第7話 七海さん、翠。
翠と一緒におばあさんのお店から出る。
近くの波止場でちょうどベンチがあったので、そこに自転車を押して行って停車させた。
ベンチに腰掛けおばあさんから頂いた饅頭とペットボトルをリュックから出す。
「七海さんは食事できるの?」
「ううん。食べても。すり抜けちゃうの」
「そ、そっか……残念」
一回だけなら見てみたいけど……口から入ってそのままストーンと落ちるんだろうか。
「うお。ち、近いって」
饅頭に目を落としていたら、翠が手を床につき俺を下から見上げるような形で……。
「ねね。九十九くん。さっき」
「な、なんだろう?」
「もう、分かっている癖に―」
「な、なんだったっけ。七海さん」
「そうじゃなくって、ね?」
ん、んん。
何だろう。何か言ったっけ俺……。
あ。
ああああ。
思い出して今頃恥ずかしくなってきたぜ。
『あ、いや。そうだ。翠』
確かに俺はさっき「七海さん」じゃなくて「翠」って呼んじゃったよ。
小学校に入ったら、突然みんな名字で呼ぶようになるじゃない。特に男子は女子のことをみんな名字で呼ぶんだよ。
幼馴染でも小学校になったら名字で呼ぶくらいだしさ……名前で呼ぶのは気恥ずかしいのだ。
「ど、どこに顔を乗せてるんだよ……」
「ん、肩だよ?」
「七海さん、ちょ、ちょっと。待って」
「んー?」
だああああ。呼べばいいんだろ。呼べば。
「翠」
「よくできました。やったあ。嬉しい」
顔をあげ、元の姿勢に戻った翠は両手を胸の前に当てて喜色をあげる。
「と、ともかく……明日は石碑までハイキングだぞ」
「うん! お昼ごろに九十九くんのところに行ってもいいかな?」
「もちろんだよ」
「楽しみ!」
「俺も!」
「えへへ」
「ははは」
お互いに頷き合い、笑う。
俺が君を見えているうちは、絶対に寂しい思いはさせないぜとカッコよく心の中で呟く。
「九十九くん、変な顔ー」
「え、えええ。結構真剣な内心だったんだけど……」
「そうなんだ。大丈夫だよ。どれだけでも歩くことができるから」
「お、俺の方が先に参っちゃわないようにしないと」
コロコロとよく変わる翠の顔。
彼女はこれまで長い時間を幽霊として過ごしてきたはずだ。会話できる相手もいなくて、ずっと寂しかったはずなのにどうしてこんなに笑えるのだろう。
でも、君が笑うと俺の心は高鳴る。
それが嬉しくもあり、君が心から笑えるようになって欲しいと願う。きっと俺が。うん!
翠。俺は君が幽霊だから惹かれたんじゃない。君の真実をまだ知らなかった初めて出会った時から……。
「また変な顔してるー」
「えええ。だから真剣に」
「またまたあ」
「うー。まあいいや! 楽しもうぜ。明日も明後日も」
「うん!」
◆◆◆
留蔵の家に帰る頃にはもう夕飯の時間だった。
留蔵はといえば、今日は日本酒らしい。今日は漁師さんからとれたてのクロダイをいただいたそうだ。
そんなわけでお刺身と日本酒だと留蔵は言う。
「クロダイって夏にとれるんですね」
「おう。漁ってやつはビニールハウスで育てたりできねえからな。チヌ(クロダイ)は夏の魚。季節感があっていいだろ」
「クロダイの刺身とか食べるの初めてですよ」
「そうなのか! うまいぞ! 天然のとれたてだ」
「へええ。さっそく」
「お、炊飯器にチヌ飯も入ってる。お前さんが来てると伝えたら、三匹もくれたんだよ」
「そ、それは、そんなもらっちゃっていいんですか?」
「おうよ。俺は奴に野菜をちょこちょこ、奴は俺に魚をってな」
留蔵は、ガハハハと愉快そうに笑う。
ふむ。刺身と日本酒か。美味しそうに飲むよなあホント。しかし俺は未成年。まだ飲めないのだ。
お茶碗にチヌ飯を盛って、ダイニングテーブルへ戻る。
じゃあさっそく。
「お、鍋に味噌汁も入ってるからな」
「は、はい」
再び立ち上がり、今度はお椀にみそ汁を入れて席に着く。
「いただきまーす」
ではさっそく、クロダイの刺身をいただいて。
お、おおう。
これは、なかなか。ほうほう。鯛に似た味だけど、身が詰まっているというか噛んだ時の弾力感が違う。
「おいしいです」
「そうかそうか。そいつはよかった」
クロダイの他にもエビやイカの刺身もあったが、こちらも美味しい!
漁師さんに感謝。
食器洗いだけでもと、留蔵に申し出て食器を洗いお風呂に入る。
一日の汚れを洗い落とし、湯舟にどぼーんするとこれがまた気持ちいいのだ。
暑い時って風呂に入るのがおっくうで、シャワーで済ませちゃうけど風呂は風呂でよいな。うん。
さっぱりしたところで自室に戻り、クーラーをつけてから布団を敷く。
布団にゴロンとして、スマホで石碑を調査。
ふむふむ。ルートは神社へ行く道を脇道に逸れずに真っ直ぐ進むだけか。これなら迷わずに行けそうだ。
安心したらすぐに眠くなってきたので、そのまま電気を消して寝ることにしたのだった。
◆◆◆
八月一日。七月が終わり八月になった。
お昼前まで留蔵のお手伝いをして汗を流し、シャワーを浴びた後自室に戻る。
部屋の扉を開ける。
鹿のはく製がこっち見てるじゃねえか。
「翠!」
俺の呼びかけに、鹿のはく製の傍から翠が降って来た。
音も立てずに着地した彼女は、小さく舌を出し頭に手を乗せる。
「えへへ」
「鹿のはく製が正面を向いたことが『来たよ』の合図とは……」
「どこで九十九くんを待とうかなあと思ったんだけど」
「あ、鹿のはく製はいいかもしれない。次からここへ来た時に鹿のはく製を動かしてくれないか?」
「うん! 次っていつかな……?」
ペタンと座ったまま翠は俺を見上げる。
彼女はいつものあっけらかんとした感じではなく、小動物を感じさせる不安気仕草をするものだから……。
俺の保護欲を嗅ぎたてて、守ってあげないとって気持ちが沸き上がってくる。
「い、いつでもいいよ。翠が来たい時で」
「本当!」
「うん、本当」
「いつでも九十九くんのところに……えへへ」
「寝てたらすまん。あ、あと……」
「ん?」
「変なことを呟いていたら、聞いてないことにしておいて欲しい」
着替えとか別に覗かれても何とも思わないけど、俺のよく滑る口が何を言うか分からんからな。
一人の時ってよく心の中が駄々洩れになるんだよ。
「変なことかあ。例えば―?」
「う……」
痛いところを聞いて来やがる。
「変なことは変なことだよ」
「あ、わかった!」
翠は満面の笑みを浮かべポンと手を打つ。
嫌な予感しかしねえが……。
「分かったって……?」
「えっちなことでしょー?」
ズッコケそうになった。
あながち間違いじゃないから、否定できないのが悔しい。
「あ、その態度。図星だったんだ。大丈夫。九十九くんがどんだけえっちなことを言っても聞いてないからね」
「ま、まあいいや……、出る準備をするよ」
「うん!」
といっても、準備なんてすぐに終わる。
リュックに飲み物やら軽食を詰め込んでタオルを首に巻けば終了だ。
翠はと言えば、俺の渡した麦わら帽子以外はいつものセーラー服。
なんかこう着替えでもできたらいいんだけど、生憎、女性服は持っていない。ひょっとしたらコンビニのあった辺りに服とか置いてる? かも?
「翠、服が売っているお店とか知らないかな?」
「んんん。海水浴場があるから水着なら……あったかも?」
「そっかあ」
「どうしたの?」
「いや、いつもセーラー服だと、せっかくだから気分ごとに服装をと思って」
「そんなこと考えていてくれたんだ。気持ちだけでも嬉しいよ! 九十九くん」
俺の両手を握りしめて、翠はひまわりのような笑顔を浮かべる。
「ま、まあ。行こうか」
「うん!」
◆◆◆
留蔵の家から山の入り口までそれなりの距離があるけど、どうしたものか。
「翠。どうしよう? 自転車もあるけど」
「ん? わたしが後ろに乗るのかな?」
「そのつもりだけど」
自転車の二人乗りは道路交通法違反なんだが、翠なら他の人から見えないし問題はないと思う。
そ、それにだな。自転車に乗ると彼女が俺の肩をつかんで……。うふふになる。
「九十九くん、なんか変な顔してる! せっかくだからここから歩こうよ」
「あ、うん……」
顔に出ていたらしい。
でもいいさ。翠といる時間が長くなると思えば、歩きの方がいいじゃないか!
うんうん。
気持ちを切り替えて、横に並んでてくてくと歩き始める。
海沿いの道を真っ直ぐ進んでいくが、照り付ける太陽の光は相変わらず激しい。
すぐに汗がぶわっと出てくるほどだ。
波の音、遠くに見える堤防にカモメたち。
「九十九くん、見て見て。あそこ!」
「お、大きな貨物船だなあ。何だろうあれ」
「何だろうね! どんな物を運んでいるのかなあ」
翠は貨物船を指さし、こぼれんばかりの笑みを浮かべる。
ただ散歩するだけなのに、これほど楽しそうに笑顔を振りまきながらキョロキョロとせわしなく顔を動かし、目に映る物へ興味を示していく。
俺にとっては幾度か通った普通の道で、翠だって景色自体は何度も見ていることだろう。
他の人と一緒に散歩する。俺にとっては日常的に体験していることだけど、翠にとっては違うんだ。
そう思うと胸が締め付けられる。
「ねね。あの雲みて」
「お、おお。豚みたいだな!」
「そうかなあ……うしさんじゃない?」
「えー」
「むー」
アハハと笑いあう俺たち。
一歩、一歩、大事に進んで行こう。
「突然、大股になって変な九十九くん」
「へ、変だったか」
「うん!」
そう言ってほほ笑む彼女は淡雪のように儚く見えた。
「翠。追いついてみせろ!」
俺はしんみりした気持ちを払うように首を振り、一気に速度をあげる。
「待て待てえー」
「待てと言われて止まる人はいねえ!」
――結果。
「はあはあ……」
「もう、無理して走るから」
山の入り口まで来たはいいが、完全に息が上がってしまった。
背中をさする翠へ「大丈夫」だとばかりに手をあげ、ペットボトルに入った水をごくごくと飲み干す。
「ところで、翠」
「なあに?」
「途中でズルしてただろ!」
「気のせいだよ。うん」
俺が走っているというのに、翠の様子をチラリと見たらだな。
浮いてた。
浮いたまま俺に引っ張られるようにすうううっと進んでたんだよ。
「まあ、そういうことにしとくよ」
「えへへ」
はにかむ彼女はとても愛らしい。
彼女を見ると元気が湧き出てくるけど、なまった俺の体が言う事を聞かぬ。
「す、すまん。翠。少しだけ座らせて」
その場で膝を落とし、肩で息をする俺なのであった。
「うん! ゆっくり休んでね」
翠は両膝をくっつけた姿勢でしゃがみ、こちらに顔を傾けた。
その仕草は反則だ……白磁のような生足がこう……写真集の一ページみたいな感じがしてとてもソソル。
「どうしたの? 少し顔が赤いよ?」
「大丈夫。すぐに引くから」
翠から顔をそらし、再び水を飲む。
◆◆◆
神社へ行く脇道のところを真っ直ぐに進み、十五分ほど進むとちょっとした湖があるところに出た。
上流から注ぎ込む川は、湖を通り神社の左手にあった川へと続いていると思う。
一方、道は湖を沿うように続いており、これからまだまだ登り道が伸びていっている。
湖には小さな水車小屋があって、それを見つけた翠は歓声をあげ俺の服の袖を引っ張った。
「あれ、動くのかな」
「ん、見た所水車自体は飾りに見えるけどなあ」
「そうなんだあ」
「でもさ、とてもいい雰囲気だよね。あそこで写真を撮らない?」
「うん!」
そういえば、港でも翠の写真を撮っていなかったのだ。
何気なく提案したけど、チャンス到来じゃねえか。
肩を寄せ合って、腕を伸ばしてスマホを構えて水車をバックにパシャリ。
翠のほっぺが俺の肩に当たってドキドキしたのは秘密だぞ。
「見せてえ」
「あ、いや」
撮った写真を確認した俺は、電源ボタンを軽く押し画面を暗くする。
画面にはにやけた顔をした俺しか映ってなかったから……。
「ずるーい。九十九くん。自分だけえ」
「俺の顔があまりに不気味だったから見せたくないんだよお」
「もう。じゃ、じゃあ。もう一回撮る?」
「ん、いいや。石碑のところで獲ろうよ」
「えー、仕方ないなあ」
腕を組んでツンと顎をあげる翠。
ここはうまく誤魔化す手を考えねば。
「そ、そういや、翠」
「誤魔化したなあ。九十九くん。わたしはそんな単純じゃないの!」
「まあまあ。スマホはさ、すぐに充電が減るんだよ」
「スマホ? それって携帯電話だよね?」
「うん。充電が切れちゃうと、写真も撮れなくなっちゃうし。メインは石碑じゃないか」
「んー。それなら仕方ないのかな? うまく言いくるめてない?」
「い、いや。そんなことないって」
「むうう。その顔! わたしだってPHSくらい知ってるんだから!」
「ん?」
「PHSだよ。PHS。九十九くんが使っているような携帯電話なの」
「それはわかるけど……」
ガラケーかスマホの話じゃなかったのかと話の食い違いに首を捻る。
「九十九くん。わたしは世間知らずだから、電子機器のこと良く分かってないって思ってるのかなあ?」
「い、いや。そんなことは……」
「聞いて、九十九くん! わたしね」
「うん」
「対応表を見なくても文字が打てるんだよ? 数字を見ただけで分かるんだから!」
「な、何の話だろう?」
ま、まるで分らん。
対応表? 数字? 数字が文字になるの?
「ワザと知らないフリをしてるんだなあ。九十九くん」
「ほ、本気で分からないんだけど……」
「え、えええ。ポケベル……知らないの?」
「名前だけは……」
「そう……九十九くんにメッセージを打ちたかったんだけどなあ」
翠の説明によると、ポケベルってやつは一方通行のメールみたいなもんらしい。
公衆電話から番号をプチプチしてメッセージをポケベルに送信して、使うとのこと。
公衆電話には数字しかないから、二けたの数字がひらがなに対応している。どの数字がどのひらがなに対応しているのかってのが対応表ってわけだ。
んー。使い辛い機器だよな。ポケベルって。
受け取ったはいいが、送信するのに別途電話がいるとか。
まあそれはいい。
制服のことで翠が亡くなったのは十五年以上前だってことは分かっていた。
しかし、ポケベルのことから……二十年以上前なのかなあと推測できる。
ポケベルが流行ったのっていつ頃かハッキリとは分からないけど、少なくとも携帯電話が普及する前だよな。
俺が産まれた時にはスマホこそ無かったけど、携帯電話はあった。
後で調べたら大体いつ頃か分かるだろうけど、ポケベルの話はいい情報だったぞ。
いっそストレートに彼女が亡くなった年を聞いてもいいんだけど……彼女の死について今はまだ余り触れたくないんだ。
「今を」楽しんで欲しいから。俺だって「今の」彼女が好きなんだ。
生前の楽しい話ならいくらでも聞きたい。でも、死については触れたくないってのが正直なところ。
自分の拘りがつまらないわがままだってことは分かっている。でも、それが「今を」楽しむと決めた俺のルール。
彼女から自分の死について語るのならいいけど、俺から聞くことは今後も控えるつもりでいるんだ。
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