第8話犬神の巫女と最上の鬼女

病室に入ってきた老婆。

だが、その人物は老婆という言葉の概念を、根本から覆すような者だった。


「お義母かあさん、わざわざ病院までいらしてくれたのですね?」


その来訪は知らなかったのだろう。ほんの少し、かえでは動揺を見せていた。


おそらく自分では気づいていないのだろうが、その声は少しうわずっている。


「よばれたから来たんだよ。まっ、それはアンタじゃないけどね。ああ。そういえば、知らせてくれてありがとよ。あのバカ息子は、このアタシに連絡もよこしやしない。どれ、そこをどいとくれ。そいつの顔。このアタシが見てやるよ」

小さく鼻を鳴らし、かえでを脇に押しやるようにして前に出る。


言葉よりも先に手が出る。


シロがこの体格のいい老婆に抱いていた感想はそうだった。


――最上もがみシズ――


よわい八十をすでに越えているにもかかわらず、かえでと変わらぬ背丈。しかも、横幅は二人分くらいあると思われる。

若いころは男を腕力でねじ伏せたという伝説を持つ人物。その雰囲気は、存在するだけで他を威圧するものがある。


――これが、最上義守もがみよしもりの実母。シロから得た情報より、実物はずっと化け物じゃないか。

(ほんとだね。まるで鬼婆だよ。でも、来るのってこの人じゃなかったよね?)


確かにそうだが、今この人物を無視できない。今この俺を凝視しているのは、そのシズなのだから。


ギロリとした眼。それはまるで不動明王のごとく、左右で開き方が異なっている。そしてその顔は、妙な威圧感を放ち続けている。


――まるで降魔ごうまの相と天地眼だな。そんな目で見たら、普通の動物は逃げるぜ、まったく。その辺にいる人間も含めてな。

(しかも、そのまま顔近づけてくるよ? どうしよ? ねえ、クロぉ~)


――怯えるな。こいつは、わざとこうしてる。いい度胸だ。千年守護獣の俺に対して、喧嘩をふっかけにくるとはな。

(なに? その余裕? もう、鼻がつくよ? そのまま噛んじゃえ! ひっかいちゃえ! 絶対、鬼婆おにばばだよ!)


「ほほう、やっぱりそういう事なんだね。アンタのいう事に間違いはないようだね、ヨシさん」

「当たり前だよ。伊達に、巫女を八十年やってないからね」


引き下がった最上もがみシズの横から、静かに答えながら姿を現す小さな老婆。老婆という言葉がふさわしい姿に、妙な安心感を抱いてしまう。


だが、油断なく俺をみるその眼は、不思議な色が浮かんでいる。


――確かに只者ではない。でも、この眼はどこかで……。


(クロ! この人ただの巫女じゃないよ! しわくちゃだし!)


いや、年齢もそうだが。

そもそも街中をその巫女装束でうろうろするところで、すでに只者ではない……。


「もう、お母さん。また、その恰好できたの?」

かえでや、人の見かけをとやかく言うんじゃないよ。これは巫女の正装だよ。誰に何と言われようと、文句言われる筋合いはないよ。言いたい奴には、言わせてあげな。第一、見かけで文句言われるなら、シズさんはおちおち街も歩けないよ」

「言ってくれるね! アタシの場合は、人が避けてくれるよ。耄碌もうろくばあさんにとっては歩きやすいもんだよ。シルバーシートじゃなくても、前に立ったらしっかり譲ってくれるしね。さっきもバス停で待ってたら、いつの間にか一番前になってたよ。世の中親切な人が多いって、街に出る度に実感するよ」

「そりゃ、便利だね。だから、シズさんの後ろは歩きやすいんだね。アタシにとっては、本当にありがたいよ。前の景色が一切見えないのが残念だけどね。シズさんの場合は、もうろくばばあじゃなく、モーゼばばあの方がいいだろうね」


――犬神いぬがみヨシが正しい。ただし、聖人としてじゃない。その体と眼力と雰囲気に圧倒されてるだけだ。


(でも、わかる気がするよね。何食べたらこうなるんだろ? この人、戦争の世代だよね? そういえば、息子の義守よしもりも大柄だったね。ひょっとして、しずくもこうなるのかな?)


――クマだな。絶対クマを食べてるんだぜ。ただ、しずくはこうならない。体を比べて見ろ、あれはどうみても母系だな。よかったな、しずく。だが、残念なこともある。かえでもそうだが、肉付きのよさは、犬神の血には期待できない。

(クロって、ホント見境ないよね? 相手はお婆さんだよ?)


――アキハ、お前は何か勘違いをしているぞ? 老婆といえども、俺を抱きしめる可能性のあるものだ。人類を二つに分けるとすると、を抱きしめる者と、抱きしめない者に分けられる。つまり、フカフカを『もつもの』と『もたざるもの』だ。その区別で言うと、老婆は前者だ。


(そうなの? そんなわけ方、初めて聞いた)


――革新的な俺の分け方だ。だから、俺は考える。俺は何より快適さを優先する。快適さと、胸の大きさは比例する。俺を快適に包むには、それ相応のモノが必要になるのだ! ならばこそ。この場合の序列は、最上もがみシズ、かえで犬神いぬがみヨシの順になる。この際贅沢は言ってられない。


――よし、シズ。今回だけ特別にこの俺を抱いて家に帰れ。

(もー。ほんと、クロはクロだね)


――当たり前だ。俺は俺以外の何ものでもない。って!? なんだ!?

(え!? クロ!?)


「こうやって首根っこもってぶら下げると、本当にアンタただの小さな黒猫だよ。守護獣の中でも、化け物のようなものかもしれないってヨシさんが言ってたけど、アタシはよくわからないね」

「間違いない、そいつは化け物だよ。たぶんシズさんよりも長く生きてるね」

「そうかい、そうかい。アンタから見たら、アタシは小娘ってわけだね。かわいいじゃないか」


なぁーんいや、それはない

「おや? 返事したよ。こいつはいいね。可愛いもんじゃないか」


にゃーん。なーん黙れ。俺をそんなふうに持つな。下ろせ

「なんだい? よっぽどこのアタシが、気にいったのかい?」


――くそ! 話しが通じない奴め! そんなわけないだろ。あと言い忘れたが、小娘という言葉に失礼だ。謝れ。土下座しろ! くそ! 離せ! 首をもたれるのが一番嫌なんだ! さてはお前、性別を今までだましてきたな! お前は『もたざるもの』だろ! 白状しろ! そのフカフカに見えた中身! さてはメロンだな? お前、お見舞いだから、メロンを買ってそこに持っているんだな!

(クロ……)


「おや、おや、可愛いもんじゃないか。久しぶりに母性がうずくよ。アタシはこの子を気にいったよ。どれ、ハグしてあげようかね。知ってるかい? ハグってのは、親愛の情らしいじゃないか」

「お義母かあさん、それはさすがに、死んじゃいます」

「その時はその時だよ。このアタシの胸と腕に包み込まれて死ねるんだ。楽園じゃないか。この黒猫も無事天国とやらに行けるだろうよ」


――いや、化けて出てやる。絶対に! って、化け物か! このババア。とんでもない怪力だ。くそ! この二つのメロンがじゃまで、全く動けない。

(だいじょうぶ? でも、クロ? それは快適なものじゃなかったっけ?)


――メロンだ! こんなのはフカフカじゃない! くそ! こうなったら。力を使うか。

(ダメだよ、人前だよ。それは私が許さないよ。えい!)


――くそ! お前も俺を拘束するのかよ!

(管理者だからね! ふふっ、えらいでしょ?)


「シズさんにしめ殺されるんなら、それまでの奴だね。でも、これでも正体見せないってことは、やっぱり伝説級の守護獣だろうね。多分管理者ってのが付いている。アタシにはみえるよ、ほんのりと光の鎖みたいなので締め付けられてる」


(あれ? みえるんだ? この人、すごくない? ひょっとして、その眼って?)


「そうなのかい? 確かにこれだけ締め付けてるのに、そろそろ死ぬって手ごたえをまったく感じないね。こんなのは、初めてだよ。もうちょっと絞めても大丈夫かね」

「そうだろうよ。でも、もういいよ、シズさん。離してやんな」

「そうかい? アンタの用事とやらは済んだんだね? ほら、ハグの時間は終わりだとよ。たっぷり味わったかい? アタシの愛情」

(じゃあ、私も)


――お前ら、あとで覚えてろ! もう、序列変更だ。かえでで我慢する! 犬神いぬがみヨシと最上もがみシズ! お前ら、圏外!

(私は?)


――自分の大きさを考えて言え。喰うぞ!?

(えー。なんだかのけ者だ!)


「これではっきりしたよ。シロの奴は喰われちまったのさ。この黒猫にね」

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