第30話 山田と強敵

 山田が、大学の西門近くにある古い建物へ足を踏み入れるのは、その時が最初で最後だった。山田が、これから訪れようとする英文学の教授室は、彼とは全く無縁な場所なのなのだ。

 彼は、詩織を捜し回る例の二人組の一人、大森慎太に先生から呼び出しがあった、と知らされた。山田は不審に思いながらも、その棟にやって来たのだ。大森慎太から教えられた、教授室はすぐに見つかった。棟の二階の右端だとその通りに、寄り道もせずに真っ直ぐ来た所が、その安沢教授の部屋だった。安沢といえば、詩織を捜している人物の一人だ。山田はその教授に、これからたっぷり時間を掛けて、詩織のことで根掘り葉掘りと問い詰められると考えると、気が重くなった。

 廊下に並んだ幾つもの扉は、しっかりと閉じられているのに、奥の教授室の入り口だけが開いていた。それが、また山田の不安を一層駆り立てた。罠を仕掛けて待ち構えている所へ、わざわざ足を踏み入れなければならない、馬鹿馬鹿しさがあった。喜劇やコントならまだ遣り甲斐もある。が、そうではなかった。山田は入り口の前に立って、入ろうかどうしようか迷っている間に、部屋の中から声が聞こえてきた。誰か居るのだろうかと、話し声に興味をそそられた。それは間違えだった。部屋には、恐らく安沢教授らしい人物以外、誰も存在しなかった。教授は窓際に、ペットショップに飾ってあるみたいな、小綺麗にされた水槽を前に、熱帯魚に餌をやっているのだと、山田は思った。安沢教授は小さなすくい網で、水面に白い腹を出して、浮かんでいる魚を、忌々しそうにすくい上げると、無造作に紙コップの中に捨ててしまった。

 山田は、嫌なところを見てしまったと後悔した。安沢教授も、不味いところを見られたような表情を浮かべて、山田を見つけた。初老の白髪交じりの、痩せた型の体で、ごつごつした頬骨の角張った細長い顔に、銀縁の眼鏡を掛けた安沢教授は、山田へ向けて急に指差すように、右手を上げた。たちまちその手を、くすぐるようにしならせ、部屋の中へ呼び寄せる仕草を取った。安沢教授は、山田が躊躇いながらも、ゆっくりそこへ近づく間にも、じろじろと彼を値踏みする目付きを見せた。山田は居た堪れなくなって、彼の方から、そこを訪れた用件と、自分から名乗ろうと口を開いた。が、安沢教授は上げたその手で、すぐに彼を制したまま、安沢教授自らつかつかと歩み寄って、そのまま山田の脇を通り過ぎてしまった。ガチャンと入り口の扉を閉めるのと、施錠する音が同時に聞こえたように、小さな図書室ふうの、部屋の中へ響いた。

 安沢教授は、何事も無かったふうに、再び山田に近寄った。

「君は? ああ、君かね。鈴川詩織くんと知人だというのは――あっ、君ね。それで、彼女は今、どこへ居るのだね? 当然、知っているのだろう」

 安沢教授の声は、講義をしているときと同じで、落ち着いた調子に聞こえた。それがかえって、山田を一層困惑にさせた。この安沢教授は、何を考えているのか、まるで掴めない気がしたのだ。

「どこに居るのかは分かりません。何か、彼女に用件ですか?」

「君が、一番の仲良しだと知らされているのだがね。君、ほんとに知らないの?」

 山田は、躊躇わずに頷いた。納得のいかない安沢教授は、何か思案するふうに、しばらく口を閉じて小さく唸り、頭を二三度傾けた。山田は、その沈黙が長くなれば長くなるほど、嘘がばれやしないかと不安が増してきた。

「もう一度、聞いてもいいかね」

 今度は、多少語気を強めて、安沢教授は山田に迫った。老人のようなしわがれた声とは違う、よく通る響きのある声だった。それでいて、年長者にある風格に似た威厳を感じられた。

「何度聞かれても、答えは同じです」

 安沢教授は、またしばらく無言になって、あれこれ考え事にふけていた。細く節くれ立った人差し指を、青く血管の浮き上がったこめかみに当てて、昆虫が節足を滑らかに動かすみたいに、その指を始終曲げたり伸ばしたりしていた。それが止まると、ゆっくりと顔を上げて、口を開いた。

「あっ、君ね。それなら、どうだろう。ちょっとね、君に頼みたいんだけど。鈴川くんを捜して、ここへ連れて来てくれないかね。どうだね。えっ? ――いやもちろん、お礼はするよ。ああ、一種のバイト代だ。まあ大した額ではないが、いやいや学生に取っては、充分過ぎる報酬を用意しよう。約束しよう。どうかね。引き受けてくれるかね。どうだろう」

 山田は、そう聞かされて、この安沢教授がますます恐ろしくなった。現金まで払って、詩織を連れて来させる。どう考えたって、穏やかなことじゃない。

「でも僕、本当に何も知らないんです」

 なかなか首を縦に振らない山田に、安沢教授は一瞬、眉をひそめて、刺すような視線を向けた。が、それも一瞬で、たちまち何事もなかったふうに、平静を装った。それでも、不機嫌を含んだ声で、ゆっくりと山田に言った。

「君の場合、どうも金銭的な問題でもなさそうだね。――友情かね。それとも。いや……」

「どう言う意味ですか?」

 安沢教授は山田には答えず、彼を忘れたように、つかつかとたくさん書籍の並んだ棚まで行って、分厚い本を一冊、人差し指に引っ掛けるように抜き出した。そうして、開いた本の中に顔を沈めながら、山田の顔を見ずに言った。

「もういい。用は済んだから、早く出て行きなさい」

 山田は、そんな安沢教授の不快な言葉でも、ほっとした。これで、無事にここから抜け出せることができると安堵した。

「失礼します」

 軽くお辞儀をした山田は、部屋を出る間際になって、安沢教授の声に引き止められた。酷くどきっとさせたれた。

「君、名前は何と言ったかね」

「山田淳二です」

「山田、やまだ、やまだ。君の顔と名前は、よく覚えておくよ。気を付けて帰りなさい」

 その時、安沢教授は手にした本を閉じて、初めて真面に山田の顔を据えていた。結局、最後は脅しだった。山田が部屋の外へ出て、廊下を逃げるように早足に去るときも、教授室から、山田、やまだと繰り返す声が聞こえてきた。安沢教授には、山田という平凡過ぎる名前が意外だったのだろうか。その声は、山田のことを取るに足りない人物だと、侮蔑するように聞こえた。

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