No.7 異食

 眠たそうな目をしたままマーゴがパンっと両手を打ち鳴らす。動作としてはただそれだけだった。それだけのことで、目の前の空間がぐにゃりと曲がる。なんの変哲もない路地裏が、壁が、道路が、飴細工のように曲がり、ぶれる。続いて、地面がのたうち足元が揺れる。吐き気を覚え、久留島が口元に手を当てたところで唐突に変化は終わった。深呼吸し、落ち着いてから周囲を見渡せば、目に痛い赤色が飛び込んでくる。


 先ほどまでいた路地裏と同じものが周囲にならんでいる。それなのに視界はひどく赤い。色一つ。それだけで世界は異質になる。そう自らの目で知ってしまった久留島はぞっとした。

 ここは自分が知っている世界ではない。人が本来はいりこんではいけない場所だ。


「お、緒方さん……」

「マーゴの能力だ」


 緒方は初めてじゃないのか、久留島よりは冷静だった。それでも眉間の皺が深くなっていることから、歓迎していないのは分かる。この先なんど経験しようとも久留島も慣れる気がしなかった。

 気分としては猛獣の檻に放り込まれたようなものだ。


「ぼーっとしてねえで聞き込みしろよ。そのためにわざわざ連れてきてやったんだろうが」


 連れてきてくれなどと頼んだ覚えはないのだが、クティが偉そうに踏ん反り返る。この空間を造り上げたのはマーゴのはずだが、クティが主だと勘違いしそうな態度だった。一方マーゴはというと微動だにせずに一点を見つめている。

 その視線と聞き込みしろというクティの言葉が気になって、久留島が視線を動かす。そして、後悔した。


 マーゴが見つめていた先には路地に立つ電柱とゴミ箱の間に隠れるようにして、震える女がいた。それだけでも十分に事件だが、女の手足は不自然な方向に曲がり、首や、露出している手足には絞められた痛々しい痕がある。見ているだけでも痛みを伴うような姿に、久留島は小さく悲鳴を上げた。


「一々狼狽えてると、これからやってけねえぞ」


 久留島の反応を見てクティが呆れた顔をする。そんなことを言われても、と久留島が反論しようとすると、険しい顔をした緒方が目に入った。


「被害者か……」


 緒方は持ってきていた資料をめくり、元々怖い顔をさらに険しくする。久留島は緒方の反応を見て思い出した。確かに、資料でみた女性の服装と一致する。顔については、写真は見るに無残な形相に変化していたため、同一人物かと言われると自信がない。そもそも、なぜ死んだ人間がこの場にいるのか。そう考えると久留島は先ほどとは違う意味で血の気が失せる。


「な、なんで、死んだはずじゃ」

「どう見ても死んでんだろ。お前、マーゴの能力確認してねえのか」


 クティがまたもや呆れた顔で久留島を見た。

 混乱した頭で久留島はクティの言っている言葉の意味を考える。

 マーゴの能力。捕食対象は幽霊。捕食するときは独自の異空間、赤い世界を作りだす。赤い世界と現実世界は同じように見えて異なる場所であり、マーゴが赤い世界に入っている場合は同じ場所にいても気付かない。赤い世界を作り出す時に近くにいると、巻き込まれる可能性があるため注意が必要。その世界では素質がなくとも死者の姿がハッキリ見え、触ることができる。


 前に読んだ資料の内容を思い出し、久留島は一応の落ち着きを取り戻した。目の前に起こっていることは、未知の事象ではない。特視ではすでに調査、観察された事柄だ。だから不安に思うことはないと自分を落ち着かせる。マーゴは危険度グリーン。生きている人間には無害だ。


 そう思ったところで久留島は気付く。生きている人間には無害だろうが、目の前で震え怯えている幽霊に対してはどうなのだろうかと。


「お嬢さん、そんなに怯えてどうしたんだ」


 いつのまにか緒方が女性に近づいていた。さすが先輩だ。久留島はあんな恐ろしい存在に近づける度胸がない。女性はただの被害者だと分かっているが、その姿はどうにも本能的な恐怖を呼び覚ます。生きているはずがないのに生きている。致命傷だと分かる四肢の損傷を目にすると胃液が喉もまでせりあがってくる。


「なにあれ……なんなの。なんで……わたし…!」


 緒方が呼びかけても女性の目は虚ろだった。焦点があわずに頭を抱えて震え続けている。なんどか緒方が肩を揺さぶり声をかけたが反応はかわらない。


「一体なにに襲われたんだ!」


 ずっと宙を見つめる被害者に苛立った緒方が声を張り上げる。それでも女性は頭を抱え涙を浮かべながら、「なにあれ。なにあれ」と繰り返していた。

 とても話がきけるような状態ではなかった。


「クティさん。なにか分かった?」


 あくび混じりの暢気な声をあげたのはマーゴだった。苛立った緒方が睨み付けてもマーゴは気にせず、じっと女性を見つめている。その目は女性を見ているようで見ていない。もっと奥。内側を覗き見るような底の知れない瞳に久留島は恐怖を覚えた。


「……ろくでもねえ女だってのはわかったな」


 そこで言葉を区切るとクティはマーゴをみた。視線の意味が分からなかったマーゴは不思議そうな顔でクティを見返す。


「お前が嫌いな人種だ」


 それをいわれたとたんマーゴの顔がひきつった。眠たそうだった顔が引き締まり、先ほどまで興味がなさそうだった女性を凝視する。

 その顔は虫けらでもみるような嫌悪のにじんだものだった。


「用事はすんだわけだし、食べていい?」


 女性に話しかけていた緒方の隣まで移動するとマーゴは女性を見下ろした。緒方に話しかけているようではあるが、一切緒方の方をみない。

 先ほどまでとの空気のかわりように久留島は戸惑い緒方をみた。緒方も眉間にしわを寄せていることから、珍しい様子らしい。

 クティをみるがクティの表情は平坦だった。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、無表情でマーゴ、そして女性をみている。心底アホらしい。そんな言葉が聞こえてきそうな態度に久留島はどうしていいか分からなかった。


「まだなにも聞き出せてないが」

「喋れないのは分かっただろ。それ以上は無駄だ。こっちでだいたいのことは分かったから、後始末はマーゴに任せろ」


 後始末という言葉に緒方の眉がつり上がる。久留島も何となく嫌な予感がしてクティ、そしてマーゴをみた。

 マーゴはじっと女性をみていた。親の敵でもみるような険しい顔だ。


「ボク、あなたみたいな人まずそうだから食べたくないんだけど、何事もなく生まれ変わるのも変だと思うんだよね」


 そういいながらマーゴはおもむろに女性の首をつかんだ。止めるまもなく震えていた女性の体を地面へと叩きつけ、馬乗りになる。

 久留島が事態を把握して動こうとしたところで甲高い叫び声が響いた。「なにするの。やめて」と悲痛な声が響いて緒方も動こうとする。その腕をつかんだのはクティだった。


「もう死んでる」


 その声は平坦だ。事実を淡々と告げている。

 マーゴに押さえつけられ暴れている女性はすでに死んでいる。肉体は回収され、もう燃やされたころかもしれない。早ければすでに土の下。死亡届けも受理され、この世にいないもの。そうして処理されている。

 だからここにいるのは残りカス。本来はここにいてはいけないもの。そうであると久留島は聞いた。情をかけ、とり憑かれるなんて失態はしてはいけない。そう緒方に教わった。


 しかし、目の前で必死にもがいている女性をみると本当にそうなのだろうか。そんな疑問と恐怖がわく。

 たしかに四肢は折れ、首には痛々しい鬱血あとがある。下腹部は血に染まり、資料通りであれば子宮がえぐりとられているはずである。

 それでも動いている。必死に両腕を動かし、叫び、泣き、マーゴから逃れようとしている。それは本当に死んでいるのか。


「ちょっとまって!」


 そう叫び、動こうとしたところで嫌な音がした。ブチリとなにかが切れる音。にぶく、やけに生々しい音の正体はマーゴがつかみあげたものをみてわかった。

 女性の片腕がない。数秒遅れて絶叫が響き渡る。いたい。嫌だ。やめて。殺さないで。とすでに死んでいるはずの幽霊が泣き叫ぶ。


 それに構わず、マーゴは女性から引きちぎった腕を口に運んだ。

 ぐちゅりと肉のつぶれる音がする。


「あーまずい。クティさん最悪。すごくまずい」

「そりゃそうだろ」


 不快そうにマーゴは顔を歪める。そうしながらうるさいとばかりに女性の口を手で塞ぐ。


「こんだけまずいなら食べたくないけど、食べなきゃ。だって不公平だ。こんなにまずいんだから、きっとあなたは悪いことしたんだろうし、人を傷つけたんでしょ? そんな人が死んだからおしまいなんて不公平だ。死んだらリセットなんて不公平だ。人を傷つけたのに、何事もなくすべて忘れて生まれかわるなんて不公平だ」 


 そういいながらマーゴはブチリ、ブチリ、女性の体をもいでいく。血が出ることもなく、人形の四肢をもいでいくように、簡単に女性の体はもがれていく。それでも押さえつけられた口許からはくぐもった悲鳴がひびく。

 悪夢みたいな光景だった。


「痛いでしょ? 怖いでしょ? 忘れないでね、この感覚。恐怖。だから次はしないでね。またやったの見つけたら……そのときは」


 マーゴは女性の耳元でささやいた。女性の震えが大きくなり、最後の力で必死にうなずく。すでに食べられずに残っているのは押さえられた首と頭だけ。それでも女性に意識はある。なんて地獄だろうと久留島は吐き気を覚えた。


「約束だからね」


 マーゴは最後場違いに笑うと大きく口を開いて女性の頭を丸のみにする。ゴリ、ぐちゅりと嫌な音がひびいて、気づけば女性の体はきれいになくなっていた。

 血の一滴すら落ちていない。女性がいた痕跡は綺麗に消えていた。あの光景をみていなければ、そこに女性がいたなんて思いもしなかっただろう。


「あーまずかった」

「それでも腹はふくれたろ」


 お腹を押さえて顔をしかめるマーゴにクティがいう。マーゴは「まあね」と複雑そうな顔でお腹をさすった。


「吐かなかっただけ見所あるんじゃね。目もそらさなかったし。いい新人みつけたな」


 硬直している久留島をみてクティが口のはしをあげる。誉められているのかもしれないが喜べるような精神状態ではなかった。

 吐かなかったのは気持ち悪いを通り越して、感情が死んでいたからだし、目をそらさなかったのではなく、あまりの衝撃でそらせらなかったのである。


 マーゴの目が久留島をとらえた。無邪気ともいえる柔らかい表情。それと先ほどの光景が重なって……


「久留島!?」


 体が倒れる。気が遠くなる一瞬、緒方の叫び声。こちらへ駆け寄ってくる姿がスローモーションでみえた。そのなかにはきょとんとしたマーゴとあきれた顔のクティの姿もある。「やっぱ、使えない新人か?」と呟いたクティの声がやけにハッキリ聞こえたが、それに返事ができる余裕もなく久留島の意識はプツリと途切れた。


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