水閘門


 もうどれだけ鍾乳洞を進んだろう。


 今はしろくんが教えてくれた通り、アクアツアーの地下空間をゆっくりと移動しているのだと思う。


 けれども、なぜ地上のアトラクションと地底湖があのたて穴・・・で繋がっていたのか。天然の岩山を切り開くのみならず、落下の危険のある跳ね橋まで架けておいて、奈落の口すれすれを渡る恐怖というものをボートの乗客たちに体験させるためだけ、とは思えない。


 きっと何かしら、全てのことに意味があるはず。なんて、考えを巡らせてばかりの優を追うのは飽きてしまったのか、いつの間にか発光魚の姿が消えていた。驚きと不安がいっぺんに襲ってくるから、優は洞窟内で見つけた不思議な生き物たちについては、なるべく考えないようにしていた。


 というより、そのことについて訊きたくても一番の不思議――水先案内人のしろくんが、お気に入りの〈タオルハンカチ〉で遊んでばかりなのだ。

 そんなに喜んで貰えて、送り主としては光栄だけれど、しろくんは夢中になるあまり、自身の不思議さについておろそかになっている。


 水中を灯す発光魚がいなくなった今尚、暗い洞窟が、水中が、いや湖の上で出会ったときからすでに、優のまわりがぼんやりと明るかったのは、それは、しろくんの素肌が薄っすらと光り輝いていたからなのだ。


 だからといって、優が怖気づくことはない。ちょっと普通とは違うけれども、しろくんは何の変哲もない〈タオルハンカチ〉の虜になってしまった同世代の――非常に綺麗な、子どもだ。だから優はまだまだ興味深くしろくんを見ているのに、しろくんのほうでは、すっかり優に興味がなくなってしまったらしい。


「はやく、びっしょびしょになればいいのに……」


 タオルとして避けられない運命のときが一刻でもはやく訪れるよう、優は水のかわりに、呪いをかけてやった。



 永遠に続くかと思った鍾乳洞だが、ついに終わりのようだ。

 規則正しく並んだ灯りが見えてきた。

 人工的なライトだ。

 近づいていくとそれが、壁に埋め込まれた非常灯なのだと分かった。


 天然の洞窟はそこまでで、優たちは無機質なコンクリート造りの壁に囲まれた謎の空間へと辿りついた。プールというか巨大な水槽のようだ。天井がいっきに高くなったけれども、前方には堅牢な門が閉じていて、これが洞窟内から続く水の流れをせき止めている。


 優たちを乗せたボートの先端がそこへ、こつん、とぶつかった。


「しろくん、行き止まりだよ」

「ちがうよ かんりしつ」


「かん……り、管理室?」

「うん」


 しろくんは遊んでいた〈タオルハンカチ〉を優へ押しつけると、再び水中へと飛び込んで、そのまま端のほうへ泳いでいった。コンクリートの壁まで辿り着くと、ひょいっと慣れた手つきでその壁面を、なんと登りはじめたのだ。


「――え?」


 優は驚いた。


 ぼんやりとした非常灯の明かりのみで、目を凝らさないと分からなかったが、コンクリートの壁にはホチキスの芯みたいな形状の足場が、縦一列、均等に埋め込まれている。ようは梯子だった。ちょっとしたビルほどの高さがある壁面を、しろくんは休むことなく登っていく。


 優はまた、たったひとりでボートの上へ残された。

 なんの命も感じない、しんとしたコンクリートの壁に囲まれていると、どことなく息苦しい。


 その中でふと優の頭をよぎったのは、もしここがほんとうの行き止まりだとしたら、ピンチなのでは、ということだ。洞窟内に棲まう不気味な生き物たちが、実はこっそりと跡をつけてきていて、行き止まりのこの場所で、とっ捕まってしまうのではないか。


「しろくーん……! どうするの、僕も行ったほうがいい?」


「まってて」


 いよいよ壁のてっぺんに到達したしろくんは、その上面へと這い上がった。どうやら頂上は平らになっているらしく、その先にあるのが管理室?――とやら、だろう。


 そう思った次の瞬間、しろくんが壁の上からまっしろな顔だけ出してきた。そして下方で不安そうにしている優を眺めて、薄っすらと……笑ってみせた。


「これから おもしろいよ」


 そう言い残して、すぐに消えてしまった。


 優はどきりとした。

 今のしろくん、少し怖かった。どういった意味だろう。


 ――がたん!


 ほどなくして静寂の空間に、大がかりな機械の作動する音が響いた。ただでさえ、びくびくしていた優は驚きのあまり心臓を吐きそうになった。


「さ、先、言ってよ……っ!」


 きっと、しろくんが操作したのだ。



 機械が動くと、水中の排水溝がまず閉じられた。しばらくすると洞窟からの水の流れが強まってきた。優の乗るボートも影響されて、その先端がこつん、こつんと、頻繁に前方の水門へぶつかるようになった。


 水嵩みずかさもだいぶ増してきたと思う。どこか遠いところで大量の水がいっきに放出されたのだ。それは優の背後、じぶんたちが辿ってきた洞窟の奥のほう――鍾乳洞、地底湖、おそらくは湖の底に存在していた〈水中洞窟〉からだろう。


 あの未知の領域は、アクアツアーの地下空間を水で満たすための水路隧道トンネルだったのだ。豊富な水源がさらにその先にあって、もしかしたら洞窟内で見かけた不気味な生き物たちは、本来そこに生息しているのかもしれない。


 流れついた水がどんどん貯り、水位が上昇していくので、ボートはただ浮かんでいるだけで高い位置へと上ることができた。


 やがて、しろくんの登った壁のてっぺんが見えてきた頃に、ずっと閉じたままだった水門がゆっくりと開いていった。遮るものがなくなったため、そちら側へいっきに川の水が流れ込んでいく。優の乗るボートもやっと前進だ。


「あ……まだしろくんが乗っていないのに!」


 優は慌てて、しろくんの姿を探す。


 コンクリートの壁の上面は広く、少し奥のほうにガラス張りの室があって、今まさにそこから、しろくんが出てきた。あれが管理室なのだろう。中に見えたのは全て機械類で、ボタンやレバーなどの複雑な制御装置がたくさんついている。驚くことに、しろくんはあれら全てをひとりで操作して、優のための水路を開いたのだ。


「しろくん!」


 しろくんは、優の乗るボートを見つけるや否や、コンクリートの上をぺたぺたと駆けだした。そして高所から躊躇することなく水の中へと飛び込んだ。そのまま泳いで優のもとへ帰ってきたのだけれど、さすがのしろくんも、勢いのついた水の中からボートへ乗り込むのは困難を極めるらしい。やっとボートの縁を掴んだものの、濡れた手が滑ってしまい、違う場所へ流されそうになった。


 そこへ優が手を伸ばし、力いっぱいに、しろくんを引き上げてやった。


「おつかれさま! すごいよ、しろくん!」

「そうかな」


「あんな大きい機械、どうやって動かしたの?」

「かんたん おおきい ぼたん」


 しろくんは、ボタン押す真似をしてみせた。


「え、……それだけ?」

「うん」


 しろくんはこくりと頷いた。

 なんだ、優でもできそうだった。



 これより先は、まっすぐ整備された水路隧道だ。もう非常灯などはいらないほどに、強烈な自然光が差し込んできている。その先に小さく見えているのが、外の景色――ほんとうのアクアツアーだ。


「やった、戻れるんだ……!」


 優が歓声を上げると、しろくんが何か欲しがるような素振りで両手を差し出してきた。


「あ。タオルかな?」

 すぐにピンときた優は、預かっていた〈タオルハンカチ〉を返してあげた。


「たおる?」


「タオルハンカチ、かな」

「たおるはんかち おぼえた……」


「特に珍しくはないと思うんだけど……いや、珍しいのかも?」


「めずらしい」


しろくんは、きょとんとして繰り返した。


「めずらしい ゆうくん」


「え、僕? 珍しいのは絶対に、しろくんだと思うよ」


「めずらしい ぼく?」


 辺りが明るくなるにつれて、しろくんのほんとうの容姿が露わになっていく。


「しゃ、喋り方だってさ、ずっとそうなの?」


「…………」


「あ、ごめん……ちょっと言い方が悪かった」


 言葉は選んだつもりだったけれども、まずかった。

 優はすぐに謝ったが、それっきりしろくんは黙ってしまった。




 水に揺られ、流されて。

 優たちを乗せたボートはついに、あの夏の陽ざしのもとへ。


 遊園地へ、戻ったのだ。


 

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