第29話 黒崎寧音と暗雲
詩織と薫の仲は、相変わらずだった。ときどき喧嘩もしたし、殴り合いもした。それでも、二人は仲良しに見えるから不思議であった。それでいて、彼ら四人の関係は、むしろ以前より良好になっているように感じられた。喧嘩するほど仲がいいというが、それが事実なら、彼らは本当の友達を得たに違いない。それが、死体であることも事実であった。良好にしろ、険悪にしろ結局、詩織と薫は同じ境遇なのだ。本当に彼女たちのことを、理解できるのは、二人だけなのだ。
しかし、詩織と薫の考えは、正反対だった。詩織は、まるで死んだことに自覚がないように振る舞う。薫に幾ら否定されても諭されても、死んでない、生き返ったのだと当たり前に言い張る。彼女の気持ちは分からないでもない。山田だって、それが本当だったら、どんなに嬉しいことだろう。それは、彼女が死を認めたくないだけで、死んだことは、薄々気付いているみたいだ。これに対して薫は、既に自分が死んだことを受け入れていた。死んでも尚、死に切れない亡者に似た体を惨めだと嘆いている。こんな体で、いつまでも死んでいたくないとまで訴えるのだった。それ故に、生前とまるで変わらない、楽観的な詩織の態度に、薫は苛立ちを募らせるのかもしれないのだ。
ところが、昼と夜とが対照的であるように、昼間の黒崎寧音とは、険悪な雰囲気になる一方だった。特に村井との関係だ。その時も、山田はただの傍観者に過ぎなかった。恐らく村井が、そうさせているのだ。山田には詩織が居ると、当て付けているのだ。もっとも女子高生の黒崎寧音と、彼らとは世代も違うし、話題も合うはずがなかった。幾ら何でも、そう簡単に友達なれるとはいかない。それに加えて、村井の横暴な振る舞いが、拍車を掛けている。村井は彼女に対して、何でもかんでも干渉し始めた。当然、それには黒崎寧音は不快感を表した。村井の態度は、明らかに度が過ぎている。次第に二人の言い争いが、山田の目に余るようになってきた。それで、村井はますます意固地になった。乱暴に怒鳴るときも少なくなかった。黒崎寧音は、それには全く屈しなかった。とても女子高生とは思えぬほど、毅然とした態度を取った。そればかりか、隙あらば村井に反旗を翻す姿勢を見せたのだ。
これには、流石に村井もたじろいだ。が、そうなれば、そうなるほど、村井は怒りの感情を爆発させるしか手段を持たなかった。
「駄目だったら駄目だ。駄目なものは、駄目に決まっている。そんなの理由なんてない。俺が駄目だと言ったら、絶対に駄目なんだ。それで分かるだろう。――どうして、僕の言うことが聞けないんだ!」
「私は、あなたの物ではないし、恋人でもない! そんな事まで、一々言われたくない」
黒崎寧音の言葉に、村井の顔は、ほんの一瞬であるが、憎悪の念を浮かべたように、山田には見えた。その時は、たまたま村井が下手に出て、猫なで声を使ったから、大事には至らなかった。が、村井がいつその憤怒を噴火させるとも、分からない状況に陥っていた。
「そんな寂しいこと言わないでよ。俺が悪かったから、謝るよ。謝るから、だからね。機嫌を直してよ。ねえ、寧音ちゃん」
黒崎寧音は、そんな村井の態度にも、曇らせた顔を背けたまま、眉一つ動かさなかった。村井が何と言い訳しても、完全に無視を決め込んでいる。こうなっては、殻に閉じこもった貝と同じ、どうすることも出来ない。困り果てた村井は、ようやく救いを求めて、山田にもへつらうような姿勢を取った。が、こっちだって困るというように、山田は苦笑いを返すだけだった。喫茶店のテーブルに置かれた、グラスの氷がカランと鳴った。どこか不安な響きだった。村井のグラスのコーラは、すっかり空になっていた。山田と、黒崎寧音の頼んだアイスティーは、少しも減っていなかった。小さな氷が溺れるみたいに、ぷかぷか浮んでいた。
黒崎寧音は、その凜々しい顔立ちに似て、どこか強情なところがあった。一度へそを曲げれば、頑として動かない性格だった。癇癪持ちに強情とは、あまり相性が良くないように思えた。
「私、そろそろ帰ります。――あっ、山田さん。ちょっと」
山田は、困惑する村井を一人席に残して、黒崎寧音を見送るついでに、二人で喫茶店の外へ出た。いつもは、強引にでも割り込む村井が、その日はしょげ返って、何も出来なかった。黒崎寧音は外に出ても、どこか思い詰めたふうに、唇を噛んだまま、俯いていた。暗い店内から飛び出した二人は、まだ少しも日の傾いていない大学通りの明るさに驚かされて、目を細めた。空には、薄い雲が掛かっていたのに、妙に明るく輝いていた。
「今日は、悪かったね。あいつも言い過ぎたと、反省しているようだから、許してやってくれ」
山田はいつの間にか、媚びのある目を、黒崎寧音へ向けていた。それでも、彼女は黙ったままだった。山田は何とも気まずくなって、何か言わなければならいと思うのだが、気の利いた言葉が浮かばず、気持ちが焦るのを感じて堪らなくなった。どうすればいいのか分からない。山田は、追い詰められたように口を開いた。
「それじゃあ、気を付けて帰ってね」
黒崎寧音は、山田がそう言い終わるのを待って、急に睨むほどの眼差しを返してきた。ようやく重い口を開いた。彼女の引き締まった唇が、初めて山田へ棘を向けたように思えた。
「山田さんからも、言ってもらえませんか。私、そろそろ限界なんです」
黒崎寧音の声は、断片的であったが、山田には彼女の言いたいことが、自ずと分かった。
「でも、僕の口からは、とても言えないよ。それに、僕が何と言ったって、村井は聞くはずがない」
山田はそう言いながら、こんな答えしかできない彼自身を情けないと思った。
「そうですか」
黒崎寧音は、沈んだように言って、また俯いてしまった。彼女の表情からは、山田の返事も想定内だったらしく思えた。大人なのだろうか。いや、彼女は彼女で、どこか精一杯に背伸びをしているふうにも見える。高校生と大学生では、全く世界が違っているのだ。すると、黒崎寧音は急に顔を上げて、多少落胆の色を帯びたその表情が、ふと雨上がりの午後に似て晴れ上がるのが、山田に分かった。その時、彼女に決意に近いものを感じ取った。その凜々しい顔立ちの中に、曇り一つない瞳が、山田ではなく、遙か遠くを見詰めてるようだった。この子は強いと思った。が、その強さは危うさを、はらんでいると、山田は心配になった。
「それでは、失礼します」
黒崎寧音は両手を前で合わせて、奇麗にお辞儀すると、ゆっくりと歩きだした。それが遠く離れて、小さくなった彼女が、急に振り返った。突っ立ったままの山田を認めて、遠慮がちに手を振る黒崎寧音の姿は、普通の女子高生と同じだった。
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