第18話 薫と屋根の上の詩織①
翌日、三人は車の中に集まった。詩織がまだ死体になってない頃からだ。彼らはときどきこうやって、車の中を喫茶店の代用にすることがあった。詩織はこんな殺風景な場所は嫌いだと、文句を言うが、大学の周りは昼時となれば、学生たちであふれている。詩織はともかく、山田も村井も、そして薫も例外なく人混みを好まなかった。他に楽しみの少ない彼らだけに、食事や談笑するときくらいは、ゆっくりと過ごしたいと願っていた。村井の場合は、急がされると、食べた気がしないという理由で、不満のようだった。
「もうあの女、放っておけない! これじゃあ、あの女を始末する前に、私たちの方がおかしくなる」
「おい、車の中だからと言って、始末なんて物騒なこと言うなよ。誰がどこで聞いているかも分からない。それに、声が大きいぞ」
山田は腫れぼったい目で、辺りを見回した。車の疎らに止まった大学の駐車場には、人影は見えなかった。そこは、建物から随分と離れていたから、あまり人気のない場所だった。
「それなら、窓閉めなさいよ。ああ、イライラする」
薫は、そう言いながら山田の顔を見ると、すぐ目を逸らして、何か堪えるようにした。彼女の肩が、小刻みに震えていた。駐車場の錆びたフェンスには、気味の悪い蔦が上の方まで巻き付いていた。そこを微風が吹き抜けたようだった。
「昼間は、まだ暑いんだよ」
助手席の窓が、半分ほど開いていた。村井はそこへ大きな体で、申し訳なさそうに座って、額の汗をタオルで拭いていた。汗はなかなか止まらないらしく、前髪がべとべとに額ヘ張り付いた、村井はしきりにそこを拭っていた。
「それで、昼間はどこに居るのか分かった? まさか車のトランクに隠れているんじゃないでしょうね」
「詩織が、そんな所に居るわけないじゃないか。第一、彼女にはそんな窮屈で、暗い場所は似合わないよ」
「山田くん! それ、私に当て付けて言ってるのね?」
薫は、また山田に鋭い視線を向けると、たちまち表情を歪めて、耐えられないように下を向いた。薫の小さな体が、何かの予兆みたいに震えている。
「違う。そうじゃない」
「私だって、嫌よ。そんな物みたいな扱い」
薫は、三度目に山田の顔を見たとき、とうとう吹き出してしまった。一度笑いだしたら、次々に笑いが込み上げてきて、止まらなくなった。村井は、山田を一瞥して気の毒な表情をした。
「山田くん、どうしたのその顔?」
「別に、地蔵に祟られたわけじゃないよ」
山田も、薫に釣られて苦笑いした。彼の顔は、左目が不格好に大きく腫れ上がって、それを間に合わせの白い眼帯で隠していた。物貰いになったのだと言った。笑い終わると、薫は眉間に皺を寄せ、また考え始めた。
「トランクじゃないとすると……。あっ、そう。車のトランク、トランクの中に閉じ込めればいい……」
「えっ、何?」
「いいえ。何でもない」
山田は思わず聞き返したが、薫が聞こえなかったと勘違いした言葉は、はっきりと彼の耳に届いていた。薫が名案と思う考えに、山田は呆れて返す言葉も無かったのだ。山田の目の腫れも、夕方には眼帯で隠さなくていいほどに引いていた。これで、詩織に笑われなくても済みそうだ。
その夜も、彼らは詩織の誘いに従って、ドライブへ出た。車は自然と人通りを避けて、寂しい山道へ向かっていた。もっともそれは、仕方がないことだった。詩織を人目に曝すことはことはできない。彼女と一緒に居るところを、他人に目撃されれば、厄介なことになる。詩織もその事で、不平を並べることはなかった。しばらく車を山道に走らせていると、不意に詩織が妙な事を口にし始めた。
「私の帽子知らない?」
山田と村井、薫の三人は、どきっとさせられた。
「それはこの前……」
山田は、急に言葉を濁した。闇の中で、その白い帽子が舞う光景が蘇ったのだ。
「覚えてないの? どうして、こんな時に行き成り」
「何を? あっ、確かトランクの中に仕舞っておいたと思うんだけど。淳二、ちょっとトランク開けてくれる」
「開ける? 待ってくれ。まだ走っているんだから。それに止せよ。そんな古い帽子、詩織には似合わないよ」
「あれ、気に入っていたのね。早くしてよ」
後でいいだろうと説得する山田に、詩織はまるで耳を貸さなかった。山田は急いで車を止められそうな場所を探して、しぶしぶ車のトランクを開けた。夜風が強いのか、辺りの茂みがゴーゴー言って、恐ろしいほどざわめいていた。が、それも一時で、風が通り過ぎると、嘘みたいに急に静まり返って、葉っぱ一枚びくりとも動かなかった。
「開けた? ちょっと見て来るのね」
詩織はそう言うなり、車を飛び出していた。飛び出したのと、さほど時間の経たない間に、誰かが運転席の外に立つのが、山田には分かった。
「やけに早いじゃないか。どう? 帽子無かっただろう」
山田が、そう話し掛けたのは詩織ではなく、薫だった。薫は窓ガラスの向こうから、しきりに身振りで合図をしている。山田に外に出ろと指示しているようだった。
「行き成り、何なんだよ?」
山田がイライラしながら、運転席の扉を解錠した途端に、薫が扉を開けた。薫は唇の前で、人差し指を立てて、しゃべらないようにと示した後に、今度は運転を代われと言っているのだ。山田がぐずぐずしているのを見て、薫は彼を運転席から引っ張り出して、小声で早く後ろに乗ってよと言った。
「何なんだよ」
山田も、薫に釣られて小声になった。薫は既にいつでも車を発進できるように、準備を終えていた。山田はとぼとぼとボンネット前を回って、薫がさっきまで座っていた席へ回っていた。すると、運転席の薫が、また急かすような身振りを、山田に送っているのが見えた。山田はぶつぶつ言いながら、ようやく後部座席に座って扉を閉めた。
エンジンが掛かって、バックにギアを入れたはずが、車は前進し始めた。トランクを覗いていた詩織は、その中には入らずに、車が走った勢いでトランクの扉だけがバタンと閉まった。詩織が何か叫んでいた。それでも薫は構わず、今度はバックで詩織目掛けて、車を突進させた。車は詩織の脇をすうっと通り過ぎただけだった。
「ちょっと、危ないじゃない! 何やっているの?」
今度は、はっきりと詩織の怒った声を、山田は聞いた。
「今度は、外さない!」
薫の険しい怒号も、山田の耳に入った。
「薫、もう止めろよ、そんな事!」
山田は、後部座席から乗り出していた。村井はおどおどしながらも、必死に首を振って、詩織の姿を追い掛けるようだった。止まった車はもう一度、後退し始めた。すぐに停止して、獣が獲物を前に身構える格好になった。たちまち激しいエンジンの響きと共に、車は走りだした。見る見る速度を増して、立ちすくむ詩織を狙って突撃した。バンと衝突の音が聞こえたような気がした。車は詩織を跳ね飛ばすと、急停車した。彼女の体は吹き飛んで、どこかへ消えた。辺りを見回しても、その華奢な姿は見当たらない。その時、急に車の屋根を叩くような音が起こった。
「クソ、あの女。屋根に掴まっている!」
薫は滅茶苦茶にハンドルを回し、アクセルとブレーキを激しく踏み付けている。車が獰猛に暴れだし、山田はあっちこっちに体をぶつけて、悲鳴を上げた。
「もういい加減にしてくれ!」
それでも、詩織は車の屋根から落ちて来なかった。薫も諦めなかった。
「それならいい。ずっとそうしていれば。いつまで持ち堪えられるか見物よ」
車は再び走りだすと、今度は深夜の山道に沿って走り始めた。まるで彼らの車を追い掛けるみたいに、再び冷めたい夜風が吹き始めた。辺りが急にざわめきだした。
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