第21話迷子と黒猫

俺の目の前を、しずくがゆっくりと歩いていた。


真っ直ぐに舗装されている道ではない。だが、そこは人が通りやすいように、人が手を加えたあとがある。

誰かがどこかに行くたびに、下草を踏みしめ続けたことで出来た道。だから、そこだけがむき出しの地面となる。元々枝を避けてできているから、上を気にする必要もない。だから、そこを歩いていく限り、木々にぶつかるはずがない。


にもかかわらず、ときおりしずくは木にぶつかりそうになっていた。

考え事をしながら歩いているから、時折道を外れそうになる。

色々と話を聞いたから無理もない。


あの後も、犬神いぬがみヨシの話は色々と続いていた。


犬神いぬがみヨシに、どこかほっとした感じ・・・・・・・があったのは、自分が聞きたかった事が得られたからなのかもしれない。


犬神いぬがみヨシが語る、その話。細かく言えば、色々俺の記憶とは違っていた。

それは犬神いぬがみ一族の伝承だから、当たり前なのかもしれない。俺の知っている事でも、すでに千年以上時がたっているのだから、伝承が間違って伝わることもあるだろう。

でも、俺も完全に『俺の方が正しい』と思えなくなっている。


それに、俺もすべてを知っているわけじゃない。いや、知らない間に忘れている可能性もある。まだ思い出せないことがあるのだから……。


ただそれは、しずくにとって、興味をひくものではないようだった。


犬神神社いぬがみじんじゃの本殿を後にしたしずく。ゆっくりと、詣でる人のない本殿の正面へと向かっていく。


そして、自ら賽銭箱にお金を投じて手を合わす。

ご神体のない神社にもかかわらず、静かに何かを祈っていた。


すでに太陽は西に傾いている。


もう間もなく夕暮れとなるが、しずくはにじみ出る汗をぬぐっていた。あの洞窟は、天然の氷室のようになっているのかもしれない。あの場に長くいたことで、より一層暑さを感じているのだろう。


次の瞬間、しずくは何かを打ち払うように、柏手かしわでを打っていた。

ここに、まとわりつく邪気はない。だが、それはいいことだろう。


それを意識してたのかわからないが、間もなく逢魔時おうまがどきなのだから。


そして一礼して、本殿の短い階段を下る。

そのまま神社を背にして、暫らく空を仰ぎ見たあと、しずくは静かに目を閉じる。まるで時が止まったかのように、しずく身動ぎみじろぎひとつしない。


だが、ゆっくりとそれを取り戻すかのように、小さなため息を地面に落とす。

そのまま立ち尽くすように感じたが、しずくはしっかりと歩みだしていた。


全く何を考えているのかわからない。お前はいったい、何を願い。何を想う?


歩き出したしずくの足取りはしっかりとしたものだった。

すぐ脇にある犬神いぬがみヨシの家に戻るかと思ったが、しずくは真っ直ぐそこを目指す。


ちょうど犬神いぬがみヨシの家の裏手にある、山の中に入る小道。


子供の頃にしずくはここに来たことがあるのだろう。勝手知ったる何とやらで、しずくは迷うことなくそこに向かって歩いていた。


そもそも、犬神神社いぬがみじんじゃは人里離れて、山の中に立てられた神社だ。

だから境内を一歩離れると、そこは山の世界になる。


沢山の木々、生い茂る植物。それは、ここは人の住む世界ではない事を教えてくれる。当然、危険な場所もあるに違いない。


だが、しずくに迷う姿は微塵もない。そして今、その道を歩いている。


どんどんと、先に進んでいくしずく。その背中を追いかける俺。

どこに向かうのかわからないまま、やがてその場所は姿を現す。


しずくが急に立ち止まった場所。ひょいと覗くと、視界が一気に広がる場所についていた。


山の木々が途切れたところに、見晴らしのいい場所があった。


山の中で、遠くの山々を眺めることが出来る場所。

それは、木が生えることができない場所。

つまり、崖の上以外の何ものでもない。


確認したわけではないが、そこは危険な場所だと言えるだろう。


でも、そこはしずくにとっては秘密の場所なのかもしれない。


見晴らしのいい景色。

どこまでも遠く広がる空。

迫る夕闇。


人の営みを一切感じさせないその景色に、しずくは大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出していた。


しずくは、自然の息吹を取り込んでいる。

誰かに教えられたわけでもないのだろう。だが、しずくはそれを当たり前のように行っていた。


そして、そのままその景色に見入っている。


確かに超然とした世界は、人を引き付けるものがある。

何か思い悩んだ時に、人はそこに何かを求める。


それは俺も同じだ。

整理しなければならない。俺の過去の記憶も、しずくの事も。


その場でたたずしずく。だが、その背中はきっとまだ何かを隠している。


あの時、犬神いぬがみヨシに聞かれた時。俺はしずくに抱かれていたからよくわかった。


一瞬、しずくは身を固くした。それは、心を守る体の自然な反応だ。


あの時、しずくが答えた言葉。

それを聞いた犬神いぬがみヨシの『よかった……』という言葉。


その両方で、しずくの体は伝えてきた。その事実をこの俺に。


だから、俺は理解した。しずくは嘘をついている。


本当に……。本当に、しずくは生まれ変わりなのか?


――クソ! 何故だ? どうして思い出せない? 思い出せない、どうしても……。


アイツの名前を…………。


(クロ……。私ね……)

あおい? ……どうしたの?」


しずくがあげた驚きの声。アキハが何か言いかけたが、それはその驚きにかき消される。


しずくの視線の先にある場所。

それは崖の淵だった。


一歩進めば、死に世界につながるところ。そのギリギリのところで、あおいが遠くの景色を眺めていた。


とてもはかない姿で。


こういう姿を見せる人間は、決まってよくない事をする・・・・・・・・


しずく……」

あおい、そこは危ないよ。こっちに来て」


しずくの小さな呼びかけに、あおいはゆっくりと振り向いていた。だが、しずくの手は、固く握りしめられている。


しずくは感じているのだろう。今、危険な状態なのだと。そして自分が動けば、事態がより悪くなることを。


一気に最悪の事態になることを。


しずく……。ごめんね……。迷惑かけちゃうね……」

あおい、何が『ごめん』なのかわかんないよ。迷惑って何かわかんない。だから、こっちに来て。お願い」


そこにいつものしずくの気配はない。

ただ、あおいを刺激しないように考えているのだろう。だが、しずくも子供だ。気持ちと体を、自分でうまく制御できないでいた。


たぶん、はやる気持ちがしずくの体を動かしたのだろう。それがしずくの意図しない事だとしても。


しずくの足が小さく前に一歩出る。


「こないで!」


その言葉に、しずくは瞬時に固まっていた。


無自覚の自分の動き。それに反応してでた、完全な拒絶の意志。


それまであおいしずくに向けたことのない、強烈な意志がそこにあった。


――これはまずい。まずいぞ、これは。

(でも、クロどうするの? あの子の邪気。相当あの子を侵食してる。本当に今まで自分だけで抑え込んでたの? こんなにも? でも、本当に? 何故? この私が気づかないなんて、おかしいよ。こんなんじゃ、私……)


――ああ、そうだな。お前は色々自分の事で手いっぱいだったんだろ? 何があったか知らんが、お前のせいじゃない。安心しろ。俺も気が付かなかった。あれはあおいが、その心の奥底に封じてあったモノだろう。だから、気が付かなかったことを悔やんでも仕方がない。今はそれを忘れて、前を見ろ。後ろを振り返って見ても、誰も助けられない。救えない。救われない。ついでに言うと、過去にお前が何者であったとしても、今のお前は、アキハだ。千年守護獣の管理者アキハ。この俺が唯一、そばにいることを認めた者だ。

(………………うん)


――よし、いい子だアキハ。あとで話は聞いてやる。好きなだけ話せ。だが、それは後だ。まず、あのバカ娘を何とかするぞ。もう、あれの時間になる。

(そうだね。でも、私の話はいつも後回しだよ。え!? クロ!? 動いて大丈夫?)


――よし、やっぱり見えてない。日没だ。今のアイツの意識は、しずくだけに向いている。俺もしずくの後ろにいたのがよかった。俺が黒猫なのもよかった。さすが俺。今なら、あおいに気づかれずに隠れて行ける。何せここは山の中だ。会話が聞こえなくなるが、仕方がない。最悪の結果を阻止する事が最優先だ。いくぞ。

(でも、それからどうするの?)


――当たり前のこと聞くなよ、アキハ。あおいが何をするかお前も分かるだろ?

(わかるよ。あの子の気持ちも知ってるもん。しずくの考えも分かってる。でも、でも、だからどうするのって聞いてるの!)


――もちろん助ける。

(だから、クロは猫なんだって。どうやって助けるのか聞いてるの。まさかと思うけど、無茶なことするつもりじゃないよね?)


――お前は向こうに行って声を拾え。やはり会話が聞こえないとタイミングがつかめない。

(クロ! …………。もう、本当に無理しないでね……)


――善処する。だから、行け!


そうだ、隠してたんだ。もともと、あおいの性質はそうだった。ああは言ったものの、油断したのはこの俺だ。


あおいはため込んでいた。それが、ここにきて一気に自分に向いたのだろう。しずくと顔を合わすことによって。


前と同じように接してきたしずくに、『そうじゃなくなった』と思い込んだ自分を呪ったんだ。


そして、今という時間も悪い。すでに、逢魔時おうまがどきを迎えている。周囲の闇の気配に引き寄せられるように、あおいの闇の部分も深くなる。


たぶん、もう自分でも何をしてるかわからなくなっているのだろう。

どうしたいのかもわからなくなっているのかもしれない。

高校に入り、過去を振り返ることが多かったあおいにとって、価値あるものは『今』にはないのだろう。


だが、それは違うぞ、あおい


人間の運命は前に転がるようにできている。


道を外れることはある。

途中で止まってしまう事もある。


自分の望みにあわなくとも、生きてる限り前に転がる。

いい方にしても悪い方にしても、生きると言う事は前に進むという事。


無理やり後ろに行こうとしたら、そこに無理が生じてしまう。


しずく……。ごめんね。ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃないの。そんな顔で見ないで。もう、何をどうしたらいいのかわかんないの……」

あおい。とにかく、こっちに。こっちで聞くから。こっちに来て」

「だめなの、しずく。私はしずくに近づけない。しずくに近づいたらいけないの。おかしいよね。こんなの」

「分かんないよ! あおいあおいの言ってること分からないよ! 教えてよ。こっちに来て、教えてよ! ねえ! あおい!」


(あっ!? クロ……。あおいの顔つきがちょっと変わった)

――なに? もうすぐあおいの後ろに回れる。何がどう変わったんだ? 声は聞こえるとこまで来た。だが、あおいの表情は分からん。しずくもだがな。クソ! ここは下草が多すぎる。多少見つかる危険性はあるが、木をつかって飛び移るか?


しずくのそんな顔初めて見た……。そんな顔してくれるんだ。こんな私に、そんな目を向けてくれるんだ。心配してくれるんだ……。居たんだ、しずくの中に私。私ね。雫がどこかに行っちゃうんじゃないかって思ってた。しずくの中に、もう私はいないんだって思ってた。でも、違ったみたい……。よかった。しずくの中に私はいた。ほんの小さな姿でも、今のしずくの中に私がいる。でも、しってるよ。しずくはもう誰もその心に入れてくれない。私も、なぎさも。誰も、しずくの心に住んでいない。誰も入れてくれないしずく。そして、そのままどこか遠くにいっちゃうんだよね?」

「え!?」


(!? 急いで! クロ! この子危ない!)


「でも、ここにきて分かったの。今、ようやくわかったよ、しずく

「なに? 何を言ってるの、あおい! わかんないよ! 友達でしょ! あおい! なぎさもそうでしょ! 私達、ずっと友達だって言ったよね!」

「それはなぎさが言った事だよ。しずくは何も言ってない。ただ、笑顔でいただけ。だから私、不安だった。しずくの口からは何も聞いてない。高校生になって特に思うよ。でも、そんなのもうどうでもいいんだ。わかったから。しずくの中に、『私がいるかどうか』わからないから不安だった。でも、いた。いたよ、私。小さな私だけど、しずくの中にいた。だから、私は育てるね。小さいままじゃ、消えちゃうかもしれないから」

「わかんないよ! 何にもわかんない! あおいが何言ってるか、わかんないよ!」

「ありがと、しずく。私、今とても幸せ。たぶん、これだけしずくの心を独り占めできたのって、私くらいじゃないかな? 自慢できるよね。だからね、しずく。教えてあげる、私がすること。しずくがそうしようとしたことの逆のことだよ。ごめんね、しずく。でも、しずくの心に居続けるためには、『こうするしかない』ってわかっちゃった」


(クロ!)


「まって! あおい! 待って!」

「ごめんね、しずく。無理やりしずくの心の中に住みこんじゃうけど、許してね」

あおい!」(クロ!)「にゃん!バカ野郎!


クソ! あおいの奴。やっぱり身投げしやがった!


「え!? クロ!?」

(クロ!? ダメだよ! いくらクロでも、守護していない人間を助けることなんてできない! 運命の鎖が、クロをバラバラに引き裂いちゃう!)


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