第23話 薫の誤算 

 薫、眠っているのか? 眠っているなら、早く目を覚ましてくれ。山田の心の叫びに反して、薫はそこで時が止まったみたいに、目を見開いて、目蓋を閉じていなかった。ぴくりとも動かない。息もしていなかった。肌の色艶が、次第に悪くなった。山田も、体中が冷たくなるのを感した。

「死んでいる」

 と、詩織の声がとどめを刺した。

「僕なのか? 僕が、また人殺しをしてしまったのか?」

 山田は青ざめた顔をして、体は痺れたまま、気が抜けたようにうな垂れていた。

「そうじゃないよ。事故だったのね」

 詩織が山田に囁くようにして、彼の肩へそっと手を添えた。

「詩織を死なせたのも事故、薫が死んだのも事故だと言うのか」

 山田は高ぶった感情が勢い余って、詩織の差し伸べた手を払うほどに肩を振るった。彼女の手が、躊躇い勝ちに引っ込められるのが、山田にも分かった。

「そんなに怒らないでよ。私だって困る」

「詩織、ごめん」

「謝らないで。全て薫が悪いのね。自業自得、それでいいじゃない」

 山田は、黙っていた。いつの間にか、彼らの周りを強い風が吹いていた。それが、薫の死体を中心に渦巻くふうに思えた。どこか死を連想させるふうに、不気味な風だった。

「おい。これから、どうするんだ?」

 薫をしばらく蔑むように、仁王立ちで見下ろしていた村井が、思い出したみたいに、こちらへ声を向けた。

「これから? ああ、死体のことか……」

「おい、しっかりしろよ!」

「ああ、そうだな。このまま、ここへ薫を放置しておくわけにもいかない。僕は、警察に正直に打ち明けるしかないと思うんだ」

 山田は村井に苦笑いを返してから、改めて覚悟したように言った。

「俺は嫌だ!」

「僕だって、嫌だよ。でも、こうするしか方法が無いんだ」

「詩織は、どうなるんだ?」

 村井は、ふて腐れた感情が唇を歪めていた。小さな黒い目が、山田を捉えて動かなかった。

「詩織は……」

「私? 私なら大丈夫。それに、薫は……。薫は、私のように埋めてしまえばいいのね」

 山田も村井も、詩織の提案に、驚いて思わず彼女を顧みた。詩織は生気の無い青白い顔で、じっとこちらを見据えていた。

「埋める? 埋めるって……。そんな事して、詩織は平気なのか?」

「平気、平気。別に淳二のこと恨んでないよ。私は生き返ったのね。まだ死んでない。だからいいの」

 詩織は、時には笑顔を浮かべて、平然とそんな事を言ってのけた。

「死んでない……」

 山田は途中で口ごもった。詩織は、まだ自分が死んでいないと思っているのだろうか。それが本当だったら、どんなに嬉しいことか。泣きながら、彼女に飛び付いて喜ぶのにと、山田は思った。

「よし、そうしよう」

 山田の決意と共に、詩織と村井も黙って頷いた。それから数分の後に、彼らは薫の死体を車へ載せた。どことも分からない、かつて詩織を埋めた山奥の斜面を目指して出発した。


「これが死んでいるの?」

 後部座席で、詩織がそれに話し掛けるように呟く声がした。

「私もこんなだった?」

 詩織は後部座席で、彼女の隣に寝かした薫の死体を、興味深そうに見下ろし、角度を変えて、眺め回していた。

「僕には、分からないよ。その時は、詩織を死なせたことで、頭が混乱していたし、何をやっていたのかも覚えていない。僕の代わりに、薫が運転をしたのも心配だったからね」

 山田は、当時のわずかな記憶を、手繰り寄せるようだった。その断片も、糸口もどこかへ置いてきてしまったふうに、ほとんど思い出せなかった。

「へー、そうだったの。知らなかった。――目は閉じているのね。さっきは開いていたけど」

「えー、何だって?」

 山田は、詩織の独り言のような声が、はっきりとは聞き取れなかった。もっとも後ろに構ってばかりも居られない。彼は、車の運転に注意しながらだったから、いい加減な返事をしていた。

「何でもないのね」

 詩織は、詩織で新しいおもちゃを手にしたふうに、薫の死体を扱っていた。山田は、ときどき詩織が子供のような単純で、純粋な疑問を投げ掛けてくるから、妙に気になってしょうがなかった。

「こんな顔していたんだ」

「どんな顔なんだ?」

「えー、死んだ顔」

「はあ? そりゃ、酷いな。あれだけ一緒に過ごしていたのに、薫の顔もろくに覚えていないのか?」

 山田の声は、詩織をとがめるといった調子は全く無く、むしろからかう程度に冗談が混じっていた。

「淳二は、覚えているの?」

「まあ、そう言われれば、自信は無い」

「ほらね」

 詩織の言葉は、こちらはすねたふうに、多少嫌みを帯びていた。山田が少しからかったのが、彼女の気に障ったのだろう。

「確かに似顔絵を描けとか、顔の特徴を尋ねられても、何も答えられないけど。まあ写真を見せられれば、それが薫だと判断できる。その程度のことしか記憶にないのかもしれないね」

「それなら、私だってできるのね」

「別に僕や、詩織や村井でなくても、薫に会ったことがある人物なら、誰にでも出来るだろう」

「そうかな。見たことはあっても、名前までは知らないと思うのね」

「それは、そうかもしれない」

 山田はそれなら彼自身も、薫と立場は変わらないと思った。大学の連中がどれだけ、山田の顔と名前を一致させることが出来るだろうか。顔に覚えがあったとしても、名前まで知る者は、ほとんど居ないはずだ。

 彼らは車を一時間ほど走らせてみて、山奥の斜面も探し回ってみたものの、以前に詩織を埋めた場所は、そう容易には見つかるものではないと悟っただけだった。それで、山道の途中で車を止めて、山田は外の景色を執拗に見回した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る