第32話 村井の失望

 翌日の昼間、村井は大学には姿を見せなかった。それが、いつもの事だといえば、そうなのかも知れない。薫が居たときは、今もトランクの中で、吸血鬼のような生活を送っているが、何かと村井の世話を焼いてくれた。遅刻も約束をすっぽかすことも少なかった。それでも、黒崎寧音を誘うときは、少し遅れたとしても、アンティークの喫茶店には、必ず現れた。いやその黒崎寧音と楽しく過ごすことも消滅してしまった。その日は、山田は村井と昼間、会うことを決めていたわけではなかった。昨夜は、そんな気分にはなれなかった。二人の関係は、表面上は穏やかであっても、何か見えない所で不快なわだかまりが、くすぶっている思いがした。

 昨夜の別れ際も、村井は黙って車を降りた。山田も振り向きもしなかった。詩織は、あまり気に病んでも仕方無いのね、そう言った後には、後部座席には居なかった。山田は、代わりに薫へ、トランク開けなくていいのかと声を掛けた。

「面白いこと言うのね。あー、また私のこと馬鹿にしている?」

 薫が冗談のように、詩織の口調を真似して言ったのが面白くて、山田は少し心が和んだ。思わず薫を顧みると、後ろの席はもう空っぽだった。山田だけが、空虚な車の中に取り残されていた。

 山田は気分も足も重く、そこへ行くのが億劫になった。気付けば、彼はいつもより少し遅れてアンティークの喫茶店にたどり着いた。店内を眺めて、村井が一人奥の席に陣取っているのが目に留まった。山田は、別に遅れてきたわけじゃない。約束もしていなし、時間も決めていなかった。村井に謝る必要もない。彼はそんな事を考えながら、奥の席まで足を運んだ。山田はそこへ来て、先へ来てじっと何もせずに大人しく座った村井に、何て声を掛けようか躊躇った。それで、しばらく椅子に座りもせずに、立ったままになった。遅くなって悪いでもない。今日は、早かったなでもない。昼は、大学に行かなかったのかでもない。山田が、あれこれ頭を悩ます間に、村井が口を開いた。

「詩織はまだ来ないのかな」

 山田は多少拍子抜けしたように、ああとだけ答えた。

「詩織じゃないだろう?」

 山田は、今度は思い切って言った。

「そうだった」

 村井は、元気なさそうな声をした。

「今日は、来るかな?」

「こればかりは、分からないよ」

「そうだな」

「でも、これまで失敗は一度も無いじゃないか。薫だって、結局はトランクの中から出てきたわけだし、大丈夫なんじゃないか」

「そうだといいけどな」

 村井の返事は、至極短かった。山田の言葉には、希望的観測を含むところが多かった。しかし、だからと言って、何だというのだ。黒崎寧音が、詩織や薫のように、死にながらにして、二人の前に現れる。当然それは、本当に生き返るわけではない。何の問題も解決しないし、むしろ更に何か大きな災厄を抱えることになるだろう。山田はそんな事に思案を巡らせていたから、アンティークの柱時計の音に、思いの外驚かされた。

「今から、ドライブに行かない。――そんな気分でもなさそうなのね」

 山田が引きつった顔を上げると、そこに詩織が居て、悪戯っぽく、わずかに眉をひそめて見せた。山田は、やあとだけ返した。村井も、同じ事を言ったが、口ごもって聞き取れなかった。

「それで、これからどうする?」

「まあ、少し待って、それでも黒崎寧音が来ないなら、いつもの通りさ。ドライブにでも行こう」

「そう来なくっちゃ。どうにもならない事を、あれこれ悩んでいても仕方がないのね」

 山田は、詩織の笑顔を見詰めて、ようやく元気が湧いてきた。

 しかし、三十分待っても、黒崎寧音は現れなかった。それどころか、アンティークの喫茶店には、客一人入って来なかったのだった。

「もう充分よ。ここで幾ら待っていても仕方がないのね。出発しよう」

 詩織は、待つのにも退屈したというように言った。

「そうだね。薫のこともあるし、待ちわびているだろうからね」

 山田も席を立とうとした。村井が最後まで粘って訴えるような目をしたが、どうにもならなかった。その時、急に、わーと大声がした。山田は、呆然として動けなかった。村井は張り詰めた糸が切れたように、泣きだしたのだった。

「泣くなよ、面倒臭い!」

 詩織は冷淡に、村井を見下ろした。

「詩織、紙ナフキンなんか渡しても、そんなんじゃ役に立たないだろう」

「ありがとう。詩織」

 山田は、慌てて上着のポケットから探り出したティッシュを、袋ごと村井へ押し付けた。

「ちょっと、その顔。早く何とかしてよ!」

 二三分も経たないうちに、彼らはこそこそと逃げるように、アンティークの喫茶店から出て来た。山田の車へ乗り込んで、村井の涙もやっとかれていた。その間に、トランクの中で騒いでいた薫も出してもらい、後部座席に落ち着いた。が、薫の機嫌は、当然収まらなかった。

「面白い登場の仕方ね。薫が考えたの?」

 それを逆撫でるふうに、詩織がいつもの台詞を、薫に投げ付けて、澄ました顔で座っていた。

「あー、またそれ言った。あっ、やっぱり私のこと馬鹿にしている。今度で、何度目なの。そんなわけないじゃない。それで、今日はどうして遅かったの? 理由を聞かせてもらおうじゃない。えっ?」

 山田は仕方無く、薫の機嫌をこれ以上損ねないように、それまでのいきさつを話した。

「そんな計画を、私に断りもなくしたことに腹が立つ! お陰で、酷い目に遭った。私がどんな思いで、あの中に閉じ込められていたのか分からないでしょうね」

 山田は、とにかく謝った。ごめんごめんと言って、別に薫のことを邪険にしたつもりはないよと言い訳を連ねた。詩織は、いいじゃない。どうせ、あそこで呑気にいびきでもかいて居たんでしょうと、茶々を入れた。

「おい、詩織止めろよ!」

「あっ、またそれを言う……。それで、その女の子はどうなったの?」

「ご覧の通りさ。ずっと待っていたけど、アンティークの店には来ないし、車にも居なかった」

「じゃあ、もう来ないんじゃないの」

 薫は、山田に肩をすぼめて見せた。

「薫は見なかったか? トランクの中にずっと居たんだろう」

「居たよ。ずっとあんな暗い所で、一人閉じ込められていたんだから。でも、あんな所に、二人は入れないよ」

「そうだよね」

「それなら、それでいいじゃない。死体を隠す手間が省けたんだし、ちょうど良かったじゃない」

「手間なら同じだよ。むしろこっちの方が、余計に労力を費やしたくらいだ」

 山田が薫に答えると、急に黙ってしまったから、辺りが静かになった。が、その車内の静寂を埋めるように、今まで黙っていた村井が大声を出した。 

「そうだ。門限があるんだ。だから、もう帰ったんじゃないかな」

 それも、村井は余ほど得意になって、名案でも思い付いた口振りをした。

「帰るって、その子に帰る場所なんてないのね。私もだけどね」

 詩織の声は、寂しそうだった。山田は、そんな事考えてもみなかった。確かに、死んだ人間の居場所なんて、どこにも無いのかもしれない。それに、黒崎寧音が、自宅に帰ったとしても、家族は彼女を受け入れるだろうか。ひょっとしたら、黒崎寧音だと気付いてもらえないかも知れない。夜しか姿を現さない体になった、黒崎寧音は決して門限には間に合わなかった。黒崎寧音が家にたどり着いたときに、すっかり扉の閉められた自宅の光景を目の当たりにして、その前で呆然と佇む、彼女の姿が目に浮かぶような気が、山田にはした。

「僕は、詩織はアンティークの喫茶店に、住んでいるものだと思っていたよ」

「まさか。でも、誰かさんは車のトランクの中に住んでいるのね」

「それ、私のこと言っている? また私のこと馬鹿にしてる。そんな事ないでしょう。もういいでしょう。こんな所に、いつまで居たって無駄なんだから、そろそろ行こうよ」

「そうだね」

 山田は、黒崎寧音がどこかに立っていないかと、辺りをきょろきょろしながら、ゆっくりと車を走らせた。真っ暗な駐車場にも、大学を出た外灯の照らす歩道にも、黒崎寧音の姿は見つけられなかった。びゅーと車を加速させると、夜の町並みが勢いを増して、次々と後ろへと通り過ぎていく。もうこんなスピードでは、たとえ道の脇に黒崎寧音が立っていても分からないと、山田は思った。村井は、すっかりしょぼくれて、下唇を噛んだまま、窓の外ばかり眺めていた。

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