優越感

おったか

第1話 優越感

 朝、定期券で改札を通り、電車に乗った。毎朝同じ時間帯、同じ電車に乗るから、お互い名前は知らないがよく見る顔が多い。いつも音楽を聴きながらスマホの画面に集中する女子高生。いつも隣同士で座り、周りに聞こえる声で話す大学生風の男二人組。いつも端の席を確保し、タブレットで電子版の新聞を読むサラリーマン。

 彼らの何を知っているわけでもないし、何の愛着もなければ恨みもない。しかしなぜだろう私は彼らに対して否定的な感情を持っている。

 スマホに集中する女子高生を見て、無意識に高校時代の自分と比べる。私は朝早く学校に行って勉強をしていた。それに比べて彼女は時間を無駄にしている。勉強が嫌いで、おしゃれをして友達や彼氏と遊びに行くことだけを生きがいとしているのだ。きっと受験の時になって慌てて勉強をするもののうまくいかず、不本意な大学に行くのだろう。大学生の男二人は昨日のお笑いの番組について熱心に話している。誰がつまらなかったとか嫌いだとか。ずっとそれを聞いているとお前らのほうがよっぽどつまらないといいたくなる。自分に魅力がなくて友達もいないからいつも同じ二人でつるんで、あれこれ批判して気持ちよくなっているのは見ていて痛々しい。アイドルの話題にうつり、人気アイドルを名指しにして可愛くないという。人のことブスだとか微妙だなんて言うのは自分の顔を見てからにしろと言いたくなる。サラリーマンはいつも一番端の席にこだわるところや、タッチペンを使ってタブレットで新聞を読むあたりから、少し神経質でエリート気質であると思われる。こぎれいな髪型からしてもおそらく自分のことをエリートだと思っているタイプで、結婚はできないだろう。

 そんなことを考えているうちに、大学の最寄り駅について電車を降りる。この駅で降りるのは、ほとんど同じ大学の学生だ。関西で最難関といわれるこの大学の学生は、やはり勉強はできるが冴えない学生が多い。例外はいくらでもいるが、それでも多くの人が運動神経は悪く見た目は地味で、コミュニケーション能力にも乏しい。この大学のほとんどの人は私より見た目が悪いし運動神経もない。私は頭の良さだって負けてはいないし、コミュニケーションもうまく取れる。友達も多い。かわいい彼女もいる。そしていつもの言葉が思い浮かぶ。


「存在意義はなんだ」


私にあって彼らに無いものはこんなに多いが、彼らにあって私に無いものは、あまり思いつかない。じゃあ彼らの存在にどれほどの価値があるのだろう。

 教室についてから講義を受け始める。数学の授業だった。この授業は必修だから履修している人はもっと多いはずだが、実際に出席する人はその半分程度だろうか。そして出席する人の三割程度は気持ちよく寝ているし、起きている人だってほとんどは顔が死んでいる。そりゃそうだと思った。生徒だって受けたくてこの授業を受けているわけでもないし、教授だってやりたくて授業しているわけではない。教授は無言で教室に入ってきて、教科書を見ながら淡々と説明をする。同じ調子でずっとしゃべり続ける。この授業だけではない。大学に入って一番予想外だったのは授業のつまらなさだった。ひたすら考え事をしながら授業が終わるのを待つ。

 あと何分で授業が終わるのだろうか、時間を確認するためにスマホを見た。LINEの通知があった。知り合いの先輩からだった。「久しぶり。今日の5限におもしろい授業があるんだが、来てみないか?『障害者のリアルに迫る』っていう名前なんだけど」。授業の名前だけではどんな内容なのかわからなかったし、そもそもなぜそのゼミに私が誘われたのか不思議だった。でもちょうど5限は空いてるし、興味がないわけではなかったのであまり深く考えず、「行きます」と返事をした。

 授業が終わり、残りの授業も同じように何となく出席し、何となく説明を聞き、なんとなく終わっていった。4限が終わって、例の授業に向かう時が来た。どんな雰囲気なんだろうか。どんな人たちがその授業を受けているのだろうか。少し緊張しながら歩いて教室についた。広々とした教室に30人程度の生徒。自分を誘った先輩の顔も見えた。なんだ、普通の授業と変わらないではないか。緊張がほぐれた。

 椅子に座って開始を待っていた。しばらくして開始時刻になると、扉があいた。教授だろう。しかし扉は開いたものの誰も入ってこない。どうしたのか。車椅子が入ってきた。体が再び強張った。

 車椅子は見慣れているし、別に驚くことではない。でもそれはただの車椅子ではなかったのだ。乗っていつ人はけが人でも足の悪い老人でもなく、鼻に管を通して上を向いた男だった。40歳くらいだろうか。目は私たちではなく、斜め上をまっすぐに見つめている。

 すぐに理解した。「障害者のリアルに迫る」というのは、障害者を実際に呼んで、話を聞くということだったのか。


 今回呼ばれたのは田島祐樹さんという名前の人だった。彼はALSという障害を持っていて、身動きが取れない。脳の命令を筋肉に伝える神経細胞が侵食される難病だ。それも、先天的ではない。ある日突然でもなく、徐々にである。どちらが恐ろしいのかはもちろん私にはわからない。わからないが想像してみた。朝目覚めたら体が全く動かない。金縛りか?いやいつまでたっても動かない。だれか気づいてくれ。次は徐々に発病する場合を考えてみた。まず手足の指が動かしにくくなって、病院に行く。ALSだと診断され、今後さらに進行していくことを知る。肘から先が動かなくなり、 熱さも冷たさも感じない。次は足だろうか。歩くこともままならなくなる。いつの日かしゃべれなくなる日が来る。かといって家族といまさら何を話せばいいのだ。そこまでで想像を止める。あまりに恐ろしかった。

 目の前に横たわる田島さんからは、生気というものが感じられなかった。無表情に、ただ天井を見つめている。

 しかし。この病気で失われるのは体の動きだけで、脳の動きは何も変わらない。変わらないどころか、体が動かない分脳は爆発しそうなくらい活発になる場合もある。体がこの状態だと、意識ももうろうとして何も考えていないように見えるが、一切の自由を失ってしまったこの体の内側には、我々と変わらない一人の人間がいるのだ。余計恐ろしいと思った。

 田島さんはもともと会社の社長だったのだという。自分にも社員にも厳しく、周りに頼られる敏腕の持ち主だった。はきはきとしゃべり、後輩に檄を飛ばす田島さんの姿が頭をよぎった。この体の中に、この状態になった今でも、頭にはいろんな感情が渦巻いているのだろう。「もどかしい」という言葉では表しきれない、精神的苦痛があるに違いない。

 ALS患者に最終的に許される唯一の差身体的自由は、まばたきである。介護者に助けてもらいながらまばたきで一文字ずつ紡いで文章を完成させていく。「はじめまして」を言うのにも30秒近くかかるし、「のどが渇きました。水をください」というのに一分かけなければならない。そんなわけで授業といっても彼が私たちに投げかけられる言葉の量は限られている。

 田島さんが簡単な自己紹介を終えると、ビデオが流れた。田島さんの普段の生活の様子が映し出されている。買い越しは4人がかりで田島さんを入浴させ、服を着せる。ベッドに戻ると、管を通して栄養を摂取する。とにかく何をするにしても。大変な労力を要する作業だった。

 不謹慎ながら、あえて率直な表現をさせてもらいたい。「何のために生きているんだ」と思った。こんなことを思っている自分が怖かったが、そう思わざるを得なかった。なぜ死なないんだ。何人もの介護士が1日中大変な労力を費やすほどの価値が、彼の命にあるのだろうか。小学校でも家でも「命はなによりも大切」だと教えられてきたし、だれもが同意する常識であるに違いない。けれどこのビデオを見て、彼の生きる意味を疑ったのは私だけではないはずだ。もし私だったら、四人の若者の手を煩わせてお風呂に入るのは情けないと感じるし、何もできずただ呼吸をしているだけなら、死にたいと思った。

 ビデオが終わると、質疑応答の時間が来た。手を挙げ立ち上がり、勇気を持って訊いてみた。


「死のうと思ったことはないですか?」


 答えはまばたきによって介護者に伝えられ、それをまとめて介護士が私たちに読み上げる。しばらくの間待たなければならなかった。でも私の質問に対して田島さんは、考える間もなくすぐにまばたきを始めた。立ってまばたきが止まるのを待っている間。どんな答えが返ってくるのかと緊張していた。なんと不謹慎な質問だ、と怒ったりしないだろうか。二~三分経って、介護士が答えを読み上げた。


「症状が進行する間、何回も、何十回も自殺しようと思いました。けれど気づいたら自殺もできない体になってしまいました。まさに手遅れというやつですね」


 どう反応したらいいかわからず、立ち尽くしてしまった。なんと救いようのない答えなんだ。私だけでなく田島さん本人も自分の生き続ける意味を疑っていた。別の生徒が手を挙げた。


「ALSになってから、どんな心境の変化がありましたか」


 田島さんはまたすぐにまばたきを始める。こんどは三分ぐらい待っただろうか。介護士が読み始めた。


「ALSになる前は、仕事のことばかり考えていました。通勤するときも、早く仕事場につくことが何より大事でした。今になっても、もっと外の世界を感じておけばよかったと思います。日の光や風の感触、地面を踏みしめる足の感覚。発症前は考えてもいなかったような当たり前のことが、今ではとても恋しいのです」


 他にも何か言っていたのだが、すべては覚えていない。けれど、一つ一つの言葉が驚くほど心に響いたのを覚えている。膨大な量の思いと感情に対して、表現できるのはほんの少し。数えきれない伝えたいことの中から、選び取られた言葉だ

 気づくとあと十分ほどで授業は終了だ。最後の質問ということになった。手を挙げた生徒はこう訊いた。


「もし今、ALSを直して元の身体に戻ることが可能だとしたら、戻りますか」


 今度は、まばたきを始めるまでに少し時間がかかった。迷っているのだろうか。それとも答えは決まっているが、どう表現したらいいのかわからないのか。

 自分だったら、と考えた。自分だったらどうするだろうか。迷うことなく元の身体に戻るだろう。元の身体に戻って、外を思い切り走り回り、好きなものを食べたい。聞くまでもない質問ではないかと思った。

 「絶対に戻りません。戻りたくありません」


田島さんは答えた。


「ALSになって、最初は絶望と葛藤しかありませんでした。けれど今はALSにならなかったらできなかったことをやっています。いろんな所へ行っていろんな人にこの病気を知ってもらう。生きがいがあるのです。だから体の自由と心の自由、どちらかをとるとしたら、迷いなく心の自由をとります。しかしみなさんはどちらの自由もとることができるのですから、大切にしてください。どちらの自由も失わなくて済むように。一生懸命生きてください」



帰り道、改札を通って電車に乗った。いつもなら途中下車で急行電車に乗り換えるが、今日はそのまま各駅停車の電車に乗っていたい気分だった。

 彼と会うことはおそらくもうないだろう。そう思うといたたまれなくなった。別に、明日彼か私が死ぬわけではない。でもこれでお別れで、いつかどちらかが死ぬ。死別と何も変わらないではないか、と思った。彼だけではない。今電車に乗ってきた男とも、隣に座る女とも私が電車を降りたら二度と会うことはない。そう考えると、見知らぬ人たちが途端に愛おしく見えてきた。

 毎朝電車で乗り合わせる人たちを、どうして否定的に見ていたか分かった気がした。彼らと自分を比べて優越感に浸りたかった。本当は自分に自信がなくて、生きている感じがしなくて、とにかく下を見つけるのに必死だった。彼らを見下して、自分のほうがまだマシだって、自分はすごいのだって、思いたかった。けれど、私にとって彼らは人生の脇役でしか

ないけれど、彼らにとっても私は脇役に過ぎない。というか、そもそも登場していないかもしれない。

 私は、田島さんを見下していたと思う。体が動かなくなって、かわいそうで哀れだと思った。身体は動かず、言いたいことも思うように言えない田島さんと、思うままに走り回ることができて、毎日いろんな人としゃべり、やりたいことをできる私。でも、どちらが幸せを感じられているか。間違いなく田島さんだ。私は彼に負けている。人から見て私は多くのものを持っているし、羨ましがられる人間だ。けれど幸せだなんて思ったことはない。他人と自分を比べて一時的な満足感を味わってばかりで、幸せになれるわけがなかった。心を曇らせて、無意識の自己嫌悪を生むばかりだった。いろんな感情が渦巻いていた。

 気づいたら電車は家の最寄り駅に着いていた。イヤホンを耳にはめ、曲を再生した。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」。田島さんが一番好きだと言っていた曲だ。題名は知っていたが聴いたことがなかったので気になっていたのだ。アコースティックギターが物悲しげに鳴る。聞いたことのあるメロディーだった。歌詞は英語でほとんど聞き取れなかったが、なぜこの曲を田島さんは好きなのか、どんなところが好きなのか、そんな思いを巡らせているだけで感情があふれそうだった。

 ALSを発症した田島さんは自分の生きる意味を疑い、自殺を考えたものの、結果的に生き続けた。ALSを多くの人に知ってもらい、考えてもらうことを新たな生きがいにして、生きると決めた。そうして私と出会って、別れた。私は田島さんの生きた意味を背負っているのだと感じた。田島さんの生を無駄にはしたくないと強く思った。ボーカルの高い声が心地よかった。


 朝、いつも通り改札を通って電車に乗った。いつも通りの人の数で、同じような顔ぶれ。けれど見える世界は違っていた。女子高生は今日もスマホをいじっていたし、大学生二人組の話はつまらなかった。でもなぜだろう。彼ら一人一人を順番に抱きしめたかった。そうしてお互いのことを話して、一緒に笑いたかった。

 外を見ると空は青く、太陽は眩しかった。大きく深呼吸をする。それだけで気持ちよく、荷物の重みすら心地よかった。

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