しあわせの群れ

「いつもあついね」

 目を閉じて空を仰ぐと、まぶたを通して太陽の強い存在を感じる。屋上のコンクリートは、じりじりと音が聞こえてくるくらいに焦がされて足に熱を伝える。

「涼しいとこに行かないの?」

 図書館とか涼しいよ、と言ってみても、君は静かに笑っているだけだ。柵に向かって海を眺める君がまんがやアニメのヒロインみたいだったから、僕もそれらしく寝そべってみようかとも思ったけれど、少しコンクリートに触れてやめた。こんなところで寝たら目玉焼きになってしまう。

 熱中症での死者も珍しくなくなった夏の日。いくら君だって、暑いにちがいないと思うけれど。

「はやくくらげの時期にならないかなぁ」

 飛行機が遠くの空を、音もなくわたっていく。僕の大好きな海が、すまし顔をしているのが見える。ずらりと並んだ色とりどりのパラソルや、シャチや浮き輪や県外のナンバープレートは、なぜか面白くない。はやくくらげがたくさん浮かぶ海になればいい。いくつもの夏を、そんな思いで過ごしてきた。

 君の制服のスカートはクラスの女子みたいに短くないし、なんの飾りもない長い髪の毛は無造作に風になびいている。だけど君は他のどんな女の子よりきれいだ。

「僕、今日はもう帰るね。また明日来るよ」

 黙って立ち去るのは気がひけるから声をかけるようにしているけれど、きっと君には聞こえてはいない。だまって重い扉を引くと、ぎぎぎ、と音が鳴る。閉める前にもう一度君を見ても、相変わらずこちらに背を向けて、海だけを見つめ続けている。ばたん、と扉を閉めてしまえばコンクリートの階段は薄暗い。ここに初めて来た時のことを思い出す。魂が抜けてしまったお母さんと二人で花火を見たのは、もう何年前になるだろう。

 夕飯は、チャーハンにした。暑いから、と素麺をゆでようとするお母さんを止めて、僕が作った。空気の冷えたリビングで食べるなら、さっぱりしたものより脂っこいものの方がおいしい。

「荷物。お義父さんたちに見つからないようにまとめておいてね」

 CMに切り替わったテレビから目を離さず、お母さんはつぶやいた。おじいちゃんもおばあちゃんもとっくに寝てるのに、見えない何かから隠れるように、ひっそりと。

 わかってるよ。そう答えた僕の声は、きちんと言葉のまま響いただろうか。本当はちっともわかってないって、お母さんは気付いただろうか。

 壁にかかったカレンダーの「六日」に、かすかな爪の跡。僕は、今年のくらげに出会えない。

 

「今日もいるんだ」

 手すりにもたれかかる君の背に声をかける。夏祭りの夜。海岸はちょうちんと、屋台の明かりでぼんやり照らされている。君はそれよりもずっと微かに、ぼんやりと光っているように見える。

 一瞬だけ涼しさを連れてきた風が、黒い髪をなびかせた。

「君に触れるんだったら、僕は風になりたいなぁ」

 これで本当は聞こえているなんていったら、僕は恥ずかしくて二度とここに来られない。君は横髪を細い指でかきあげて、僕はその仕草に心をわしづかみにされる。その髪は、肌は、まつげは、どんな触り心地がするのだろうか。たまらなくなって視線をそらすと、よそもの向けの顔をした海と目があった。

 お母さんに引越しを告げられたのは、本当に突然だった。「また二学期に」という言葉を残してしまった僕は嘘つきの裏切り者になる。最後のあいさつをきちんとすることも、お礼を言うこともせずに、僕たちは来週、この町から消える。まるであのときの父のように。

「どうして死んだの?」

 ずっと心にしまっていた一言がこぼれ落ちてしまったのは、もう会えなくなってしまうからだろうか。失礼だろうと思って言わないようにしていたこと。スカートから伸びる脚の向こうには、いつだって屋上のフェンスが透けて見えた。

「心残りがあるの?」

 一度こぼれてしまった言葉は拾うこともできず、かわりにぽろぽろとあふれだしてとまらなくなる。君の、半透明でもはっきり感じられる髪のつや、ほんのり赤い頬。死んでるなんて思えないきらめきで海だけを映す瞳、ゆび、腰、くちびる。

「僕といっしょに来てくれればいいのに」

 だけど僕が逃げる街に海はない。

 お父さんがいなくなった朝。僕も捨てられたということよりも、泣き崩れたお母さんを見ることの方が辛くてたまらなかった。

 いつも暗く後ろめたそうな表情をしていたお父さんが残したメモには、東京で人の群れに埋もれてしまいたくなった、とだけ書かれていた。死んでいるかもしれないし、新しい家庭があるかもしれなかった。

 頭のいいお母さんが本気で、東京に行けば見つけられると思っているとは考えられない。ましてや、連れ戻せるなんて。お母さんは、どこかで少しずつ歯車を狂わせている。捨てられた僕らを快く受け入れてくれたおじいちゃんたちを、今度は僕らが捨てるのだ。

 遠くを見つめる君も、誰かを探しているのだろうか。

 瞳が、かすかに揺らいだ気がした。初めて見る表情に心臓の音がうるさくなる。わずかに体を前のめりにし、目を凝らして遠くを見つめた君は、明らかに目の色を変えた。

 にぎやかな海岸の向こう、規則的に並んだブイのずっとずっと向こうに見える、水しぶき。

 それは、イルカの群れだった。


   *


 今夜の夏祭りも、あれ、来るかな。

 ね、イルカ。あたし最近彼氏とケンカしてばっかりだから、来てほしいなぁ。

 いっしょに見て結婚したのって、七つ上の先輩だっけ?

 ちがうよ、みっちゃん先輩の四個上って言ってたから、たぶん……

 恥じらいなく足を開いてイスに腰かける女の子たちの頭を、先生が教科書でパタンと叩く。

「うわさ話なら、休み時間にどうぞ」

 ばれたー、とケラケラ笑う派手な女の子たち。この子たちはきっと、イルカの群れなんかにすがるほど不幸ではないのだ。丸くなってしまった鉛筆の先にキャップをし、反対側のキャップを外す。視線が勝手にななめ前に向く。

 鉛筆の後ろをかじってしまうのは、小学生の頃からの癖だった。なぜ物を大切にしない、とおじいちゃんに怒られ泣いていたわたしに、「反対側も削っちゃえば?」と声をかけてくれたのが彼だった。それだけだったけど、それからずっと好きだった。

 飽きるほど見てきたうなじと少し癖のある髪。首の近くにつむじがあることに、彼自身気付いていなかった。生え際にホクロがあることにも。

 不意に彼が振り返る。ぱちりと目が合うと、目だけでにやりと笑った。

『なに見てんの?』

 いじわるを言われたような気がして、胸がきゅっとする。恥ずかしい。二人だけの秘密。

 休み時間だって放課後だって、わたしたちは言葉を交わさない。あの女の子たちみたいに、校内で堂々と手をつないだりキスしたりするなんて、考えられない。付き合っているなんて周りに知られたら、わたしも彼も、今以上にいじめられるだろう。

 薄暗くなった神社のはじっこ。通りから死角になった片隅で、手を重ねる。

「夏祭りの日に、イルカを見たいの」

 彼は少し笑って、いいよ、とつぶやいた。

 は、あぁぁ……う……

 耳元にかかる呼吸と漏れる低い声。吐き気がする。おぞましい重みに、いっそ気を失えれたらと思うけれど、意識はこんなにもはっきりしている。

 口まわりのひげと、生暖かい息が気持ち悪い。

 さっきはさみを入れられたわたしの服はあんなに遠くにあるし、屋上は絶望的に暗かった。コンクリートに当たる頭が痛い。無理やり開かれた足が痛い。心が痛む余裕もないくらいに、体すべてが痛い。

 待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。きっともうすぐ彼が来てくれる、彼が助けてくれる、もうすぐ、彼が。そう思ってから、いったいどれくらい経っているのだろう。目の前の見知らぬ男は、いつ果ててくれるのだろう。

 横たわったままで視界に入るのは、おぞましい表情の男と、ちょうちんでほんのり明るくなった夜の空。あのちょうちん灯りがイルカを呼んでいる、なんてうわさを聞いたことがあった。ほの明るく安心する、ぼんやりとあたたかい色。抵抗する気力も失せて、からっぽになってしまったわたしを満たすあかり。

 本当は気付いていた。扉のかげに彼がいること。

 そうだよね、怖いよね。飛び出してきて助けてくれるのなんて、おとぎ話の王子様だけだよね。

 かなしくて可笑しくて、もうなんだかどうでもよくて。涙と汗とよくわからない汁でまみれたわたしの顔は、もう二度と彼に微笑みなんて向けられない。

「ころして、ください」

 激しい動きに言葉をつまらせながら、最後にそう願う。男はにやにや笑って、そういうのがすきなの、とつぶやいた。伸びてきた両腕がわたしの首にあてられて、ぐっと体重がかかる。苦しくなったら少しゆるめられて、また絞められて。ああ、しまる。男の口から漏れた言葉が、耳に届いた最期の音だった。

 あなたといっしょに、幸せの群れを見たかった。しずかに、ゆるやかに、意識は遠のいた。


   *


 澄んだ瞳からぽろぽろと落ちる涙には、そのイルカたちが映っているに違いなかった。僕のことは一度も映さなかった瞳が、ずっと探していたもの。遠くからでも、水しぶきに反射する光がきらめくのがわかる。

 哀しそうで、それでいて歓びに満ちている、見たことのない表情。彼女自身が光っているみたいだ、と思ったら、君は本当にきらきらと輝きだした。

 淡い水色が音もなく、君を足元から包んでゆく。まるでサイダーの泡のように、君のかけらが空に昇りはじめる。まぶしくて直視できないけれど、表情はすべてを受け入れたようなあたたかさにあふれている。

 ゆっくりと口をひらき、そして初めて、まっすぐ僕を見た。

「夢がかなって、わたしは幸せ。そう伝えてほしいの」

 初めて聞く君の声は抜ける空のように澄んでいて、その言葉でぼくは全てを察した。

 きらきらきら、と浮かび上がるかけらはもうほとんどが遠くの空まで散り、君だとかろうじてわかるのは頭の形だけになった。気持ちよさそうに、爽やかに、天を目指していくサイダーの泡たち。

 すべてが青空に消えたとき、屋上にいるのは僕だけになった。遠くの海のイルカたちも、いつのまにか姿を消している。僕のきらいな、すまし顔の海。

 しんと静まり返った屋上。二度とここには来ないだろう。鮮明に思い浮かぶ君の姿が、鼻の奥をつんとさせる。絶対に見つけ出してやると、僕は心に誓う。

 ばたん、と音を響かせ大きく扉を開く。部屋に戻って、荷造りを始めるために。

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