第25話 薫の出現

 翌日の昼に一度、大学で村井と会った。学食は学生で一杯だから、人混みを避けた。空いた講義室の席で、二人並んで座った。山田は、近くのスーパーで値引きされた菓子パンを囓った。村井は、大学の売店で売っているような安価な弁当の箱に、頭を突っ込んで貪っていた。村井はその日、食べるかしゃべるかで、やけに忙しくしていた。しゃべってないときは、それを埋めるように、よく食べた。心なしか村井の頬の辺りが、丸くなっていた。リスじゃあるまいし、そこへ食べ物を溜め込んでいるとも思えなかった。

「よくそれで持つな」

 村井は箸を休めずに、お数とご飯とを口に運ぶ合間に言った。その間にも、口の中の食べ物を、常に咀嚼するように口を動かしていた。

「僕は、昼はあまり食べない。村井はそんなに食べても、大丈夫なのか?」

「全然、物足りないぞ」

 そう言っているうちに、食べ終わった弁当を片付け、鞄の中身をごそごそ探して、巨大なメロンパンを一つ、嬉しそうに取りだした。昔の片思いの人に、街角でばったり出会ったような顔をした。その袋にも、巨大なという文字が印字されていた。

「これで、追い付いたな」

 村井は、山田の一口囓った丸いパンと見比べて笑った。山田のはメロンパンと形は似ていたが、メロンパンではなかった。厚いクッキー生地を載せて焼く替わりに、キャラメル色の甘い薄皮に覆われていた。

「競争しているんじゃないんだから、ゆっくり味わって食えよ」

「ちゃんと味は分かっている。ご飯はご飯の味だし、白身魚のフライは白身魚のフライの味だった。焼きそばは量が少なくて、味は覚えていないが、ちくわの天ぷらは、ちくわの天ぷらの味がした。メロンパンは、メロンの味はしないな。なぜだ?」

「そんなの知るか!」

 山田は、村井がメロンパンを食べ終わる前に、その夜八時半にアンティークの喫茶店に会うことを決めてしまった。。それだけ約束すれば、わざわざこんな無駄話をしなくても、用は足りた。山田は、村井と別れ際に、遅れるなよと言い掛けて止めにした。口うるさく言うのは、昼間の薫の口癖だった。山田は、なぜ急にそんな事を思い出したのか分からなかった。死んだ薫のことを気に病んでいたからか、それともあんな寂しい山奥に薫の死体を埋めてきたことへの罪悪感にさいなまれてか、それを思い出したのだろうか。山田も、少しずつおかしくなっている。彼は、掴みようのない不安に襲われる気がして、身震いをした。


「村井、遅いじゃないか!」

「悪い、悪い」

 村井は慌てて、大学近くのアンティークの喫茶店で、二十分以上待ちぼうけを食わされた山田の席に、やって来た。この頃は、夜風が大分冷たく感じられるというのに、村井の広い額には、大粒の汗を蓄えていた。村井は何度もタオルで汗を拭き取っていたから、いつも風呂上がりみたいに、前髪は濡れてくしゃくしゃにそこへ張り付いていた。

「詩織は来たのか?」

 二人で店の中を、きょろきょろ見回した。日暮れ時のような、ぼんやりとした暖色の電灯に映し出された、どこか中世の館に似た店内には、彼らの他に数人の客が、疎らに席を埋めて、物悲しく見えた。

「まだみたいだな」

「セーフ、セーフ。詩織に、置いて行かれると思ったぞ!」

「僕的には、アウトだけどな」

 山田は、それで随分と待たされたことを、咎めたつもりだった。村井は、誰も起こしてくれなかったから、寝坊したんだと、にやついた。

「いつもは、誰が起こしてくれているんだよ?」

「えっ! 居ない、居ない」

 村井の返事は、何とも歯切れが悪かった。山田には、大体の察しが付いた。それまでは、薫が何かと村井の世話を焼いて、遅れないように連れて来たのだ。そんな薫は、もう居ない。いや彼らの計画では、間もなくすると、薫はここへ出現する見込みだった。

 ボーン、ボーンとアンティークの柱時計が、不意に午後九時の鐘を鳴らして、彼らは思わず息をのんだ。山田は、安物の腕時計を覗いた。二つの時計は、ほとんど同じ時を刻んでいた。

「今から、ドライブに行かない?」

 快活な声がして、彼らの前に詩織が微笑していた。

「どうしたの? 二人とも浮かない顔して」

「やあ、詩織」

 村井は、媚びのある眼差しで詩織を見詰めた。山田も、やあとだけ返すと、辺りを闇雲に見回していた。店の中に変わった様子は見つからなかった。既に夕食の時間帯は過ぎていたし、あの鐘の音はファンファーレではないから、詩織の他には、登場する客も居なかったのだ。しかし、その夜、彼らが待ちわびていたのは、詩織ではなく、薫だった。

「薫は、一緒じゃないのか?」

 山田は焦る気持ちから、つい詩織にそれを尋ねてしまった。勿論、彼女の機嫌を損ねてしまった。

「何で、私が薫と一緒なの? 知らないのね」

「そうだよね」

「どうしたの? 今日の淳二、おかしい。ねえ、ドライブ行かないの?」

 そうせがむ詩織を、山田は何とかなだめて、喫茶店の席に座られた。それから、二十分ほど粘った。それでも、薫は来なかった。

「薫、現れないのね」

「失敗だ! 失敗だったんだ」

「フランケンシュタインの怪物じゃないんだから、失敗とか成功とかないだろう」

 詩織は、くすくすと笑った。

「もういいでしょう。薫のことは放っておいて、早く行きましょう」

 薫は一向に現れなかった。既に時計の針は九時半を回っていたから、それで諦めて、三人は店を出て車へ向かった。

 彼らが、型落ちした中古の白いファミリーカーの前にたどり着くと、どこからか奇妙な音が聞こえてきた。トントントンと、何か叩くようだった。それから、誰かの泣くような声も聞こえる気がした。

「薫だよ。薫の霊の仕業だ!」

 村井が、急に叫び声交じりに言った。

「まさか、あるわけないじゃないか」

 そう言った山田の顔も、凍り付いていた。

「どこか遠くからじゃないのか?」

 声はくぐもっていたから、離れているふうにも感じられた。トントントンと、また音がした。今度は随分と近い所からのように思えた。

「いや、車の中からだ!」

 山田は、車の中をそっと覗いて確かめた。車内には、誰も乗っていなし、怪しい人影も映らなかった。トントントンと、音がして、誰かが何か囁いている。

「なんまいだ、なんまいだ、なんまいだ!」

「止めろよ、村井。びっくりするだろう」

 急に村井が、手のひらを合わせて拝みだした。

「誰か助けて、ここを開けてよ」

 聞き覚えのある声だった。薫の声だった。

「おい、トランクの中だぞ!」

 山田がそう言うのと同時に、三人は互いに顔を合わせていた。しかし、山田は車のトランクの前に立っても、前日の薫の恨めしそうな顔が脳裏に焼き付いて、そこを開けるのを躊躇った。

「何か出てきたら、どうする?」

「何が出て来るって言うの。早く開けなさいよ」

 詩織は、すっかり怖じ気付いた山田を冷たくあしらった。間もなくトランクの中から薫は助け出され、彼らはようやく車内のいつもの席に落ち着いた。それでも、村井などは、冷や汗でポロシャツの襟元をぐっしょり濡らしていた。

「面白い登場の仕方ね。それ、薫が考えたの?」

 詩織が、顔色一つ変えずに言った。

「笑えないけど、冗談のつもり! 好きで、こんな事してるんじゃない」

 薫は、むっとして、その小さな顔のあちこちから、皮膚を集めたみたいに、眉間にしわを寄せた。車内が急に賑やかになった。どれくらい賑やかになったかと言えば、全盛期の詩織二倍ほどだ。その代わりに、二人のいざこざが絶えなくなった気が、山田にはした。何かに付けて、薫は詩織と張り合って、喧嘩になった。

「フランケンシュタイン、成功だ!」

 村井は急に何を思ったか、そう叫んだ。フランケンシュタインの実験は、あれは結局のところ失敗だったと、山田は思っている。薫の復活は、成功なのか失敗なのか、山田には分からなかった。

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