第五章 決意のとき

第29話その日の朝

その日は、早朝から雲に覆われた空だった。


朝日はまだ昇っていない。だが、かすかに明るさは感じられる薄明はくめいの時。


冬の曇り空はただでさえ落ちてきそうな気配を漂わせているのに、この家の住人たちの顔がそれをより一層ひどく感じさせた。


リビングを出ようとするしずくかえでに、義守よしもりが慌てて声をかける。

だが、その後の言葉がうまく告げられない。

それでも黙って見つめるしずくに、何か言わねばと思ったのだろう。テーブルに手をつき、腰を浮かしたその時までは。

だが、そこから先が続かなかった。


――『誕生日おめでとうしずく』でいいだろうに。


だが、義守よしもりはうまく言葉に出せない姿をまざまざと見せつけていた。しかも諦め悪く、必死に何かを考えている。


でも、何も言えない。

まるで水の中から出た魚のように、口を動かし項垂うなだれていく。


しかし次の瞬間。


何を思ったのか、テーブルに頭をぶつける義守よしもり。ついに壊れたかと思ったけど、そこから真剣な目でしずくを見つめる。


そして、ようやく何かを絞り出したように、苦悶の表情で言葉を告げた。


しずく、ちょっと待ってくれ。一緒に行く。今から会社辞めてくるから、ちょっとだけ待ってくれないか」


――バカなのか? ふざけてるのか? 今日ほどコイツの頭の中身を確かめたいと思った日はない。

(まあ、バカだと思うよ。親バカだもん。でも、心配なんだね。誕生日に病魔に勝たないとダメだって事、この人達は知ってるもん)


――いや、義守よしもりはそれ以前にバカなだけだ。

(きびしいね、クロ)


今にも死にそうな顔の義守よしもり。おそらく、自分で何を言っているのかわかってないに違いない。そしてその隣では、似た顔が同じように並んでいた。


その様子を、少しだけ同情した目で見つめるかえで

普段ならスッパリと切り捨てる所だ。だが、その想いだけは分かるのだろう。二人に何かを告げてもらうように、そっとしずくの方を見た。


その視線に気づくしずく。順番にその顔を見つめていく。そこに母親がいて、目の前には父と兄がいる。その事をかみしめるかのように、しずくはそっと目を閉じていた。


しずく……」

まもるはそれまで何か言おうとはしていた。だが、うまく言葉にできないようで、苦虫をかみつぶしたような口元していた。そしてやっと出た言葉。

それはただ、しずくの名前を呼んだだけだった。


その声に目を開けたしずくは、一変してあの笑顔を作り出していた。


「お父さんも、お兄ちゃんも大丈夫だよ。大げさだなぁ。大丈夫。大丈夫。いつものように入院するだけだよ。今日はちょっと街を散歩したい気分なだけ。ほら、場所が変わると落ち着かないから、少し疲れた方がいいかなって……。じゃあ、行くよ。ほら、クロ。おいで。いくよ」


ひらひらと手を振って、一人で玄関に向かうしずく


届かない片手を伸ばして、小さく声を上げる義守よしもり

短く自らのふがいなさを呪うまもる


その二人に、小さく『じゃあ、いってきます』と告げるかえで


それぞれの思い描く明日。

そこにしずくの笑顔があるのか、とても不安な気持ちがこの家を押し潰すかのようだった。


「クロ。さっ、しずくが待っているわ」

にゃあさむいのは苦手なんだ


でも、ついて行く必要がある。ついて行くが、文句は言いたい。


――よりにもよって、こんな朝早くに出かけることないだろう? 病院の入院は十時からだと言ってたじゃないか。

(文句を言わない。しずくが言いだしたことでしょ? 『ゆっくりこの街を散歩してから入院したい』って。そのための早起きだよ)


――そうだ、しずく。この俺を抱っこしろ。こんな朝早くからこの鈴が鳴り響くと近所迷惑になる。

(もう、クロ。そんなはずないじゃない。早くいこ! ほら、しずくが待ってるよ?)


リビングを出る時に感じた、あの二人の死にそうな気配。

リビングの入り口で扉をあけ続けているかえでの横を通る時に感じた不安。

そして、しずくのこの行動。


この家の誰もが、最悪の事態を想定している。そして肩を震わすかえでは、いったんリビングに入っていく。


にゃあ! にゃあ!クソ! 不愉快だ!


――この俺は千年守護獣のクロだぞ? この俺がしずくを守ってるんだ。明日があるに決まっているだろう! 何の心配もない。


(無理もないよ、去年の事があるし。それに、秋からのしずくの状態もそうだし。この人達の気持ちもわかるよ? 犬神神社いぬがみじんじゃしずくが崖のすぐそばで気を失っていたこと聞いた時の義守よしもりの行動を思い出してよ……)


――あれを思い出すと、また義守よしもりの靴で爪を研ぎたくなる。義守よしもりの読む新聞を、片っ端からしずくの部屋に投げ込んでやりたくなる。なにが、『黒猫の祟りだ!』だ。お前は日本全国を走り回っているトラックにそう言って追いかけてみろ!


(クロがあまり邪険にするのもダメだと思うよ? 義守よしもりに何か恨みでもあるの?)


――ある。大有りだ。声を大にして言いたいほどだ。『玄関で足をきれいに洗ってから家に入れ』とな。俺はかえでにマットの上を通れと言われて、アイツが足を洗わないのが気にくわない。いっそのこと、切り落として入ってこい。あの臭い腐った雑巾が、アイツの通った後にこびりついているのにだぞ? 人間の鼻は床から離れてるから感じないだけだ。アイツが通った後に、亡者の群れ腐った雑巾がわき出て、漂っているんだぞ? 間近で絶えずアレにさらされる身になってみろ! 壁を使って移動して何が悪い!


(あはは……。また、かえでに怒られるよ? 鈴の音ですぐばれるしね。あの鈴、かえでが一番喜んでたもん。でも、私はそのにおいを知らないからなぁ。本当にそんなにくさいの?)


――感覚を共有してやろうか? 俺の嗅覚をお前に!

(いらないよ! やったら絶交! もう二度とお兄ちゃんって言ってあげない!)


――チッ! どいつもこいつも、わがままな奴ばっかりだ。


「どうしたの? クロ? なんだか機嫌が悪いみたい。鈴の音が乱れてるよ」

みゃあ! にゃあ!そうだ、だから抱っこしろ


(もう、クロはしょうがないなぁ。でも、なんでしずくはしゃがみこんでクロの目をじっと見てるのかな?)


――しらん。こいつの考えはさっぱりだ。


「クロは、いつものクロなんだね。そっか。そうだね。そうだったよね」


にゃーんいいから抱っこだ

「はい、はい。わかりました。クロのそういうとこ、あまり感心しないよ? でも、クロだもんね。残念だけど仕方ないよね」


――!?

(なに? どうしたの? しずくの胸、さらに育ってたの?)


――ああ、そうかもな。

(なんだか怪しい。でも、よかったね、クロ。これでもう寒くないね)


――ああ、そうだな。

(もう! また話し半分しか聞いてないよ! でも、しずくの顔、ちょっと何か吹っ切れてる?)


――ああ、よかったな。

(もう、しらない! 私は寝るよ。おやすみ!)


片手で俺を抱き直すしずく。そして、もう片方の手を口に当てて、しずくは家の中にいる人達に聞こえるように大声を出していた。


「お父さーん。お兄ちゃーん。お母さーん。明日の晩御飯、クロの大好きなマグロにしてあげてー。お母さーん。先に一人で行くね。なぎさあおいに会ってくる! 心配しないで。ちゃんとここに帰るから!」


普段と全く違うしずくがそこにいた。


誰もがその声を聴いたはず。だが、普通じゃないしずくの声とその内容を理解するのに時間がかかったのだろう。


やや遅れて、慌てて駆け寄る気配。盛大に転がる音と共に聞こえる義守よしもりの声。

だが、その返事を待たずに飛び出すしずく


――やれやれ、アイツら渚と葵もたぶん起きてるだろうが、家の人には迷惑だな。だが、マグロはなかなかいい選択だな。

(どうしたの? 何があったの?)


――知らんよ。しずくに聞け。


空はまだ、分厚い雲に覆われている。

だが、飛び出したしずくの目の前にある東の空に、金色に映える雲が横たわっていた。

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