第33話 黒崎寧音の変貌
「ねえ、淳二。今夜は、心霊スポットに行こうよ」
詩織は運転席の山田を促すように、その華奢な体を乗り出してきた。
「ちょっと止めてよ! 私が怖いの苦手だって知っている癖に、また私のことからかっている」
薫も、村井が黙って座る助手席の背もたれに、小柄な体を押し付けるほど前へ傾けながら、切実に反対の異を唱えた。
「いいじゃない。最近、薫は生意気なのね」
「どこが?」
「確かに、出会った頃とは別人だけどね」
山田も運転しながら、二人の会話に参加した。このまま二人の好き勝手に任せておけば、きっとまた言い争うになると思ったのだった。
「この人、猫被っていたのね」
詩織は、猫を真似て両手を胸の前に構えると、にゃんとおどけて見せた。
「私は前から、こんな感じだったよ。どこが違うの? 大人しいもの」
「はは。昔の方が、絶対大人しかった。まあ、怖い所に連れて行けば、少しは増しになるかもしれないね」
山田は、ほとんど冗談に言った。そうする気は毛頭無かった。
「そうかも」
詩織は、そう愉快に笑いながら答えて、また笑った。彼女は、案外本気なのかもしれなかった。
「止めてよ!怖い所だけは駄目。行かないでね。お願いだからね」
薫だけが怯えた顔で悲鳴を上げて、必死に二人に懇願した。
「お願いだってよ。えー、どうする? 詩織」
「どうしようかな。まあ、大人しくするなら、今日だけは許して上げるのね」
詩織はくすくす言って、体が震えるほどに笑いが止まらなかった。
「大人しくするから」
薫は、ようやく落ち着いて座席に腰を付けた。それでも、少し不満顔で黙って窓の外を見ていた。
「おい、村井! どうだ。村井、大丈夫か?」
山田は、先ほどから一言もしゃべろうとしない村井を気遣って、声を掛けた。村井はまだ落ち込みから、立ち直れないでいるらしい。
「もう諦めろよ。彼女は、ここには来ない」
村井は、何も答えなかった。が、山田には、村井が少し頷いたように思えた。
車は市街地を遠ざかると、いよいよ寂しい所を走った。次第に薫の口数が減った。詩織の望み通り、薫はすっかり大人しくなってしまった。
「怖い所は、駄目だって言ったのに」
薄暗い後部座席から、薫が小柄な身をごそごそしながら、怯えたように訴えた。
「大げさだな。いつも通る山道だよ。さっき心霊スポットだなんて言ったから、余計に怖く思えるだけだよ。気の所為だからね」
山田は、これまで薫に散々な目に遭わされてきたから、薫が弱っているところを見るのは、多少愉快に感じた。が、あまりやり過ぎるのも、可哀相だった。
その時、山田は急に車のヘッドライトの光に、人影が映り込んだのに恐怖を覚えた。それも、一瞬その影が黒崎寧音にそっくりだったのだ。彼は思わず叫び声を上げた。その影は次にはたちまち縮んで、小動物の姿に変わり、車の前に飛び出した。山田は息をのむ暇も無く、急ブレーキを掛けた。間に合ったようには思えなかった。
「淳二、危ないじゃない!」
詩織は傾いた体を起こす間に、山田の背中へ怒鳴った。
「やべー! 猫、轢いたかもしれない」
「ちょっと、本気なの?」
「猫は駄目だよ! 猫と蛇は絶対に祟られるって言うからね」
山田は青ざめたまま顔で、しきりに車の左右を見回した。道端の草木の生い茂っているのが、ヘッドライトの明かりに照らされて見えるだけだった。
「降りて、確かめてくる」
「止めてよ。こんな場所で気味が悪い」
詩織は、露骨に嫌がった。しかし、そういうわけにもいかない。もし轢いたのが黒崎寧音なら、尚更だった。山田は、一刻も早くその事を確かめたかった。
「だって。このままじゃ、気になるだろう」
山田がそう言って、おどおどした目を詩織から逸らした。彼女には全て見透かされているように、山田には思えて、振り向きもせずに車外へ飛び出していった。
山奥とあって、山田は車外で出ると、すぐ側に迫る暗闇にぞっとした。車の中と外では見える景色が、全く別のように思えた。山田はざわついた気持ちのまま、慌ただしく車体を確かめた。車のどこにも、何の異変も見つからないことを認めると、足早にそこを離れて、寂しい山道を引き返し始めた。山田の周囲は森閑として、彼がそこを歩く足音の他には、何の物音も聞こえないように思えた。いや彼が足を止めると、どこか森の中から草木の小さなざわめきが、絶えず付きまとうように感じて、背筋が凍えた。
山田は、この辺りだったといぶかりながら、執拗に暗い所へ目を細めていた。
「居た。やっぱり居た」
それは、黒崎寧音の姿ではなかった。一匹の小さな黒猫だった。暗闇と同化して、なかなか見分けが付かなかったのだ。黒猫は先ほどから、そこへ前足を揃えて佇んで、山田を見詰めていたのだった。山田は迷わず、黒猫の側へ近寄った。黒猫は、彼が手の届く所へ迫っても、逃げようとしなかった。黒猫は彼が近づくのを認めると、逃げる代わりに、口へくわえた物を、大事そうに地面に置いた。それを、手に取れとでも言いたげだった。山田は黒猫に従うように、それを拾い上げて驚いた。それには、覚えがあった。猫のキャラクターが可愛らしい、黒い安価なプラスチック製の髪留めだった。間違いなく、黒崎寧音の物と同じだった。
「君は、やっぱり黒崎寧音なのか」
山田には、そうだよと黒猫が答えたように思えた。
「どうして、そんな姿に?」
黒猫が、そっぽを向いた気がした。
「そうだね。ごめんね。僕たちが、全て悪いんだ。君がこんな姿に変わってしまったのも、そうして君の尊い命を奪ったのも、僕らの所為だ。謝ったって、許されることじゃないよね」
山田はそう言いながら、少し感傷的になっていた。が、黒猫はあまりその事には、興味を示さないようだった。
「これ、返すよ」
山田は黒崎寧音の髪留めを、黒猫の前に差し出した。が、黒猫はそれを受け取ろうとせずに、山田をじっと見上げて動かなかった。黒猫の瞳は、黒光りする宝石に似て輝いて、彼を見詰めていた。
「どうしたんだ?」
やっぱり黒猫は、彼を見たままだった。
「ああ、僕にこれを持っておいて欲しいと言うんだね」
黒猫が、ようやく山田に答えた気がした。
「君の宝物だからね。分かったよ。僕が大切に保管しておくよ」
黒猫が、不思議そうに山田を見上げた。
「どうして分かるかって? どうしても……。僕は、そんな人を一人知っているからね。でも、僕は彼女の大切な宝物を無くしてしまった。今度はきっと、いや絶対に無くしたりしない」
黒猫は、きょとんとして動かなかった。
「いいんだ。こっちの話だから」
「それで、君は……。寧音ちゃんは、これから帰る当てがあるの?」
猫は、じっとしていた。
「ごめん。そうだね。あるわけないよね」
山田は少し躊躇って、何か考えるふうにした。
「じゃあ、僕たちと一緒に来ないか?」
黒猫は、あまり気乗りしなさそうだった。
「村井たちには、君が黒崎寧音だってことは、黙っておくつもりだよ」
黒猫は、まだじっとしていた。
「詰まらなければ、いつだって車を降りればいい。一緒に行こう。きっと今夜は、楽しいことが起きるよ」
山田がそう言い終わる間に、黒猫は急に歩きだして、彼の脇を足早にすり抜けて行った。山田は多少落胆の色を顔に浮かべて、黒猫の後を目で追った。
「そうか。もう行くんだね」
山田がそう寂しげに呟くと、黒猫は急に立ち止まって、彼へ振り返った。
「あの、一緒に行かないのですか?」
黒猫が、はっきりとそう人間の言葉をしゃべったのだった。
「えっ! しゃべれるの?」
山田は、黒猫の側まで走り寄った。黒猫は、それ以上何も言わずに、すぐに彼に追い付かれまいと、逃げ出した。
「ねえ、もう一度しゃべってよ」
黒猫は、ぴょんぴょん飛び跳ねるように、更に勢いを増した。山田も必死に足を動かした。山田と一匹の黒猫は、彼の車まで追い駆けっこするように走った。それは、山田に取っても、恐らく黒崎寧音に取っても、楽しい駆けっこだったに違いない。
「じゃあ、僕が扉を開けるから、すぐに車の中に入って、身を潜めておいてね」
山田は、黒猫に耳打ちするようだった。黒猫は何も答えないが、了解したという具合に、山田の車へ迷わず一直線に駆けだした。
その夜のドライブは、彼らの想像を絶する出来事で一杯だった。が、それもまた黒猫、つまり黒崎寧音の安否に比べれば、ほんの些細なことに過ぎないだろう。
山田が車を止めて、白々とした外灯に照らされた、夜の駐車場を見渡していると、薄暗いアスファルトの地面を、黒猫が車道の方へ走っていくのが目に入った。
「誰か捕まえて!」
薫が大声で叫んだ。が、彼らの見ている前で、突然と現れた車に、黒猫の影は一瞬のうちにかき消されてしまった。黒崎寧音は轢かれたのか、山田の所からは判断が付かなかった。
当然、山田は気が気でなかった。あの時、黒崎寧音を彼の車に乗せなければ、こんな残酷なことにならなかったと後悔した。あんな無責任なことを言っておきながら、彼女をとんでもないことに巻き込んでしまった。その一方で、彼は黒猫の死骸も見つからなかったし、黒崎寧音は既に死んでいる身なのだから、これまでの詩織に起こった、数々の残虐な仕打ちの限りを鑑みれば、車に轢かれたくらいでは、彼女がどうかなったとは考えられないと、楽観的な想像にすがるしかないのだった。
その上、あの時なぜ黒猫は、急に車道へ飛び出して行ったのか、それも山田には不可解なことだった。別に不憫な猫の姿に成り果てたことに、黒崎寧音は気を病んで、走って来た車に飛び込んだとも思えなかった。いやその様な空想を思い浮かべることすら、山田には酷く不吉に思えた。心配ない。黒崎寧音は、きっと無事でいる。そして、また彼の前に元気な姿で現れると願うしかなかった。
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