいじょうぶ あるく」


 しろくんは、こくんと頷いた。

 このままついて来てくれるようだ。


「じゃあ、僕から降りるね」


「うん ゆうくんだいじょうぶ?」

「え?」


 優を見つめる、しろくんの目がとても不安げだった。


「降りる、だけだよ?」

「うんだいじょうぶ?」


「あの、いちおう僕……体育はいいほうだよ、えっと体育っていうのはね……」

「ゆうくん およげない」


「……で、でも、運動は得意で、いつも」

「はやくおりなよ」


「ご、ごめんね!」


 アクアツアーでは、しろくんが正しい。


 しかも、だ――優はボート縁を跨いで降りたところで、川岸に生えた黄緑色の苔にサンダルを履いた足を滑らせてしまった。いや、危なかった。すぐのところに例の保護柵があったから、優はとっさにそれを掴んで踏んばった。もしも転んでいたら、その硬い金属製の柵に頭をぶつけていたと思う。


「……なにしてるの ゆうくん」


 しろくんの抑揚のない声が、必死で起き上がろうとする優の背中に突き刺さった。


「僕はなんだか今日……じぶんの殻を、破れた気がするよ」


 名誉挽回ならず。

 優は耳まで真っ赤にして、ボートの上のしろくんへと手を差し伸べた。

 そうしてしろくんも、岸へと降り立った。



「さて、アクアツアーの乗り場へ出発するよ」

「うん しゅっぱつ」


「乗り場へ、出発……って、ちょっと笑っちゃうね」

「そうかな」


 川岸の細く狭い道を、ふたりは保護柵をつたって歩いていく。


 ところで、さっき苔に足を滑らせたときに気づいたのだけれど、雨でも降ったのだろうか。地面だけでなく、保護柵までもが湿っていて、優たちの頭上に生い茂る樹木の葉っぱからは、ぽつりぽつりと水が滴り落ちてくる。


「うわ、冷たいな!」


 先頭を歩く優は、ひょんなことでまた足を滑らせないように注意していたが、後ろを歩くしろくんはご機嫌だ。濡れた陸地の感触を、しろい素足で楽しむように、ぺたりぺたりと歩いている。


「楽しそうだね、しろくん」

「うんたのしい たのしい」


 そんなしろくんの様子をふり返ってみて、優も楽しく「あはは」と笑ってしまった。



 ――ぼたぼたぼたぼた……っ!



 緊張の糸がゆるんだとき、

 気の抜けた笑い声を上げたその瞬間、


 突然、大量の雨水が降ってきた。ガサガサガサッと木の葉が乱雑に揺れて、そこへ溜まっていた水が全て、ふたりの頭上へ落ちてきたのだ。


「うわっ!」


 そのあまりの水の量に、優が驚いた――次の瞬間しろくんの身体が大きく仰け反り、川へ転落しそうになった。

 優はとっさに手を伸ばすと、しろくんを力ずくに掴み寄せた。


「なんだ――!」


 もう片方の手は、保護柵をしっかりと握った。

 これで大丈夫だ、しろくんも、じぶんも川へ落ちることはない。

 今の一瞬で、何が起きたのか。


 何かが、「きぃきぃ」と、鳴いている。

 近くでも、そして、遠くでも鳴いている。

 上でも、横でも、同じように「きぃきぃ」と鳴いている。


 横――?

 はっとした優は、嫌な気がして、保護柵の中を見た。


 それは、同じ目線の高さだった。

 大きな葉がずいずい揺れていて、その隙間から、真っ黒の顔が――優たちを見ていた。


 

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