第15話 詩織の宝物 

 その夜は珍しく、車内が急に騒がしくなった。彼らはしばらく真っ暗な山道に、当てもなく車を走らせていた。どうせ一本道なんだから、帰りは来た所をUターンして戻ればいいという理屈で、考えもなしに走ってきたのだ。騒ぎを聞いた山田は、胸騒ぎに近いものを感じて、後ろの席へ注意を払った。それは、先ほど訪れたコンビニが、すっかり懐かしく思えてきた頃だった。

 原因は、詩織の帽子にあった。つば広の白い帽子で、潮干狩りに海へ行ったとき、彼女が頭に被っていた物だった。詩織は、海岸で常に吹き付ける強風の中でも、両手で帽子のつばを掴んだまま、それを一日中、頭から離さなかった。そんな格好で、どうやって貝を掘るんだよと山田が言っても、これでいいのねと気にしなかった。余ほどその帽子が、気に入っていたのだろう。彼らは潮が満ちるのと同時に、慌ただしく片付けて来たら、詩織の頭に帽子はなかった。山田が尋ねると、あっと気付いて、なくしたのと彼女は悲しい顔をした。それがどういうわけか、車のトランクに紛れていたのだ。皮肉にも詩織の死体を埋めた日、薫が偶然に見つけ出してきた。

「それ、私の帽子!」

 詩織は、火が付いたように叫びだした。まるで分別の分からない、子供のようだった。薫はどこに隠していたのか、その帽子を手にしていた。先日、見つけた物を、薫はそのままずっと持っていたのだろうか。山田は、とっくにトランクの奥に仕舞い込んだのだと思って、すっかり忘れていた。薫は詩織を煽るように、帽子を見せびらかしていた。わざとやっているに違いない。

「ちょっと返してよ。私のでしょう!」

 薫はまるで知らん顔をして、詩織に帽子を返す気もないらしい。しかし、こんな詩織の姿を見るのは、山田には初めてだった。いつもの彼女なら、たとえそれがお気に入りの物だとしても、そんな物もう要らないと言って、捨ててしまうところを、その夜はやけに帽子にこだわっていた。ダッシュボードに掛けた、天神さまのお守りと白い犬のストラップが、もみ合って相撲を取るみたいに、激しく揺れていた。

「意地悪しないで、返してよ!」

 それとも、死んでしまった詩織には、生前の所有物に対する執着心が、生前とは比べものにならないほど強く表れるのだろうか。詩織には、もう新しい帽子を買うことも、流行の洋服を身に着けることもできない。せめて生前の物だけでも、自分の手元に留めておきたいと願うのは当然かもしれないと、山田は思った。

「もういい加減にして! それ、私の帽子なんだから、早く返してったら」

 詩織は、いよいよ必死になって訴えた。両手を広げて、空中に漂う綿毛でも掴むように構えている。薫は、それでも何も答えず、白い帽子を手に持って、そのつばの所を触って、ゆっくりとその感触を堪能したり、詩織の前へ一瞬、帽子を差し出すように見せて掛けて、素早く引っ込めたりした。慌てる詩織の姿を眺めて、からかうのを楽しんでいた。薫は、さも意地悪そうに、その帽子を自分の頭の上に載せようとして、すぐに止めた。何度もそんな素振りを繰り返しているが、決して頭には帽子を被らない。楽しみは最後まで取っておき、詩織にそれを見せびらかしているのだ。

 山田は、そんな詩織が不憫になった。返してと訴える、彼女の言葉が堪らなくなった。山田は、決して返すことのできないものを、彼女から奪ってしまったのだ。

「薫! 返してやれよ」

 山田は、いつになくバックミラー越しに、怒鳴り声を上げていた。それでも、薫は止めなかった。山田の声など、まるで聞く耳を持たないようだ。喧嘩というほどではないが、このまま放置しておくのは、危なくて運転もままならない。

「村井、何とかしてやれよ」

 山田はその時、村井が膝の上で握り拳を作っているのが、目に付いた。それが、何かを忍ぶふうに小刻みに震えているのを見た。村井は唇が乾くのか、一度リップクリームを手にした。震える手では、上手く塗れなくて、唇からはみ出るほどに、口の周りをてかてかに光らせていた。が、それっきり、村井は黙って助手席に座ったままだった。明らかにいつもの村井とは違っていると、山田は不審に思った。

「どうしたんだよ?」

 道は相変わらず見通しが悪く、周囲の様子はまるで確認できなかった。どこまで行っても、道は聞き分けのない子供みたいに、あっちこっちに曲がっていた。適当な場所にたどり着く気色を見せなかった。次に急なカーブに出くわすと、ようやくその先が開けて、わずかに道が真っ直ぐに伸びていた。が、それも少し走ればまた曲っているのだろう。山田は仕方なく急ぐように、車を道の端に寄せた。車が止まると、行き成り扉を開ける音がした。後部座席に、薫は見えなかった。外へ飛び出したのだ。山田は、こんな所で止めたのは、不味かったと後悔した。窓外の闇の中で、薫が被った白い帽子が舞って見えた。それが夢幻のように、山田の目に映った。薫は小走りして行った後、すぐにそこが行き止まりのように、急に立ち止まった。詩織は薫を追い掛けて、車を飛び出した。山田は戸惑って、少し遅れを取った。

「村井、しっかりしろよ!」

 村井は、助手席にじっとして動かなかった。詩織の白い帽子が、再び舞った。突風が白い帽子をさらって、薫の頭から離れた帽子は、そのまま闇の中へ沈んでいった。薫が立ち止まった所は、切り立った崖の縁だった。

「ああ」

 薫の無感情な声がした。詩織がようやく薫に追い付いて、崖下を無言で覗いた。崖下は深い闇に包まれ、何も見えなかった。

「どうしてくれるの、私の帽子!」

 詩織はまだ諦めきれずに、闇の底を見下ろしたまま言った。

「ちょっと薫、聞いてるの! 何とか言ったら」

 その時山田には、薫が詩織の背中を突き飛ばしたように見えた。山田は足を止めた。あと数歩でそこへたどり着けるというところで、詩織の体は風にさらわれた帽子みたいに、崖下へ落ちていった。山田は、あっと叫んだが、声にならなかった。伸ばした手も、詩織にはまるで届かなかった。山田は、彼の体が止まったふうに思えた。薫だけが苦しそうに、肩で息をしているのが分かった。

「ああ、いい気味!」

 山田は、そう聞いた。薫は小さく引き締まった、赤い唇に笑みを浮かべ、いつまでも崖下を眺めていた。山田は何もできなかった。村井もだ。彼らは、ただ傍観する共犯者だった。いや、村井は薫の計画を全て知っていたのかもしれない。山田には、そう思えた。急に崖下のどす黒い所から、突風が巻き起こって、彼らの立った所まで一息に駆け上ってきた。一瞬、落ち葉が舞い上がったように見えた。

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