幕間

第28話抗う者

そこは、かつての面影を全く残していないといえるだろう。


春の訪れはまだ遠く、足音さえも聞こえない。耐え忍び、それを待ち望む森の木々は無残にも薙ぎ払われていた。

焼けた大地は、まだくすぶる煙を上げている。そして、あの洞窟の入り口には数多くの矢が刺ささり、無数の傷が刻まれていた。


それは戦いの残滓。だが、それはまさに生み出されていく。


その前で激しくぶつかり合う音。だが、そこには何者もいない。時折吹き荒れる風と砂埃が合わさり、そこで何かが戦っていることを物語る。


影が動き、風が周囲に吹き荒れる。


もはやそこは人外の領域。

遠く取り巻く兵士たちは、ただ茫然と見守るように突っ立っている。

ただ一人、その先頭で無言の威圧を放つ者を除いて。


浅黒い顔にぎょろりと光る双眸。隆々たる体躯と合わせて、いるだけで周囲を圧倒する。

その男が静かに見守る先に、影と影がぶつかり合う場が出来ていた。


何者も寄せ付けない空間がそこに広がる。いや、それだけでない。それは見ることも容易なものではなかった。


流影が二つ、重なるごとに火花散る。そのたびにおこる剣戟の響きが、周囲に大きく突き刺さる。

それは吹き荒れる衝撃の風。

まさに、吹き荒れる風を生む影のぶつかり合いだけが、無人の戦場の主だった。


だが、時折見える攻防もある。

残像を切り、残像が切られる。その時だけは、戦いの様子がわかるのだろう。小さいながら、兵士から歓声も起きていた。


そしてそれは、いたるところで繰り返される。瞬時にその場を変えながら。


しかし、どちらかの刃が届いているのだろう。巻き起こる風に血煙が混ざり飛び散っている。


いや、それは両方なのかもしれない。

いつ終わるとも思えない戦い。南中した太陽が半分傾いた頃から始まり、もう間もなく、日没を迎えようとしている。だが、この戦いに終わりは見えない。


しかし、そう思ったのもつかの間。


一際大きくぶつかり合った後、互いに申し合わせたように、二つの影が飛び退いていた。


その中心から風が吹き荒れ、影は二人の男となって相対する。

その二人の間に、静寂がそっと腰を下ろしはじめる。


だが、それを許さぬとばかりに、男の一人が語り始めた。


「ふむ、さすが猫目の鬼神化きじんかと言ったところですかな。東宮学士とうぐうがくし春澄善縄はるすみよしただ一子いっし春澄透水はるすみとうすい明王化みょうおうかと渡り合うとは。たしか名は、猫目九郎といいましたかな?」

烏帽子えぼし陰陽装束おんみょうしょうぞく春澄透水はるすみとうすいと名乗る甲高い声の少年が、手にした宝剣をつきだしている。傷を負いながらも、その顔に不敵な笑みを浮かべて。


「ふん、その傷だらけの姿でよく言う。それに長幼の序というものを教え込む必要もあるな。仮にも討伐しに来たんだ、相手の名前くらい覚えておくものだろう……」

鬼神の目、鬼神の角の姿の九郎。

忌々しそうに春澄透水はるすみとうすいを睨んでいる。

その姿は傷こそ負っていないものの、直垂ひたたれはすでに色々な場所が切り裂かれていた。


薄明はくめいの時を迎えても、二人の表情がまるで違うことはよくわかる。


余裕の笑みを浮かべる透水とうすいに対して、九郎はすでに肩で息をしていた。


「やせ我慢はおよしなさい。どういう訳で居場所を変えなかったのかは知りませんが、これは鬼退治です。私たちが、何の準備もなくここに来るわけはないでしょう?」

やや同情するような目つきで、春澄透水はるすみとうすいは語りかける。


「その洞窟を中心にして、すでに陰陽寮おんみょうろう鬼神きじん封じの結界を張っております。その中でそこまでの鬼神化きじんかするとは、本当にたいしたものです。しかし、それ以上は無理でしょう。さあ、そこをどきなさい。凶星がまもなくこの地に来ます。すでによからぬ者どもの跳梁跋扈ちょうりょうばっこは始まっています。あの姿を見た民は恐れおののくでしょう。帝も心を痛めております。大将軍の蝦夷平定から長く続いた安寧の世は長く続きました。しかし、その功績の大きい大将軍がいない今、民の不安は増すばかり。ここ数年、影響をうけた人の数は日ごとに増えています。そしてその心もまた、すさむ一方。そこに凶星がやってくるのです。その気配だけで、人々の心は荒れていき、邪気を生みます。その邪気がまた、人に良からぬことを起こさせる。全ては悪循環です。凶星そのものがやってくれば、魑魅魍魎ちみもうりょうがあふれだし、大いにこの世は乱れるでしょう。陰陽寮おんみょうろうに所属する者として、それは絶対に阻止しなければなりませぬ。さあ、早く道を譲りなさい。仮に私を倒せたとしても、あなたにあの方と戦う術は無いはずです。数多くの鬼を屠ってきた大将軍。その血を受け継ぐ、坂上雄達さかのうえのゆうたつ様と名刀騒速そはや真打しんうちを前にしては」

右手に持つ宝剣を下げた春澄透水はるすみとうすい。さらに左手を前にだし、その手を取るように表情を崩す。


夜のとばりが大地を覆う。まだほのかに明るい空を残して。


「何か勘違いをしてないか? いつ、この俺がお前らの言い分を聞く気になったと思ったんだ? 俺はただ待ってただけだ。この時が来るのをな!」


九郎が虚空を切り裂く刹那、うごめくものが生れ落ちる。

それは闇としかいいきれないもの。定まった形無く、あらゆるところでうごめいていた。

そして、九郎の姿を覆い隠す。


「なんと! この結界の中で鬼式神おにを呼ぶとは! そうか! おのれ! ぬかったわ!」

再び宝剣を構え、切りかかろうとした春澄透水はるすみとうすいの横を、信じられない速さの黒い影が過ぎ去った。


のがすか!」

その声と共に、真一文字にあたりを切り裂く衝撃波が生まれていた。坂上雄達さかのうえのゆうたつが放つ、名刀騒速そはや真打しんうちの一撃は、うごめくものを瞬時に霧と変えていた。


「申し訳ございません! 雄達ゆうたつ様! 結界の力を過信しておりました……」

「よい。深手は負わせていないが、手ごたえはあった。黄昏時たそがれどきをうまく利用したようだが、奴の力は制限された状態だ。そう遠くには逃げられまい」

抜いた太刀を、再び腰に納める坂上雄達さかのうえのゆうたつ。その目は、洞窟の方を見つめていた。


「ふむ、奴め。何か細工をしておったか。抜け目のない奴だ。陰陽寮おんみょうろうに使いを出せ。ここより通常の倍の式神しきを放ち、九郎と姫の行方を追え。九郎は手負いだ。奴の血を辿たどれ」

そこに何者の気配も力も感じなかったのだろう。坂上雄達さかのうえのゆうたつ春澄透水はるすみとうすいにそう告げると、自分の部下たちに号令をかけて帰る準備を始めていた。


それを見守る春澄透水はるすみとうすい。だが、言われたことを実行するため、自らの式神しきを飛ばしていた。


「猫目九郎。鎮護国家の役目を忘れ、身も心も鬼となるか……。哀れな……。そして、愚かものだ。るいは、一族に及ぶと知れ……」


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