第六章 明日笑顔でいるために

第35話願い

こんな事は、今まで無かったと思う。


濃い霧で満たされている世界に、私はいつも投げ出されて、漂うような感じだった。

だから、はっきりとみえた事なんて一度もなかった。ただ、何かを感じるだけだった。

一昨年おととしまでは。


でも、去年は違っていた。

十五歳の私の誕生日。そして、シロがいなくなった日。


あの時、私は夢の世界で戦うシロを感じていた。でも、はっきりとシロの姿を見たわけじゃない。ただ何となく、そう感じただけ。


白い翼が黒い巨大な塊に向かっていく。

何度も何度も、繰り返しぶつかっていく。

ただ、どれだけ白い翼がぶつかっても、黒い巨大な塊はびくともしない。

でも、どれだけ黒い巨大な塊が白い翼を捕まえようとその手を伸ばしても、白い翼は捕まらない。

それが繰り返されていた。


でも、やがてそれもおわる。

黒い巨大な塊から伸びた手に、白い翼は逃げられなくなっていた。


そしてついに、その巨大な拳が白い翼を打ち付ける。


そして、白い翼は地に落ちた。


私が見たのはただそれだけ。

でも、あの白い翼がシロだということは、はっきりとわかっていた。


でも、今年は違う。全然違う。


だって、そこにはクロがいた。目を開けた時、すぐそこに。


その一瞬、クロと目があった気がした。しかも、『見ていろ』と言われたような気がする。


その瞬間、私の視界は一気に広がっていた。色んな物が流れて見える。


まるで私が、急に後ろに引っ張られて飛んでいくみたい。でも、怖くない。悪い気分じゃない。


そして、私は理解した。

ここは私が住んでる街であること。

それを空から眺めているようなものだということを。


ただ、ここは現実にある街と少しだけ違っている。


だって、誰一人生きている人を見ていないから。

そして、あんなところに黒い大きな山は無いから。


やがて、引き寄せられる力が弱まったように、視界の広がりは固定される。

私が今見ているところ。

それは今入院している病院の屋上から見る風景に似ている。


でも、そうじゃない。

屋上よりも、ずっと高いところから、私はこの街全体を眺めていた。


通っていた中学校。今の高校。なぎさの住んでいるマンション。あおいの家。そして、私の家がそこにあった。


誰もいない私の街。見ようと思ったところが見える便利な視界。浮いてる私。

その全てが『ここは現実の世界じゃない』と告げてくる。


何よりも時間が違う。


さっきお昼ご飯を食べる話をしていたばかりなのに、どこを探しても太陽がない。


まるで夏の日の夕方みたい。

ほんの少し前に夕日が落ちたような空。

西の空はまだ明るいのに、街はどこか暗くなりつつある時間。

さっきからそれがずっと続いている。


とっても不思議な感じ……。


そう思った瞬間、私の視界は最初に戻る。いつの間にか、またクロを見ていた。


その場所で、クロはいつもの姿でおとなしく座っていた。ちょこんと行儀よく、しかも尻尾をゆっくりと動かしている。


ただ、その顔はその巨大な黒い山をじっと見つめていた。


そして、その山は動き出す。それはやがて集まりだし、大きな人の形をとり始めていた。

ついにそれは、黒い巨人のようになっていた。


何だろう。その巨人を見てると、なんだかすごく嫌な感じがする。嫌な気分を集めたようなものに感じる。


その巨人が、いきなりクロめがけて拳を振り下ろしてきた。


『危ない!』

そう叫ぼうとしても、声が出ない。その時になって初めて、私は自分の体がないことに気が付いた。体の形には見えるけど、体じゃない。着替えたパジャマ姿だけど、体は透きとおっていた。


これってそうなんだ……。おばあちゃんが言ってたことは、本当だったんだ……。


そう思った瞬間、鳴り響く地響きに振り向かされる。


それはクロが戦っていたところから聞こえてきたみたいだった。


地面に倒れた黒い巨人。それにかぶりついているクロ。

見た目はなんだか肉食獣の食事風景みたい。でも、あの黒い巨人から受ける嫌な気分が減っていた。


やっぱり、そうだ。

なんだか怖いけど、これはクロが私のために戦ってくれているものなんだ。


あの黒い巨人が、私の病気……。


『勝てっこないよ。あんなの』

山のような巨人と小さな黒猫が戦っても勝負にならない。


でも、やっぱりクロはあきらめていない。それどころか、余裕を見せるかのように、私を時折見つめてくる。


体のない私をどうやって見つけるんだろう? ひょっとして、パジャマを見ているのかな?


本当、不思議だね、クロ。


クロに見られると、なんだか不安な気持ちが無くなる。

そういえば、もうずいぶんあの巨人がもつ嫌な気分も減っている。


『よからぬモノが集まって、しずくやまいを守っておるのじゃ』っておばあちゃんは言っていた。


私の中に流れる犬神の血。

その中でも魂憑姫たまよりひめの性質が、よからぬモノを引き寄せるみたい。だから、病気が良くならないと言っていた。


昔は、生贄にされてたその性質。

元々は、神様を降臨させるためのものだったその性質。


なんだか、恐山のイタコみたい。

最初聞いた時は分からなかったけど、あとでそう思った。

おばあちゃんにそう言うと、『昔の巫女はみんなそうだった』と教えてくれた。


ただ、その中でも私の力は特別だったみたい。

あの時聞いた犬神の里の伝承では、ハレー彗星にのってやってくる神様に仕える役目を持っていたとかなんとか……。


なんだか突拍子もない話で、全くピンとこない。けど、私の体質が特別なのは理解できた。

この眼と同じで、ちょっと人と違っている。そう思うと納得もできた。そして、時折夢で見る事を思うと、それも全部納得できた。


悲しい兄妹の物語。


もちろん嫌な事はたくさんあった。この病気にしてもそうだし、何となく察してしまうところも嫌だった。


ただ、嫌な事ばかりじゃない……と思う。

例えばそう、クロの考えていることが何となくわかる事とか?


今もそう。クロは私に見せているのだと思う。


病気の原因がわからない。

いつまでたっても、病気そのものが無くならない。


『小さい時はそれが悲しくて泣いたっけ……』

夜中に突然泣き出したこともあったかな?


そのたびにお兄ちゃんや、お父さんが悲しそうな顔になった。


ああ、私って何で生まれてきたのかな? 治らない病気で死んでいくために生まれたのかな?


そう思ったことは何度もあった。でも、私がそんな風にすると、みんなの顔が暗くなった。それがまた、悲しかった……。


だから、『もう泣かない』って心に決めた。


シロが来た時に、私はそう誓っていた。

でも、その後も色々泣きそうになることはあった。


偶然聞いた守護獣の事。

あの時は、シロにおばあちゃんが話しているのを偶然聞いてしまった。最初は猫相手に、『なんて話を聞かせるんだろう』と思った。

けど、シロも相槌を打って会話しているようだった。


あとは、お母さんとおばあちゃんが内緒で話していた事。


そして、あれほど約束したシロがいなくなってしまった事。


私、やっぱり死ぬんだ……。

その答えは、私の中から消えなかった。


だからそう思うと、泣かない代わりに『もう、どうでもいいや』と思ってしまった。

今でも時折、そう思う時はある。多分、それが私なりの抵抗なのかもしれない。


ただ、シロがいなくなったすぐ後に、クロが私の所に来てくれた。

シロの代わりじゃないけど、多分私はクロの中にシロを見ていたのだと思う。なぎさに言われるまで、そう思っていることも分からなかった。


でも、それでわかった。シロがいなくなった時、とても悲しかった。

シロがいなくなっても、私の中にシロはいた。


そして、私はいずれ死ぬ。それが現実。

でも、なぎさたちに、悲しい思いをしてほしくない。


だから、どうせ死ぬなら『きれいに死のう』と思った。

いつか私がいなくなったときに、みんなが悲しまなくてもいいように。


そして、私は私自身を消そうと思った。みんなの心の中から、自然にいなくなるように。雨あがりの水たまりが、いつの間にか無くなっているように。


でも、それは間違いだった。あの日、あおいが言ってくれなかったら、私は取り返しのつかない事をするところだった。大事な友達に悲しい思いをさせてしまっていた。


そして、クロが見せてくれた生きる意志と死の恐怖。


私の手の中で、クロの温かみが薄くなっていく感じがした。どんどんこぼれていく命を感じた。


怖かった。

悲しかった。

こんな事、やっぱりみんなに味わってほしくない。


でも、どんなに私を消そうとしても、私は人の心の中にいる私を消せない。


だから、生きようと思った。しがみついていこうと思った。

でも、体はそれを許してくれなかった。


だから、又私はあきらめかけた……。


でも、今朝見たクロはいつも通りのクロだった。


おばあちゃんがおかあさんと話していた守護獣の秘密。

病魔を倒せなければ、翌日に私は死ぬという事実。

病気が確実に体を蝕んでいることがわかる感覚。


そのどれもが私の気持ちを不安に染めていた。


でも、そんな私だったのに、クロはいつも通りだった。多分全部知っているクロがいつものクロだった。


そして、今クロが見せてくれているモノ。

あれほど巨大だったものが、もうずいぶん小さくなっている。


『あと一息。あと一息で勝てるよ、クロ』


でも何故か、クロは動きを止めて空を見ていた。


『なに? あれ……』


空に真っ直ぐ引いた黒い線。その真ん中から無理やり引き裂かれたように、空に大きな黒い穴が開いていた。


そこから滴り落ちる何かわからないモノ。とっても嫌な気分でおぞましいモノ。

どんどん落ちて、あの黒い巨人だったモノに集まっていく。


やがて、その穴が小さくなる頃、あの黒い巨人は元の大きさに戻っていた。


『ああ、もうダメだよ……。こんな繰り返しされては、クロがもたない』


でも、私の想像をクロは越えていく。黒い巨人の攻撃を、ひらり、ひらりと躱し続ける。

あれだけ戦って疲れているはずなのに。

あれだけ苦労して戦ったのが全部無くなって、元に戻ったのに。


『ねえ、クロ? どうして君は戦えるの?』


無駄だとわかってても、戦えるの?

頭の中はそう考える。でも、私はいつの間にか心の中で両手を重ねていた。


『勝って、クロ』


その瞬間、クロの体が眩いばかりの光に包まれていた。


でも、黒い巨人もそれを見逃さない。


まるでその光を飲み込もうとするかのように、黒い腕が伸びていく。黒い巨人の形が、腕だけになるように変化してクロを包む光を掴む。


(クロぉ―!)


その瞬間、私は私以外の声を聞いていた。誰かわからないけど、ここに私とクロ以外がいた。


ただ、その声の主を探すまもなく、光の爆発が視界いっぱいに広がっていた。


一瞬にして白い世界が広がり、やがてそれも薄らいでいく。

ただ、眩い光の中に浮ぶ、黒い人影を残して。


やがて光は集まって、見える景色は光が出来る前にもどっている。ただ、そこにいる人を除けば。


その人は手に青白い炎を帯びた刀を持っていた。

その人は夢の中で見た、あのお兄さん猫目九郎と呼ばれてた人の姿そのものだった。


でも、その顔はクロだった……。


『え!? クロ?』


その疑問をはらすこともできない間に、青白い炎を帯びた刀の一振りが、黒い巨人を二つに割る。

ぐらりと揺らぐ黒い巨人の上半身は、そのあと起きた青白い炎の爆発で燃やされていた。

後に残ったのは黒い巨人の下半身だけ。


『本当にクロなの?』


またあの口が大きく開き、中から嫌なものが降り注ぐ。でも、クロの炎はもっとすごい。何度となく黒い巨人が復活するたびに、それを焼き払っていく。


それが九回繰り返された時、黒い口は閉じていた。


ただ一人残された黒い巨人の顔の前に、クロがいつの間にか浮んでいた。


青白い刀を突きつけたクロ。


何か話しているのかもしれない。でもそれが何かわからない。


そう考えている間に、そこは青白い光の珠に包まれていた。

青白い光の爆発は、周囲を鮮やかに染めていく。やがてそれが収まった後、そこに黒い巨人の姿はなかった。


見えるのは、電柱の上で尻尾をパタパタと動かしている黒猫の姿。


『でも、ひとつだけわかったよ、クロ』


八歳の時から数えて、たぶん病気との戦いはこれで九回繰り返されている。最初はポチ。そしてシロが戦ってくれていた。そして今、クロが戦ってくれている。


『あと一回、頑張れってことだよね』

多分、クロはそういいたかったのだと思う。何度でも何度でも何時間でもクロは戦い続けてくれた。そして、もうダメかと思った事も、全部跳ね除けて勝ってくれた。


ありがとう。


また、『もうダメ』と思うかもしれないけど、私頑張ってみるね。


意識が急に遠ざかる。

この夢も、もう終わりを迎えるんだ……。


でも、わかるよ。クロが見せてくれたことは、全部私覚えてるから。


***


瞼に光を感じて目を開ける。

私はいつも通りに目を覚ます。


「あっ、クロ! やっとどっかから帰って来たと思ったのに、またあたしから逃げる! ダメだよ。しずくの所は起きてからでいいでしょ! 今はあたしがあったまる時間だよ! ぎぶ・あんど・ていく! そーし・そーあい。あたしとクロ。こら、まて!」


真っ先に聞いたのはなぎさの声。でも、それだけじゃない。周りから色々な人の声が聞こえる。だれも、悲しんでいない。みんなが、私は大丈夫だってわかってくれている。


クロが姿を見せてくれてるからなんだね……。


……ありがと、クロ。


でも、まだ誰も私が起きたことに気づいていない。

ただ、たぶん。

クロだけが私が起きたことに気づいている。


目の前にあるのは、見知った天井。そこにクロがひょいと顔をのぞかせてきた。


にゃーあ、にゃあ起きたか、泣き虫バカ娘

「くすぐったいよ、クロ。うれし泣きだからいいでしょ。舐めなくていいから」

「あっ!? ……おはよ、しずく

「うん……。おはよ、なぎさ


でも、その天井は今までと違って、とても明るく輝いて見えた。







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