第19話 薫と屋根の上の詩織②
「薫、どこへ向かうんだ。危ないから、もう止めるんだ!」
薫は黙ってハンドルを握り締めたまま、何とも答えなかった。が、山田に反抗してか、車はいよいよスピードを速めた。まるで獣が激しく吠え立てるみたいに、ひっきりなしにエンジンが唸り声を上げ続けた。山田はその轟音に負けないように、目一杯に声を張っていた。
「止めろったら、止めろよ! 聞いているのか?」
山田の心臓を貫くふうに、タイヤの滑る音が鳴って、また車が急加速した。詩織は、未だに屋根の上から落ちて来ない。必死に掴まっているのだろう。ヘッドライトの眩しい光線に照らされた、わずかな世界の中で、目まぐるしく山道の景色が変化していくのが分かった。山田は凄まじい勢いの時の流れに、のみ込まれるような錯覚に陥った。どこを走って、どこへ向かっているのかさえ確かめられない。その恐ろしい潮流から、到底抜け出せないように思えた。
それから、しばらく彼らを乗せた車は、奇跡的に何事も無く、猛スピードで山道を駆け巡った後に、突然と速度を緩めた。薫がようやく正気を取り戻したのだと、山田は期待した。そう思ったのも束の間、前方に車が現れたのだった。薫はイライラしながら、前の車を追い越す機会を狙っていたが、狭い山道では、それも容易にはならなかった。薫は煽るように、前の車との車間を詰め始めた。
「おい、何やっているんだ。危ないじゃないか!」
薫の乱暴な運転に、怖じ気付いてか、すぐに前の車が左の方向指示器を点し始めて、道を譲るようだった。薫はそんなの待っていられないと言わんばかりに、前の車のすぐ脇を強引にスピードを上げて、抜き去った。それと同時に、更に車を加速させた。
「不味いよ。完全に見られたじゃないか」
山田は、まだ後方を窺いながら、運転席の薫に不安そうに言って、急に唾をのみ込んだ。口の中が、酷く乾いて仕方がなかった。
「そんな事は、今はどうでもいい事よ。あの女を振り落とさなきゃ、こっちが遣られる!」
「薫、冷静になれよ。詩織は、そんな酷い事はしない。知っているじゃないか」
今の薫には、何を言っても通じないと、山田は悟った。まるで何かに取り憑かれたみたいに、薫はハンドルを握っていた。一度走りだしたら止まらない、暴走車に操られいるみたいだった。また急に薫はハンドルを曲げて、それを戻すと同時に、アクセルペダルを踏み直した。車は彼女の体の一部になって、面白いように応えた。ブーンブーンとエンジンの音が、軽快に高鳴った。それでいよいよ薫は目を血走らせ、狂気に満ちた表情でハンドルを操った。
「このまま、地の果てまで走り続けるって言うのか?」
「それなら、それでもいい。あの女次第よ。あの女がそこまで抵抗するなら、どこまでも付き合って上げる」
「何馬鹿なこと言っているんだ。そんな遠くまで、走り続けられるはずがないだろう。そのうち帰れなくなるぞ!」
「それなら、こうしてやる!」
薫はそう叫ぶが早いか、行き成りブレーキを掛けた。タイヤがまた路面を滑って、闇をつんざくほどの悲鳴が起こった。
「危ない! 横転したら、どうするんだ」
「それなら、それでも構わない。でも、ぺちゃんこになるのは、あの女が先よ」
薫は間、髪を入れず右へハンドルを切って、車をUターンさせて車線を変えた。すぐに車は、先ほど走ってきた山道を、勢いを付けて引き返し始めた。
「どうするつもりだ。そんな事しても、無意味だと知っているじゃないか」
「そんなの試してみないと分からないじゃない。やりもしないで愚痴を言うなら、それはただの負け犬の遠吠えよ」
彼らを乗せた車は、追い風が吹き始めたみたいに、どんどんスピードを速めると、先ほどの道を一心に走り続けた。その車の屋根に、しがみつく詩織を載せたまま、高鳴るエンジンの轟きと、ときおりタイヤが滑る悲鳴とを伴いながら、猛然と夜の山道を疾走するのだった。その暴走は誰にも止められないように思えた。
視界が悪く、道幅も狭い、急なカーブの多いような走りにくい所を、車は走ってきたが、以前として、その勢いを少しも衰えさせてはいなかった。また急カーブに差し掛かって、薫は鬼のような形相で、強引にハンドルを曲げた。車がそれに応えるように、力強く車体の向きを転換させた。たちまち車のヘッドライトの光線が、すっと伸張して、視界が広がったふうに見えた。その時、突然正面からも同様の真っ白な光が射し込んできて、彼らの車を照らすように思った。一瞬、明るくなった車のフロントガラスに、汚れた赤い物がはっきりと映った。
「血よ、血! ガラスに血が付いている。あははははは……」
薫は急に大声を出して、高笑いを始めた。山田は、ぎょっとして体が凍り付いた。
「おい、不味いよ。今、対向車が見えたぞ!」
薫がフロントガラスに、詩織の血の痕を見つけたのと同時に、急に現れた対向車が、彼らの車とすれ違ったのだった。
「そんなのどうでもいい。あの女に一泡吹かせてやったのよ。どこを傷付けたのかしら? きっと心臓よ。胸に包丁を突き刺した穴から、血がどばっと噴き出したのね。それとも、あれだけ車が揺れたから、口からへどろを吐いたのかしら? 様あ見ろ! ああ、おかしい。今日は、なんて素晴らしい日なんでしょう。笑いが止まらない。あははははは……」
山田は、狂っていると思った。薫は、詩織に対する憎悪のあまり、正気を失って仕舞ったのだ。
「ああ、車を止めて、あの女の無様な姿を拝んでやろうよ」
薫は、こんな山奥の道なのだから、車は来ないと言って、平然と車道のど真ん中に車を止めてしまった。薫と山田、村井までもが、飛び出すように車から降りてきた。それが、どこを見回しても、車の屋根の上には、詩織の姿は見えなかったのだった。崖の方から、夜風が絶え間なく吹き付けてきて、薫の髪の毛を逆立てていた。それが、立ちすくむ山田や村井の体にも、乱暴に彼らを押し退けるように、ぶつかってきた。
「落ちたのね。どこかで知らないうちに、吹き飛んじゃったんだ。あの女の卑猥な格好がみられないのは残念だけど、いい気味!」
薫は高笑いこそしなかったが、まだ先ほどの高揚が収まっていないらしい。まるで子供みたいに、車の周りを踊ったり、飛行機の翼を広げるような真似をして走り回ったりした。
「詩織を捜さなくて、いいのか?」
山田はまだ車の屋根を眺めたまま、躊躇い勝ちに薫へ尋ねた。
「捜す? そんなの愚問よ。そこら辺で、轢かれた獣の死骸みたいに転がっていればいいじゃない。死体なんだから、あの女にはそれがお似合いってことよ。さあ、すっきりしたし、疲れも出たから、もう帰りましょう。じゃあ、山田くん。あとの運転はよろしくね」
「ああ」
山田は呆然とした表情のまま、どうにかそれだけは声を絞り出した。村井はただ独り、車が走ってきた道をたどって、詩織を捜すように、その影がどんどん遠ざかって行くのが分かった。
「村井、帰るって」
いつまでも諦めない村井を見て、山田は置いて行くぞと驚かすように叫ぶと、村井の影がしぶしぶこちらへ顔を向けたようだった。
「おーい、待ってくれよ!」
遠くで声がしたふうに聞こえて、暗くぼんやりとした村井の影が、慌てて走りだすのが、山田にははっきりと見えた。さっきまで吹き荒れていた夜風が、急に息切れしたみたいに止んでいた。道端の曲ったガードレールには、スピード落とせの甲板が完全に横に倒れ、太い針金で不格好に張り付けてあった。あんな無茶な走りをしてよく事故を起こさなかったなと、山田は身震いをした。
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