水中世界


 水中洞窟を見つけた場所から、だいぶ離れてきた。


 未知の領域に興味がわく。


 あの暗い青に閉ざされた水の通い路、潜り抜けた先には何があったのだろう。もしかしたらものすごい発見で、大冒険になっていたかもしれない。なんて、優はボートに揺られながら、そんなことを考えていた。



  違う世界にいけたかもしれない。

  違う世界に――……



 ボートの引いた水面波すいめんは。見つめながら溜息をつくと、ちょうど水中からしろくんが顔を出した。そうだ、不思議なしろくんなら何か知っているかもしれない。が、湖の水をかぽかぽ飲みながら泳ぐその姿を見て、優はまたしても考えてしまった。


 しろくんは何者だろう?


 今日はじめて会った優のため、冷たい水の中をがんばって泳いでくれている。

 いっぽうで優ときたら、ただの役立たず。ボートの上のお荷物だ。せめて陸についたら、あの子のために何かしてあげたい。


 そこで、ふと思い出す。

 さっき水中へ潜ろうとする、しろくんのシャツを引いたときだ。

 優は見てしまった、


 しろくんの脇腹に、っすらと横にのびた、傷痕を。


 優の身体にある傷や痣とは少し違うが、もしかしたらしろくんもかもしれない。口数が少なく、ぽつんとひとりでいるのが、なんだか、じぶんと重なるのだ。


 しろくんは優がちゃんとボートの上にいるのを確認すると、何も言わずまた水中へと潜っていった。それがじぶんの役目のように。しろくんを見ていると、もうずっと冷たくなっていた優の心に、ふつふつと感情がわいてくる。あの子ひとりに、つらい思いをさせていいのだろうか、と。


「しろくん! やっぱり手伝うよ!」


 心抑えきれなくなった優は、ボートのふちへ足をかけ、しろくんを真似て湖へ飛び込んでみた。



“ が、……っ!? ”



 なんだこれ。しぬほど冷たい、こおり水だった。

 驚いた優の口から、息がもれて、泡となった。


 何より、水が深すぎる――! ボートの上から見ていたより、ずっと、ずっとだ。


 途端に恐ろしくなった優は、バシャバシャと必死に手足を動かすが、だめだ。自然水の中を泳ぐ――ということが、あまりにできなかった優の身体は、どんどん底のほうへ沈んでいってしまう。


 優は本来慎重な子どもだ。泳ぎは、何年か前に学校で習ったくらい。溺れたことは一度もなかったが、ここ数年はプールの授業を休んでいる。こんなのばかりだ、優はじぶんの感情に溺れたのだ。




 ゆらりゆらりと、しろい素足が、水になびくように揺れている――……



 沈んでいく優を、しろくんがじっと見下ろしていた。

 恐ろしく冷たい水の中にいて、しろくんは平然としている。二本の足をゆったり動かし、最小限の泳ぎで、水面下にとどまっている。


 優は、抗うことをぴたりとやめた。

 しろくんを眺めて、悲しくなった。

 水中で必死に藻掻くじぶんが、なんだかとても、醜く思えたのだから。



 青白い湖底から見上げる洞窟内は、神秘的な美しさだった。

 かすかに差し込む日光と、水面下で留まるしろくんの位置が重なり合っている。しろい手腕や、足……しろくんの肌には不思議な、透明な何かがまとわりついているようで、それらが照らされキラキラと光乱反射している。

 あの異様にしろかった肌は、ここ水中で、光を見つけて、いっきに輝いたのだ……。

 こんなにも美しい場所にあってなんの違和感もない。しろくんは水中世界へ完璧に溶け込んでいるし、主役みたいだ。優は、心を震わせた。


“ あの子、すごい…… ”


 感嘆は、泡の声となり昇っていったが、水面へ届く前に、儚く消えた。



 いっぽうで、しろくんのほうは困惑していた。

 突然飛び込んできて、勝手に沈んだ優が何をしたいのか解からず、様子を窺っていたのだ。


“ できれば、助けて…… ”


 しろくんへ向けて手を伸ばすと、ようやく理解したようで優のもとへと降りてきてくれた。そのさいに、むずかしい動きなんてなかった。ただ泳いで、潜ってきただけ。それがとても優雅だった。

 しろくんは優の手を掴んでじぶんへと引き寄せると、そのままいっきに上昇した。そして飛び跳ねるように、ふたりで同時、水面を突き破った。



「しろくん……ありがとう」

「なにしてるの およげないのに」


「そう、そうだよね」

「ゆうくん やっぱり おかしいね」


 水中では、あんなにも流暢だったのに。

 なんというか、陸のぶぶんに上がると、しろくんはやっぱり、しろくんだ。


「ごめん、寒いから……ボートに戻るよ」

「うん そうして」


 優は、ボートへ這い上がった。

 そのさい、片方の足からサンダルが脱げて水底へ落ちていった。けれどもう取りに戻ろうなんて思わないし、そんなことで、しろくんの手を煩わすのも気が引けた。


「……あげるよ」

 優は溜息まじりに、ひとりごとを沈めた。



 そして、顔を上げたときだった。



 もうだいぶ遠くなった洞窟の、とある岩壁。

 ちょうど水中洞窟があった辺りの、その上部だ。


 ほんの一瞬だけれど、岩がひとつ、動いた気がする。


 ――いや?

 あんなに大きく目立つ岩は、先ほどまで、あったか?

 優が目を凝らすと、その岩は再び……ゆっくりと、横へ移動した。


 あまりにも、ふしぜんだった。

 さっきまで洞窟の岩壁と完全に同化していたのに、優が意識してからだ。その岩だけが、少しずつ背景として色模様が変わってく。


 ごつごつとしているように見え、柔らかそうにも見える――それは、ずっと岩へ擬態していたのだ。徐々に浮かび上がってくる謎の塊を中心として、それを支えるように、ぐにゃりといびつに長いものが複数本伸びている。


 まじまじと見ていたら、今、塊の中央で、ぱちっと白い目が開いた。


 やはり生物だ。


 どうも優は、それと目が合ってしまったようだ――。


 

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