セイレーンのうたとねこ

 波が岩に当たる音にまじって歌声がきこえてきたので、いよいよ人魚にであえるぞと思ったら、ねこでした。

 わあ、うたが上手なねこだなぁ、と思って近づいたわたしを見て、ねこはたいへんえらそうに、

「きみはだれだね?」

と言いました。

「おうたが上手だと思って。おしゃべりまでこんなに上手だとは、思っていなかったけれど」

 ほめられたのが初めてだったのでしょう、ねこは舌を出してしきりに毛づくろいをし(きっと照れ隠しです)、秘密を教えてくれました。

「にんげんをのろいたくて、言葉とうたを練習したんだよ」

「ああ、それじゃあセイレーンみたいなものだね」

 海岸で出会ったねこが、結果的に人魚のようなものだったのですから、わたしはうれしくなりました。

 せいれーん? と首をかしげたねこは、また毛づくろいをしながら、「きみが知っているせいれーんが、ぼくの知ってるせいれーんと同じかわからないから、いちおう説明してくれたまえ」と言いました。

「セイレーンは、海のかいぶつだよ。人間の下半身がお魚なの。むかしは下半身が鳥だったらしいんだけど」

 ねこは目をきらきらさせ、下半身が魚なんてすてきだねえ、君もせいれーんになればいいじゃない、とうっとりしました。

「だけどギリシア神話でセイレーンは、美しい歌声をつかって船乗りを魅了するのよ。彼女のまわりは、魅了されたひとたちの骨であふれているの。その歌声を聴きたいと願ったオデュッセウスは、部下に自分を縛り付けさせるんだけど、声を聞いたとたんに縄を解けってさわいだらしいわ」

「ところできみ、やけにセイレーンに詳しいねぇ」

 ねこはおしりを高く上げあくびをしています。長い話に飽きたのでしょう。さびいろの体がこれでもか、とのびていきます。

「だって、セイレーンを探していたんだもの。まぁ、もう探す必要はなくなったみたいだけど」

 ねこは、はっとした表情でわたしを見ました。緑がかった目がまんまるく開いています。なんて察しがいいのでしょう。ねこは目を泳がせながら、ぼく、まだのろいのうたをうたえないんだけど、とつぶやきました。

 ということで、わたしはその日から、海岸に通うことになったのです。

 朝は「もう覚えた?」「むずかしくてまだうたえない」というやりとりを、夕方は「今日はあの子を殺したいと思った」「いそいでおぼえるからまってて」というやりとりを、なんどもなんども繰り返しました。だけど何日たっても、ねこはのろいのうたをうたえません。よほど難しいものなのでしょう。

 ある夕方、いつものように今日の報告を終えたわたしをじっと見たねこは、どうしてそんなにたくさんの人をのろいたいと思えるんだい、と尋ねました。

「ということは、ねこさんがのろいたいのは一人なんだねえ」

「まぁ、そういうことになるね」

 ふうん、と言ったあとは、しばらく波の音だけになりました。ねこが何を思っていたのかは知りませんが、わたしは昨夜の、おいしくないカレーのことを考えていました。

「ぼくはかいぬしだったひとをのろいたいんだ」

 ねこはひとりで話しはじめました。だけどわたしの頭のなかでは、鍋にのこったおいしくないカレーの山と、かばんの中に入ったびりびりの教科書がくるくるおどっています。

「ぼくのおかあさんが事故でしんじゃったのに、かいぬしはしたいを探しにこなかった」

 びりびりになった教科書を、カレーで直すことはできるでしょうか。いや、いっそ細かく切った教科書にカレーをかけてしまった方がたのしそうです。

「おかあさん、スーパーのふくろみたいなのにいれられて、もっていかれたんだ」

 じゃあ、今日はスーパーで手動のシュレッターを探してみようかな。そんなことを考えていたら、ちょっときみ、聞いている? とおこられてしまいました。

 ひとつき、ふたつきと過ぎても、ねこは一向にのろいのうたを覚えることができません。

「そんなに難しいうたなの?」

 まあね、と、きまりが悪そうに、ねこは目をそらします。実を言うとわたしは、ねこを疑っていました。だって、他のうたを歌っているのは見たことがあるけれど、のろいのうたを練習しているところは見たことがないのです。本当に難しくて歌えないのであれば、もっとたくさん練習するべきではないでしょうか。

 責められたねこは、観念したように話しはじめました。実はとっくに、のろいのうたをうたうことができるということ。だけど本当にのろいをかけてしまっていいのか悩んでいて、だまっていたということ。

 なあんだ、と思ったわたしは、それならはやく呪い殺そうよ、と言いました。ねこはうつむき、重たい足取りで、飼われていたときに住んでいたという家まで案内しはじめました。わたしはこののろいが成功した暁にはまず、あいつとあいつとあいつとあいつとあいつをのろってもらおう、ということばかり考えていました。

 ねこの様子は、歩いていくにつれおかしくなっていきました。道に立ててある看板を気にしています。ある家の前で動かなくなってしまったねこを見て、わたしは全てを察しました。そのおうちでは、お葬式がおこなわれていたのです。

「なあんだ、死んじゃったんだね」

 ねこはなにも答えません。ねえ、死んじゃったんだね。何度話しかけても反応がないので仕方なく家の中をのぞくと、遺影の中で老人が笑っていました。ふーん、かいぬしってよぼよぼのおじいちゃんだったのか。

 ようやく口を開いたねこは、つぶやきました。

「のろい、まにあわなかったなあ」

 そして、それはそれはきれいな声で、のろいのうたをうたいはじめました。母猫がビニール袋で連れて行かれた夜、かいぬしがうたっていたという歌。それは、モーツァルトのレクイエムでした。

 のろいを失ったねこに会うことは、二度とありませんでした。どこに行ったのかも知りません。だけど似たようなさび色のねこを見かけると、今でもつい「のろいのうた」を口ずさんでしまいます。

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