光彩は今もうつくしく

——ねえ、きこえる?

 だれかがぼくを呼ぶ声がする。目を覚まさなきゃ、と思うけれど、きもちがよくて起きられない。

「そこにいるの?」

 目を閉じたまま手を伸ばし、声にたずねる。何にもふれない指。怖くなって、再び手を引きよせる。

「うん、いるよ」

「ね、ここ、どこなんだろう。目を開いてるのに、ひらいてないみたいなんだ」

「こわいよね、でもだいじょうぶだよ、今は見えていないだけで、ほんとはとてもきれいなところにいるから」

「きれいなところ?」

 ぼくの記憶に刻まれたきれいなところが、ふっと浮かんでくる。路地裏をゆくと突然海が目の前に広がったあのまち。たくさんの人が眠る、光の粒をちりばめた夜。森の奥でよりそい眠るカブトムシ。一本だけはやく咲いてしまった桜。

「ぼく、きれいなところはすきだ」

「だったらきっと、ここも好きになる」

「ならはやく目を開けたいよ」

「そうだね」

 そういえば体を動かしてもベッドはきしまないし、だるさも眠さも何も感じない。

「本当はすぐにでも見せてあげたいんだけど、心の準備が必要だと思うんだ」

「心の準備?」

「そう。プールに入る前に、準備運動をする、あんなかんじで」

「ああ、それは確かに必要だね」

「まずはじめに聞くよ。きみは人がすき?」

「そりゃあ、まあ、すきだよ」

「たいせつなひとはいる?」

「うん、もちろん。離れるなんて考えられない、大事な人がいる」

「それって、どんな人?」

「ぼくの知る限り一番すてきな人。チョコレートと杏仁豆腐が似合うかわいい人だよ」

「どんなところがすてきなの?」

「ぼくが眠れないと、鈴のような声でうたってくれるんだ」

「ねえ、それ、本当に人かなあ」

「え?」

 ぱっと体を起こした、つもりだったのに、ぼくの体はそのままくるりと一回転してしまう。浮力がない水の中みたいな、夢の中みたいな。

「その人は、どんな花が好き?」

「かすみ草。淡くて白い色がいとおしいって言っていたよ」

「どんなことをするのが好き?」

「休みの日に、昼まで眠るのが好きなんだって」

 ふわふわと浮かんでいるみたいなぼく、それから頭の中もふわりふわりとやわらかくなっていく。大切な君の輪郭がぼんやりしていく。

「ねえ、それ、本当にいる人かな?」

「……」

「ところできみは、だれ?」

「ぼくはぼくだよ。堤防で寝転がるのが好き。六月のあじさいが好き。犬のいる道を通るのが好き」

「それ、本当にきみかな?」

「……」

 とじたまぶたを通して、あたりが明るくなっているのがわかる。浮かんでいた体は、絵の具がにじむようにまわりに広がって、境界をなくしていく。

「ここは、とてもきれいなところなんだよ」

「ぼく、きれいなところはすきだ」

「ゆっくりと目を開けて」

 ぼくの体がもうないことになんて、ちっとも驚かなかった。目の前に広がる青い光がすべてだったから。

「地球だよ」

「すごい。こんなに大きいのに、静かにまわるんだね」

「宇宙には空気がないんだ」

「地球儀とは全然ちがう、地球って生きているんだね」

「人が細胞でできているのとおんなじことだよ」

「こんなに美しいのを知ったら、だれだって守りたいと思うのに」

「そうしたら、それが当たり前になるだけだ」

「だけど、見せてあげたいなあ」

「誰に?」

「だれに?」

「誰に見せたいの?」

「たいせつなひとに?」

「大切な人って?」

「……」

 そっと目を閉じたけれど、ぼくの目の前には青い地球が広がったままだった。ここにいたまま宇宙の果てまで行けるということも、遠くの星々はぼくだということも、教えられてもいないのに全てがわかった。

「ねえ、誰に見せてあげたい?」

 広がるぼくの境界線と、その声の響きがぴたりと重なる。零コンマ二秒のあいだに、ぼくは聞いた。鈴のように澄んだ、うつくしい子守歌。

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