発光魚
ボートが少し揺れた。しろくんが乗ってきたのだ。
もう湖の端で、ここまでくれば、後は水の流れに任せるだけで先へと進めるのだろう。
優が例の岩壁に視線を戻すと、謎の生き物の姿は消えていた。あれはいったい何だったのか。全体像を見たわけではないけれども、かなりの大きさがあったと思う。
「ゆうくん あたま あぶない」
「――え?」
隣から、注意がきた。
優の横でしろくんは、ボートの手すりを握りしめながら身体を屈めて、低い姿勢をとっている。
ほんのすぐ先に段差があり、洞窟内の水が、小さな滝となって川下へと流れていく。問題はそこを下った後だ。急激に天井が低くなっていて、ボートひとつがやっと通り抜けできるくらいの空間しかない。――優も慌てて身体を屈めると、隣のしろくんへ向けて「ありがとう」とお礼を言った。しろくんは薄っすらと笑った。
やがて身体がふわりとして、ボートがゆるやかに滝を下っていくのがわかった。
辺りがいっそう暗くなり、もう殆ど光の届かないような狭い洞窟内を、ボートは川の流れに沿って進んでく。それでも時々――ぼんやりと不思議な光の玉が、優の視界の端へ、ポゥ……と現れては消え、消えては現れを繰り返している。後はただ、川の流れと、水のしたたり落ちる音が響いているだけだ。
このままで大丈夫だろうか。どこかへぶつかったり、急に止まったりしないだろうか。そんな優の杞憂は、隣のしろくんがもぞっと動いたことにより、あっけなく終わった。もう身体を起こしてもいいみたいだ。優はおそるおそる顔を上げて、――驚いた。
どこまでも青灰色の続く、鍾乳洞だった。
ぎざぎざと鋭い鍾乳石が天井から垂れていて、優たちのすぐ頭上に連なっている。
「うわ、すごい……つらら石だ、はじめて見た」
そっと手を伸ばして、優は鍾乳石へと触れてみた。
なめらかに濡れていて、ひんやりと冷たい。
「岩だ……」
「うん いわ」
「頭に刺さりそうだね……」
「ささらないよ」
「し、しろくんは……寒くないの?」
「さむくない けど ゆうくんまだ さむい?」
「ず、ずっと寒いよ!」
「もうすこし がまん」
「え?」
もう少しといっても……鍾乳洞の先には何も見えない。
ほんとうに、この洞窟をボートで進んで大丈夫なのだろうか。今だって、水中から伸びてくる
人が呻いたような鍾乳石と睨めっこしていると、不思議な光の玉が、優の視界の端のほうを――ボートのすぐ下を、すうっと泳いでいった。今、どきりとした、人魂のようだった。
いや、それは見間違いで――まるく膨らんだ玉の体に、ゆらゆらとおたまじゃくしのような尾が揺れている。しろく発光する不思議な魚だった。さっきから優の視界の端に映り込んでいたのは、これだ。人口灯にしてはまばらだし、光度もいささか淡いと思っていたところだ。きっと鍾乳洞へさしかかったところから、優たちにくっついて泳いできたのだろう。
優はボートの手すりへ凭れて、この不思議な魚を観察してみた。半透明で内臓が薄っすらと透けて見えているが、長い尻尾がちろちろと動いて可愛い。どうもそれは優たちが暗がりで寂しくないように、一緒に泳いで励ましてくれているのだと思えてくる。正面から、人の骸のような顔を見てしまうまでは。
「し、しろくん、今……」
優は仰天して、しろくんのほうをふり返った――が、しろくんはこの非日常の光景たちに、まるで無関心だった。
「しろくん、ここは裏野ドリームランドなのかな」
「そう」
「そ、そうなんだ。じゃあ、ここはやっぱりアクアツアーなのかな」
「うんその した」
「アトラクションのルートなの?」
「あとら…… るー?」
「えっと、アクアツアーの道順とか、かな?」
「……」
それっきり、しろくんは喋らなくなった。
優はなんだか心寂しくなった。通じ合うことが無理ならば、わざわざ最後列のシート、優の隣へなんか座らなければいいのに。けれどもすぐに、しろくんがあの〈タオルハンカチ〉を落とさないよう、両手で大事に握りしめていると気づいた優は、ボートの手すりに顔を伏すふりをして、こっそりと微笑んだ。
ばしゃん――……
そんなときだった。
遠くのほうで何か大きな物体が、水面へとぶつかり落ちるような音がした。びくりとして優が顔を上げると、さすがのしろくんも不安げに背後をふり返っている。
優は直感した――あいつ、だ。さっき湖の岩壁にはりついていた、謎の生き物に違いない。あの不気味な白い目、思い出すだけで優はぞっとした。
「しろくん、実はさっき……」
「し」
しろくんが、優の言葉を止めた。
そのまましばらく不穏な物音が続きはしないかと、二人して耳を澄ませてみたのだけれども、ざぁざぁ流れる水の音以外はもう、何も聞こえてこなかった。
「……おこらせちゃった かな」
しろくんは小声で、ぽつりとつぶやいた。
それは水音にかき消されて、優の耳には届かなかった。
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