第26話忍び寄る影

兄様あにさま、そのお姿……。どこか怪我をされているのですか? 大丈夫なのですか? 兄様あにさま……。もうおやめください。このような事を続けられては、本当に兄様あにさまが人の世に住めなくなります。猫目一族にもるいが及ぶかもしれませぬ。兄様あにさまがそのようなことになれば、わたくし養父様ととさまに顔向けできませぬ」

目の前の見えない壁結界に両手をつき、少女は懸命に訴えていた。


「大丈夫だ。怪我などはない。鍛錬のしすぎだろう。衣服が勝手に破れたのだ。お前は何も心配しなくてよい。それに、この猫目九郎。もとより、人の世になじめぬ者だ。多少荒事あらごとをしておるが、心配はいらぬ。些細な事だ。たしかに犬神いぬがみの里は滅び、犬神いぬがみの巫女の役目をできる者はお前しかいないだろう。だが、この世は広い。狐狸こりの里の者たちもいる。本気で探せば、巫女などたやすく見つかる。いや、すでに代わりの巫女は見つかったのだった。さっきその事を知ったばかりだ。ただ頑固者ゆえ、多少手荒に追い返したがな。だが、もうしばらくはそこにいてくれ。外に出たいかもしれぬが、耐えてくれ。そこは定められた時が過ぎねば出ることができないのだ。もともと、一族が修行で使う特別な所だからな。奥には行ったか? 庵の奥の扉は鍛錬場に続く道につながっておる。そこなら少しは広々としておる。まあ、多少なりとも気晴らしにはなろう。かつて俺も使ったところだ。それに、庵の中には食べ物も保存してある。といっても、干物だがな。それに目を瞑れば出られぬ以外、不自由はないはずだ」

烏帽子えぼしをかぶった青年が、少女と見えない壁結界――と言っても、光の加減でそこに何かあるのは見えている――を挟んで話している。

その顔は見えないが、その背中にはゆるぎない意志が感じられる。だが、その衣服には戦いの跡が刻まれ、しきりにその右耳をもてあそんでいた。


これは俺の記憶。あの光の一つ一つに、俺の記憶が入っているのだろう。俺の記憶があいまいなのは、こうして捕らわれているからか。


俺はまた、それを順に見せられている。

そして、これは四郎兄者しろうあにじゃとの戦いのあとだ。


過去の俺が結界の前に立ち、その内側にいるアイツと向かい合っていた。


「そのような事を申しているわけではありませぬ。兄様あにさま……。わたくしに何かお隠しなのではありませぬか? そのお姿はいかがされました? それに、兄様あにさまの嘘は分かると申したではございませぬか。兄様あにさまは嘘をおっしゃっています。何ゆえに、そのような嘘を……」

必死に告げるアイツの目に、涙が自然とあふれ出す。


「嘘か……。確かにお前の兄は嘘つきなのだろう。ばれてしまっては仕方がない。正直に申そう。実は少しだけ怪我をしておる。先ほどそこで転んでな。この洞窟は足元が悪い。だが、安心するがよい。お前が歩くときは、常にお前のそばにいる。お前を守ると言った事を忘れるなよ」

最後に右手を耳から離し、そのまま見えない壁越しに、アイツの左手に重ねていた。


見えない壁結界が一瞬揺らぎ、そこから光があふれだす。


「なりませぬ! 兄様あにさま! 怪我はされていないとはいえ、そのように力をお使いになってはなりませぬ。それ以上は、お体に負担がかかりすぎてしまいます! 何故なにゆえ、そこまでして結界を張り直すのです? しかもこの輝き、ただの結界とは思えませぬ。このような結界は私も知りませぬ。何か特別な意味効果があるのではございませぬか? そこまでする必要があるのですか? 何をなさっておいでなのです? 兄様あにさま、何かおっしゃってください! 何をお考えなのです? わたくしには、何も教えて下さらないのですか?」

左手をそのまま残し、アイツは右手で見えない壁を叩きはじめる。だがその間も、光が壁を覆っていく。


その光が収まる頃、アイツは叩くことをあきらめ、俺を涙ながらに見上げていた。

そして、俺も静かにそれを告げていた。


「お前は何も心配せずともよい。大丈夫だ。すべてが終われば、また静かに暮らせる。ここから離れ、東国とうごくに行くのだ。大将軍が平定したとはいえ、まだまだ未開の地は多い。さらに北の果てもあると聞く。そこなら朝廷の力が及ばぬ場所もあるだろう。必ず、静かに暮らせる場所がある。命ある限り、この俺が何度でもお前を守る」

兄様あにさま……」


アイツは左手に右手を添える。涙を拭おうともせず、伝い落ちる涙は地面を濡らす。

その姿に、俺が何かを言おうとした瞬間。俺はその気配に振り返っていた。


――そうか、この時か……。こうして客観的に見ればよくわかる。巧みに虚実を織り交ぜていたのか……。この時の俺は、その発動に気が付かなかった……。無理もないか。俺はこの殺気に気を取られ過ぎたのだ。周りを全く見ていなかった。だから、俺は敗れたのだ……。

だが、感傷に浸る間もなく、過去の俺は動いていた。


突然振り返った俺のつるぎが、それを確実に切り裂く。だが、そこに何者の姿はない。


「何奴!」

油断なく周囲をさぐる。その後ろ姿を、アイツは不安げに見つめていた。


「なるほど、やはり人ならざる者に身を落としたのか。兄妹そろって、人の世に住めぬ哀れな者ども。いや、妹の方は安心するがよい。天上での生活が待っておる。だが、哀れな兄は覚悟せよ。己が目的も果たせず、旅立つは修羅の世界。いや、伝え聞く所では――」

「だまれ、せろ」

俺のつるぎが頭上の闇を払う。


その瞬間、今まで響いていた声がぷつりと途絶え、闇の中から人の形をかたどった紙がひらりと落ちてきた。


「式神か……。いよいよお出ましという事か」

緊張を隠しきれない声。だが、何かに気づいたように、急いでアイツを振り返っていた。


兄様あにさま……。今のは陰陽寮おんみょうりょうの式神では? まさか、兄様あにさま? 『猫目の秘法』を……?」

アイツの目が、大きく見開く。その口元は、かすかな震えを帯びていた。


「何を心配している? 俺は俺だ。このような怪しげな術を用いる者のげんを信じるのか? 世迷言よまいごとにすぎぬ。お前の動揺を誘っておるだけだ。お前は何も心配しなくてよい。さすがの俺も、『猫目の秘法』は使えなかった。さあ、いおりに戻れ。俺は食料を調達してくる」

話しながら、少し乱れた烏帽子えぼしを正す。そしてそのまま少女に背を向け歩き出す。


その右手は、右耳に添えられたまま。

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