あなたはわたしの救世主
病室のベッドには妻が横たわっている。この姿を見続けてもう十年近くになるだろうか。
「こんなものしか作れなかったよ」
妻の寝顔に話し掛けながら今日までの私たちを振り返った。
* * *
ようやく持てたのは小さな飯屋だった。昼の二時間と夕方の三時間しか営業しない店。それが妻と私にできる精一杯のスタートだった。
「子供ができたら手伝ってもらいましょう」
しかし子宝には恵まれなかった。儲からない店を支えるために、妻は午前と夜にパートへ出掛けた。私も客を増やそうと安くて美味しいメニューを考え続けた。
そんな日々が何十年も続いたある日、とある雑誌の記者が取材に来た。夫婦が作る家庭料理の店、そんな内容の記事だった。メディアの力は恐ろしいものだ。途端に客が増え始めた。店は繁盛し従業員を雇う余裕もできた。二軒目を出店しようか、そんな話さえ出始めた時、妻が倒れた。過労による脳出血だった。
「そんな……これからようやく楽をさせられると思ったのに」
手術は成功した。しかし妻は目覚めなかった。店は知人に任せて私は妻を看病した。毎日体を拭き、時々動く手足をマッサージし、暇があれば耳元で妻に呼び掛けた。だが意識は戻らない。
私は神に祈り続けた。そうするより他に手立てがなかったのだ。そんな私を憐れんだのだろうか、突然その声はやってきた。
――信心深いおまえが気に入った。ひとつチャンスをやろう。
「本当ですか。何をしていただけるのですか」
――これからおまえを五日間だけ異世界へ送ってやる。そこには万病に効く癒しの木の実がある。それを手に入れれば女は目覚めるだろう。
「あ、ありがとうございます。ああ、神よ。あなたは私の救世主です!」
こうして私は異世界を彷徨うことになった。だが癒しの木の実は見つからなかった。見つからないまま約束の期限を迎えてしまった。
「結局、手に入ったのはこの四つだけか。せっかくだから何か作ってみよう」
四人の親爺からもらった四つの家宝、炭、水、塩、草。どれもあり触れているが、この世のものではない不思議な気配を感じる。ただこれだけではまともな料理はできそうにない。
「そうだ、あの出汁を加えてスープにしよう」
私は店の厨房に入り床下から甕を取り出した。飯屋を始めるにあたって妻と私が苦労の末に作り上げた秘伝の出汁が入っている。
「まずは火だ」
秘宝の炭を火おこしに入れコンロの火にかける。赤く燃え始めたら七輪に移し団扇であおぐ。じんわりとした温もりが体の芯まで染み込んでくる。
「土鍋を使うか」
七輪の上に土鍋を置き、秘宝の水を入れる。澄んだ水が湯になるとほんわかとした蒸気が立ち上り、乾いた私の頬を撫でていく。
塩、出汁、香草と湯に入れていく。僅かに色づいた湯からは、これまでに経験したことのない匂いが立ち上った。味見をする。不思議な味だ。この世界と異世界が融合した味、そんな表現しかできない。
「こんなものしか作れなかったよ」
そして今、私は出来立てのスープを持って、ベッドで眠り続ける妻の前に立っている。寝たままの妻の上体を起こし、閉じたままの唇を少し開け、スプーンでスープを流し込む。飲んでいる。もう一杯流し込む。飲んでいる。もう一杯、飲んでいる……
「駄目か」
妻の様子は変わらない。わかっていた。こんなスープで意識が戻るはずがない。諦めた私は妻の体を寝かそうとした。が、その時、信じられないことが起きた。
「お、い、しい……」
妻の声だ。閉じていた目がゆっくりと開く。私はもう一度スープを口に運んで流し込んだ。妻の頬が緩む。笑っている。美味しいものを食べた時、いつも見せてくれたあの笑顔だ。
「わかるんだね。私が、このスープが、この味が!」
「ええ。あたしのために異世界へ行って材料を集めてきてくれたのでしょう。このベッドに横たわったままずっと見ていたわ」
「よかった。癒しの木の実を見つけられなかったから、内心諦めていたんだ」
私の言葉を聞くと妻は首を振って言った。
「ううん、違うわ。見つからなかったからあたしは助かったのよ。もしあなたが木の実ばかりに気を取られて、助けを求めている人たちを救おうとしなければ、たとえ木の実を手に入れてもあたしは目覚めなかったはず。異世界の人々の救済、それがあなたに課せられた本当の使命」
驚きと喜びが私の胸を貫いた。そうだったのか。私は知らぬ間に私の使命を果たしていたのか。
「みんな喜んでいた。あなたの作った料理のおかげでみんな救われた。そして今、私もまた救われた。あなたは私の救世主だわ」
妻がにっこりと微笑む。ああ、今、ようやくわかった。この笑顔。私が飯屋になったのは、私がずっと料理を作り続けてきたのは、この笑顔を見たかったからなんだ。
「いいや、違うよ」
私は妻の手を取り、力強く握りしめた。
「救世主は君のほうだよ。君の笑顔を
異世界メシヤ 沢田和早 @123456789
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