無芳香の国の救世主

 今日も私は異世界の見知らぬ土地を歩いていた。


「ここは草原か。気持ち良い風が吹き抜けていくな」


 踏みしめている草は波のように風になびき、モコモコの白い雲は放牧羊のように青空を流れていく。これまで訪れた異世界の中では一番快適な土地と言えそうだ。ただ、これまでの国と同じくあまり文明は発達していないようだ。皮、布、木を用いて作られた簡素な家屋が点々と立っている。


「喉が渇いたな。あそこで水でももらうか」


 草原の中に際立って大きな家屋があった。その前に立ち扉を叩く。


「こんにちは。ごめんください。失礼します」

「何か用かね」


 親爺が顔を出した。これで何度目だろうと思いながらいつもの台詞を口にする。


「旅の途中でこの地に立ち寄った者です。水を一杯恵んでいただけないでしょうか」

「水はないが乳はある。それでもいいかね」

「もちろんです」


 招かれて中に入る。ヤギが数頭いる。家畜だろう。外で飼わないところをみると家族同然に扱っているようだ。親爺がコップを持って戻ってきた。


「飲みな」

「ありがとうございます」


 白い液体を飲む。ヤギの乳は初めてだ。独特の臭みがあるが飲めないことはない。


「よかったらシチューでもどうだ。そろそろ昼にしようと思っていたんだ」

「では遠慮なく」


 親爺は盆に木皿を二つ載せて戻ってきた。クリームシチューのようだ。


「いただきます」


 親爺と二人で食卓に着き、匙でシチューを掬って口へ運ぶ。悪くない。まろやかな舌触りと適度な辛みと甘み。ただ、先ほど飲んだヤギの乳と同じく臭みがある。飲むほどに臭みが鼻について食欲がなくなっていく。しかし空腹には勝てない。口から息を吐いて臭いが鼻へ行かないよう努力しながら、私はシチューを飲み終えた。


「ごちそうさまでした。美味しかったのですがヤギの乳の臭みが残念ですね。香草などを使えば風味も良くなるのではないですか」

「香草? 何だね、それは」


 まさか香草を知らないのか。これだけ豊かな草原地に住んでいるのなら良い匂いの草などいくらでも自生しているはずなのに。


「失礼」


 私は外に出た。緑が目に眩しい。道を外れ草地へ足を踏み入れる。見慣れた草がそこかしこにあった。ミント、バジル、レモングラス、月桂樹の小木まである。それらを適当にちぎって持ち帰り、親爺のクリームシチューの風味を整える。作り直したシチューを口にした親爺は目を丸くして驚いた。


「な、なんというウマサだ。草を入れただけでこれほどのシチューに仕上がるとは!」

「料理に合わせて様々な香草を試してみてください」


 事も無げに喋る私を親爺は尊敬と驚嘆の目で見つめている。


「おぬし、只者ではないな。いったい何者なのだ」

「いえいえ、私はしがない旅人です。もっともここに来る前は飯屋めしやをやっていました」

救世主メシヤ! ああ、そうか、そうだったのか。やはり予言は本当だったのだな。臭みのある料理から我々を救ってくださる者がきっと現れる。鼻に喜びを与えてくれる救世主メシヤがいつか出現する。今日、その予言は成就したのだ」

「え、いや、メシヤって救世主メシヤじゃなくて飯屋めしや……」

「おぬしに渡したいものがある。ちょっと待っていろ」


 私の言葉を聞こうともせず親爺は山小屋の奥へ消えた。しばらくして戻ってきた親爺は古びて頑丈な革袋を持っていた。袋の口を開けて取り出したのは乾燥した植物だ。辺り一面に甘い香りが漂う。


「これは我が家に伝わる秘草、『芳香の草』と申すもの。何に使うのかさっぱりわからぬまま先祖代々伝えられてきた家宝。今ようやくわかった。かつてこの地に生息していた幻の香草を乾燥させたものだったのだ。礼だ。受け取ってくれ」

「ありがとう。頂戴します」


 私は香草の入った革袋を受け取った。と同時に忘れていた声が聞こえてきた。


 ――終了だ。この異世界でおまえに与えられた時間は全て費やされた。


 頭に直接響く声に私はたじろいだ。


「お待ちください。私はまだ目的のモノを見つけておりません。癒しの木の実、それを手に入れるまで帰るわけには……」


 ――約束をたがえるわけにはいかぬ。諦めろ。さらばだ!


「わああー!」


 こうして私は元の現世へ戻された。

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