第6話 おばあさん
さあて、靴と靴下は脱いだ。ズボンの裾はまくった。
行くとするか。
そうなんだ。釣り竿が岩の上から川へドボンしてしまった。
ちょうど手を離した後に風で煽られてだな。コロコロと転がり……。
幸い釣り竿が流されていってしまうほどの流量はなく、深さも膝下辺りだと思われるところに落ちている。
「じゃあ、行ってくる。ここで待っててね」
「うん」
川べりで翠へ向け右手をあげて、一歩踏み出す。
思ったより冷たいなあ。しかし、足から伝わる小石の感触が心地いい。
よおし、順調順調。
あと少しで手が届く。
深さは思ったより深い。膝上くらいまで水が来ていて、せっかくジーンズをたくし上げたのに無駄に終わってしまった。
長ズボンだから、膝辺りまでしか上にあげれなかったんだよなあ。
こんなことなら脱いで川に入れば……いや、それはそれでマズイ。
裾から水がドンドン登ってきて、太ももの付け根あたりまで濡れている。
しかし、それにも構わず俺は釣り竿へ手を伸ばす。
む。少し距離が足らない。ここは更に深くなってんのか。
仕方なく一歩進むと。
足元の大き目の石が動き――。
見事にその場ですっころんでしまった。
「九十九くん!」
翠の驚いた声が耳に入る。
ただでは転ばぬと、転んだついでに釣り竿を掴み起き上る。
続けて、彼女の方を向き少し大きな声で叫ぶ。
「大丈夫だよ。濡れただけ」
「むう。そのままだと風邪を引いちゃうよ」
両手を広げ早く早くと俺を急かす翠。
過剰な心配だよなと考えたけど、彼女の事情を顧みると当然と言えば当然か。
健康。
それこそ、彼女が生きている間ずっと気にかけていたことだし。
そんなわけで、釣りを中断して俺は一旦留蔵の家に帰ることとなった。
翠の物憂げな顔が酷く俺の心に残ったわけだが……。心配させてしまってごめんと心の中だけで誤ることにした。
口に出すと彼女はより一層、気を使うだろうから。
◆◆◆
留蔵の家に戻ると真っ先にシャワーを浴びてから、お昼にした。
服装は浴衣だ。
一着濡れて洗濯機に入れた。一応着替え用のズボンは一着持ってきているけど、残念、まだ干している。
上なら四着あるんだけど、肝心の下がないとどうにもできないしさあ。そもそもジーンズとかそうそう洗うもんでもねえし。
ひょっとしたら使う事があるかもしれないと思って、浴衣を持ってきておいてよかった。
こんな時、いつもならボクサーパンツ一丁にTシャツでも全く構わない。
しかし、自室で翠に会った経験から、彼女がいつここへ来るか分からん。
その時にパンツ丸見えだと恥ずかしいだろ?
せっかくだから、お昼を一緒に翠と食べたかったなあ……でも彼女は食事をしないのかな。
あの場で別れちゃったのが悔やまれる。
別れ際に「また明日ね」と言っていたし……これから神社に戻るのも何だかバツが悪い。
というわけで、自室にある縁側へ出て扇風機を回しながら「あああああ」とお約束のことをやった後、冷蔵庫で冷やしてあったスイカを持ち込む。
ん、ひょっとしたら。
左右を見渡し、誰もいないことを念入りに確認。
「んー、可愛い七海さんをもっと見ておきたかったなあ……」
て呟いてみた。我ながらとんでもなく恥ずかしいが、必要なことなのだ。
もし翠がここにいるのなら、何らかの反応が絶対にあるはず。
そう、これは翠をあぶり出すための秘策……何たる策士なのだ俺は(自画自賛)。
……。
……。
いないか。残念。
どうすっかなあ。
スイカをかじり、一息つく。
留蔵は軽トラックで出かけちゃったみたいだし、お手伝いもできん。
かといってこのまま暇を潰すのも、もったいない。
そうだ。お店に行こう。
釣りは大失敗だったけど……。おばあさんとお話しましょうってお約束したしな!
◆◆◆
港前にある古ぼけたお店へ顔を出す。
店内には相変わらず誰もいない。お客さんがいなくてこのお店は大丈夫なんだろうか? と変なことを考えつつ「すいませーん」と奥へ声をかける。
するとすぐに廊下を進む足音がして、引き戸が開きおばあさんがやって来た。
「あらあら、川釣りに行ったお兄さん」
「こんにちは。行ってきたんですが、悪くはなかったですよ」
にこやかなおばあさんの顔を見るとほっこりとした気持ちになってくる。これは彼女が持つ天性のものなのだろうな。
そう考えると、お店の経営は彼女にとって天職と言えるのではないだろうか。
「いっぱい釣れたのかい?」
「いえ、全くでした……。なかなか難しいです」
「そうかいそうかい。ちょうどおやつにしようと思ってたんだよ。お兄さんもどうだい?」
「え、ありがとうございます。あ、あのこれ」
ここに来る時にこんなこともあろうかと思って、お土産を多めに持ってきておいたのだ。
日持ちのするものから選んだので、中身はせんべいなんだけどね。
「あらあら。ご丁寧にありがとうね。じゃあこれもさっそくいただくとしましょうか」
「はい!」
おばあさんへお土産を手渡す。
彼女はにこにこしたままよっこらしょっと声を出して壁に手をつきながら一歩進み、俺を奥へと促したのだった。
お店の奥は長い廊下になっていて、南側の日当たりのいい場所に縁側があった。
縁側の外は広い庭になっていて、物干し竿に洗濯物がかけられている。
おばあさんは扇風機の電源を入れ「少し待ってておくれ」と言い残しお茶の準備に向かう。
俺はと言えば、浜風に揺れる風鈴の音色へ耳を傾けぼーっと外を眺めていた。いいよなあ。こういうのって。落ち着くう。
「お待たせね」
「いえ」
おばあさんはお盆に暖かいお茶と冷たいお茶を乗せて戻ってきた。
彼女からお盆を預ったら「ありがとうねえ」と言いながら彼女は縁側に腰かけた。
ちょうど間に来るようにお盆を床に置く。
お盆には他にも羊羹と先ほど俺が持ってきたせんべいが乗せられていた。
「冷たいお茶はお兄さんのだよ」
「ありがとうございます」
ふう。お茶を一口飲み、さらに和む俺である。
おばあさんもぼーっと庭を眺めながら暖かいお茶を一すすり、
「こんな若い子とお茶をするなんて久しぶりだねえ」
と言いながらほおうと息を吐く。
「そうなんですか? 確か娘さんがいらっしゃるとか」
「娘はもういい歳だよ。今年は旅行だとかで帰省も冬までお預けだよ」
娘さん、確か一時神社へ通っていたとか言っていたな。確か……。
何もない神社に通う理由が見当たらないんだよなあ。絵でも描きに行っていた? それとも。
ひょっとしたらと思い、俺はおばあさんに尋ねてみることにした。
「おばあさん、娘さんて神社に通っている時期があったとか」
「そうさねえ。末の娘が夏休みの間にねえ」
「へえ、娘さんがいくつくらいの頃なんですか?」
「受験の歳だったんだよ。あの子ったら、受験に大事な夏だと言うのに神社にばかり」
「そうなんですか。確か、島の高校生は寮か何かに」
「よく知っているね。そうなんだよ。うちの子は夏休みの間はこっちに帰って来ててね。年始もそう」
懐かしむようにおばあさんは目を細める。
たぶん、いやきっとおばあさんの娘さんは翠に会ってたんだと思う。
どれくらい前の事なんだろう。
俄然気になって来た俺は、おばあさんに更なる質問を被せる。
「娘さん、その時はどんな感じだったんですか?」
「そうだねえ。神社に行くだけだと言うのに楽しそうだった……かねえ」
「そうでしたか」
「でも……」
「でも?」
「受験が終わって春休みに戻って来た時、酷く落ち込んでいたのさ。無事合格したというのに」
「……」
「あの時は相当ふさぎ込んでねえ。理由を聞いても教えてくれないし困ったもんだったよ」
「そ、そうですか……。何があったんでしょうね……」
そうか。春になるともう……翠の姿は見えなくなってしまうのか。
分かっていたこととはいえ、おばあさんの娘さんの話を聞くと実感する。
ん、待てよ。
お別れはたしかに辛いけど、数か月も落ち込むだろうか?
ひょっとして……俺は彼女と翠の間にあった酷く悲しい事実を想像して胸が痛くなる。
お別れならお別れだって翠も彼女に伝えたはずなんだ。それならば、彼女だって翠の姿が見えなくなる前にちゃんとさよならを伝えることができるはず。
少し寂しいだろうけど、区切りは付けられたと思うんだ。
しかし、翠にとって彼女は幽霊になって初めてのお友達なんだろう。彼女は一人だけお友達ができたって言ってたし、きっと彼女がそうに違いない。
高校三年生にだけ翠の姿が見えるってことも、彼女と接することで分かったことなんじゃないかな。
「おやおや。もう昔の話だよ。あんたが泣くこともないさね」
「す、すいません」
当時の二人のことを想起すると、自然と目から涙がこぼれ落ちていた。
俺は……俺はどうする? その時は必ず来る。
夏場だというのに長袖のセーラー服を着て佇む彼女と会えるのはこの時だけなんだ。
あんな風に物憂げな顔を浮かべて、俺が見えなくなっても彼女はこの島で……。
ってええ。
「七海さん……」
物干し竿にかかったタオルの横で艶のある黒髪を揺らすセーラー服姿の少女。
いつの間にそんなところに。
翠は俺と目が合うと微笑みを浮かべ、こちらにゆっくりと歩いてくる。
「おやおや、お兄さんどうしたんだい?」
「あ、いや」
おばあさんは相変わらずにこにことお茶をすする。
そうこうしている間に翠は縁側の前でしゃがみ込み、床をトントントンとリズミカルに三回叩いた。
何をしているんだろうと思い、翠の様子をじっと見つめてしまった。
おばあさんには見えないというのに……俺の動きは怪しいことこの上ない。でも、見るなってのは無理だろう。
「あらあら、お客さんさね。今日は来ないかと思ったよ」
「お客さん?」
おばあさんは両手を床についてゆっくりと立ち上がり、俺へ顔を向ける。
「いつもこの時間に来るお客さん。ここ二日ほど来なかったからどうしたんだと思っていたんだよ」
「七海翠さんが、見えるんですか?」
「おやおや、お兄さんは見えるのかい? そうかいそうかい。翠ちゃんと言うのかい。きっと女の子だと思っていたよ」
「おばあさんには見えないんですか?」
「そうさね。見えないよ。でも、そこにいることは分かるんだよ」
おばあさんは翠の方へ目線を送るが彼女のいるところとは目線が合ってない。見えていないってのは本当みたいだな。
そうか、翠は昼下がりにここにいつも来ていたんだ。
「お茶と羊羹を取ってくるから、しばらく待っていておくれ」
おばあさんは見えない翠へ向けていつもの調子で呟くと、引き戸を開けて奥へと向かっていく。
ぴしゃりと引き戸が閉じたところで、翠と目が合う。
「七海さん。まさかこんなところで会うなんて」
「わたしも驚いちゃった。九十九くんにも見えないように姿を消していたんだけど……あのお話を聞いて」
「おばあさんの娘さんのお話かな?」
「うん」
翠は動揺したら自分の意思とは関係なく姿を見せると俺は推測している。
だから、ここに来る前にワザとらしく恥ずかしいセリフを呟いたのだ。
「聞いてなかったの? その、娘さんから」
我ながら野暮なことを聞いてしまった……。親しい仲ならお互いの素性を知っていて当然だと決めつけてるように聞こえたかもしれない。
「うん。優ちゃんの家族とかお家の場所とかはお話ししていないの」
幸い翠は気に留めた様子も無く、懐かしい娘さんとのことを思い出してか頬が少し上気していた。
「じゃ、じゃあ。たまたま、おばあさんのお店に?」
「違うよ。わたしね。生きている時、おばさんに優しくしてもらったことがあるの。それでなんだ」
「庭からおばあさんを見守っていたのか」
「うん」
「聞きたいなあ?」
おばあさんと翠の間に何があったんだろう。悲しい話は聞きつらいけど、楽しかった話ならできる限り聞きたいんだ。
彼女のことをもっと知りたい。それが俺の正直な気持ち。
「うーん。聞いてもつまらないよ?」
「構わないさ。七海さんが嬉しかったことってのが大事なんだって」
「もう、九十九くんてたまにとっても気障だよね」
翠の頬に朱が指し、パタパタと自分の顔を手で扇ぐ。
た、確かに我ながら必死すぎて……俺の顔も熱くなってしまう。
「えっとね。お母さんが出かけている隙にね。お出かけしたの」
「うん」
「でも、港のところでクラクラ来ちゃって困っているところをおばさんが見つけてくれて」
「おお」
「それで、わたしの車椅子を押してお店の中まで連れて行ってくれてね。お茶までご馳走になっちゃった」
「おばあさん、よく七海さんを見つけたなあ」
「でしょでしょー。でもね、あの後、お母さんに怒られちゃった。勝手に出て行かないでって」
「ははは」
おばあさんとの心温まる体験より、俺は彼女が車椅子だったってことに胸を打たれた。
そうか、翠が離島に来た頃……もう彼女は一人で歩くことさえできないほどに衰弱していたんだ……。
「どうしたの? 九十九くん。また考え込んじゃって」
「あ、いや。そうだ。翠」
「んー?」
「思いっきり歩こうよ? ハイキングに行かない? どこかいい目標があればいいんだけど」
「うん! 楽しそう!」
「お兄さん、それなら、石碑はどうさね?」
おばあさんの声が割り込んできた。
い、いつの間に。
一人事を呟く痛い奴に見えてないだろうか。
いや、それはないか。おばあさんは見えない翠とお茶をする人なんだし。
「石碑ってどこにあるんですか?」
というわけで、俺は普通におばあさんへ言葉を返すことにした。
「ハイキングコースを調べてごらん。見晴らしのいいところだよ」
「はい。後でスマホで見てみますね。分からなければまた教えてください」
「うんうん。お兄さん、翠ちゃんはどんな子なんだい?」
「え、えっと……」
翠に目を向け、上から下まで彼女をじとーっと眺める。
「十七歳か十八歳でセーラー服姿の黒髪の美しい女の子です」
「おやおや。それはそれは」
「普段は凛とした感じなんですけど、笑うと可愛らしいんです」
あ、またしても口が滑って。
ギギギと首を回し、翠を見る。
ああああ、耳まで真っ赤になっているよお。これは後で追及されそうだ。
いい加減にしてくれよ、俺の口。
「あらあら。赤くなっちゃって。石碑までのデートを楽しんできなさいな」
「は、はい」
「今日はお兄さんとお話できてよかったさね。見えない翠ちゃんのことを聞けたからねえ」
「あ、あの。おばあさん」
「どうしたんだい?」
「あ、いえ、何でもありません」
つい、生前の翠について聞きそうになったけど彼女の前で聞くのはさすがに憚られる。
彼女がいない時、おばあさんのところへ聞きに行こう。
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